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アルカナ堂は今日もゆく〜素材屋リュネルの秘録〜  作者: 磨羯瑞花


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第33話 監視対象“リュネル”

リュネルが軍学校での特別演習を終えてから、しばらく過ぎた。

表向きには、すべてが穏便かつ迅速に処理されたことになっている。

事故報告書は形式的なものでまとめられ、原因は「想定外の事象」として片付けられ、関係者への処分は見送られた。

生徒たちは平穏な日常の学びへと回帰し、教官たちは次の訓練計画を、淡々と組み直していく。

だが――

その水面下では、消し去ることのできない峻烈な“違和感”が残っていた。

本来、訓練区域に現れるはずのない、深層の生態系に属する魔獣。

その個体に刻まれていた、人為的操作の痕跡。

そして、それらすべての歪みを瞬時に看破し、教え子たちを誰一人欠けさせることなく生還させた、風変わりな臨時講師――。

……あの錬材師は、一体何者なのか。

その底知れぬ双眸は、世界のどこまでを視界に収めているのか。

軍は、彼が脅威となるのか否かを見極めなければ…



ルキフェリア王国。

その中央都からやや離れた、交易と冒険者の活気に満ちた街。

朝の石畳には、昨夜降り注いだ雨の名残が鏡のように薄く光を反射していた。

街角のパン屋の窯からは、香ばしい小麦の薫りが湯気と共に溢れ出し、

市場へと急ぐ荷馬車が車輪を軋ませる音が、この街の健やかな目覚めを告げている。

その活気ある一角に、ひっそりと、だが確かな存在感を放って素材屋《アルカナ堂》は店を構えている。

客を呼び込むような派手な装飾はない。

だが、扉を開くたびに響く鈴の音は、澄んだ音色で通りに溶け込み、整然と並べられた棚の瓶や袋には、店主の几帳面な性格を物語るように、一点の曇りもない手入れが行き届いていた。

開店して間もないというのに、店内にはすでに数人の客が佇んでいた。

冒険者。

商人。

そして、街の住民。

その平穏な光景を、少し距離を置いた場所から見つめる影があった。

古びた巨木に背を預け、腕を組んで佇む一人の女性。

名を、カリナという。

周囲を威圧することもなく、過剰な警戒を露わにしているわけでもない。

ただ、風景の一部として「そこに立っている」だけだった。

(……これが、“監視役”、なのね)

自嘲気味な独白が、肺から漏れる小さな息と共に消えていく。



――カリナがその任務を受けたのは、数日前の朝のことだった。

軍の施設内、冷たい空気の張り詰めた廊下を、彼女は迷いのない足取りで進んでいた。

規則正しく響く軍靴の音。

時折すれ違う同僚や上司に対し、彼女は流れる様に敬礼をする。

目的の部屋は、長い廊下の突き当たりに位置していた。

その扉のプレートには、ただ簡素に役職だけが刻印されている。

――第三機関司令長室

抑制の利いた所作でノックをすると、内部から返ってきたのは、単調な返事だった。

「入れ」

カリナは扉を開け、入室と同時にかかとを揃えた。

「カリナ・エルゼン。ただいま参りました」

机の向こう側に座していたのは、手入れのいきとどいた白い髭の、壮年の男だった。

背は決して高くないが、椅子に深く腰掛けていても、なお相手を圧倒するような重圧が室内に満ちていた。

男は分厚い書類の束を一瞥し、指先でその端を揃えた。

その淀みのない仕草に、彼の性格の潔癖さが滲み出ている。

「楽にしろ。……と言いたいところだが、まぁ、その緊張を維持したまま聞いてくれ。今回の話は、内容が内容だ」

「かしこまりました」

男は机上に置かれた茶封筒を、二本の指で滑らせるようにして彼女の前へ差し出した。

封はすでに無造作に切り裂かれている。

中に収められているのは、たった一枚の紙片だ。

「今回の任務は――“監視”だ」

一切の虚飾を排した、断定的な命令。

カリナは一瞬だけ、まつ毛を揺らした。

“監視”という任務は、軍務において決して珍しい類ではない。

だが、珍しくないとはいえ、その実態は常に泥沼のような厄介さを孕んでいる。

監視の矛先を敵国や犯罪者に向けるのは容易だ。しかし、“味方かもしれない、あるいは恩人かもしれない相手”にその目を向けるとき、任務の難度は跳ね上がる。

今回は、そのどちらの部類に属するのか。

「対象は――錬材師リュネル。および、彼が営む店《アルカナ堂》。店舗は中央都から離れた交易街にある」

「錬材師……」

「数週前に起こった軍学校の件で、その名を耳にしたはずだ」

ちょっと騒がれていた記録にそのようなものがあったと、カリナは記憶していた。

そこに――“外部協力者”というかたちで招かれた男の名前があった。

司令長は、声音のトーンを一段落として続けた。

「彼に明確な非がある、と断じるための材料は、現時点では皆無だ。むしろ、我々軍部としては彼に大きな借りができた言える。将来有望な学生たちの命も、教育機関としての体面も、彼の采配によって救われたのだからな。

……だが、不都合な事実が一つある。あの極限状況において、誰よりも早く『人為的な介入の痕跡』を見抜いたのは彼だ。そして、その証拠となり得る検体の現物は、我々の管理下にない」

男の指が、重々しく紙面を叩いた。

トントン、と乾いた音が室内の静寂に響く。

「つまり、彼は――“軍部が闇に葬りたいはずのもの”を視界に収めてしまった。そして同時に、“何者かが隠蔽しようとしたもの”をも、掴んでいる可能性がある」

監視の真意は、そこにあった。

彼が何を見、何を持ち帰り、そしてその情報を誰に差し出すのか。

カリナは無言で頷き、差し出された封筒の中身に視線を落とす。

記された命令文は、拍子抜けするほどに簡潔だった。

《対象の観察

 不測の事態、あるいは接触者の発生があれば即  

 時報告せよ》

具体的な理由は一切記されていない。

だが、その空白こそが、この任務が含む最大の危うさを雄弁に語っていた。

「……質問の許可を」

「許可する」

「なぜ、私なのですか。情報の秘匿や潜入の練度で言えば、情報部や、隠密行動に長けた適任者が他にいるはずです」

男は、口角を僅かに歪めて笑った。

それは嘲笑ではなく、ある種の信頼を伴った酷く複雑な笑みだ。

「情報部を差し向ければ、奴らは成果を焦って余計な邪推を生む。隠密のプロを放てば、あの錬材師のことだ、逆に違和感を察知して手を回されてしまうだろう。だからこそ、お前なのだ。軍人としての矜持を崩さず、それでいて、万が一の事態には対象を武力で制圧、あるいは“護衛”しきれる実力者が必要なのだ」

「制圧……あるいは、護衛」

その相反する言い回しが、カリナの胸中に小さな楔を打ち込んだ。

監視命令のはずなのに、“守る”とは。

男は椅子から立ち上がり、窓辺まで歩いた。

眼下の訓練場からは、剣撃の硬い響きが風に乗って届いてくる。

「カリナ。お前は愚直なまでに真面目だ。堅実であり、組織の意向を違えない。……だが必要とあらば、現場の判断で“規律の外側”にある正解を掴み取れる、柔軟な強さも持っている。私は、お前のそういう気質を評価している」

それは甘い称賛ではなく、彼女を試すような鋭い言葉ともとれた。

カリナは、より一層背筋を正した。

「命令があれば、いかなる局面でも完遂いたします」

「……命令がなくても、だ」

男は窓の外を凝視したまま、独り言のように呟いた。

「いいか。この任務は、彼に対する“軍の圧力”ではない。余計な威圧感を与えるな。だが、決してその懐に飛び込むような真似もするな。いわば――“穏やかなる静観”を維持しろ」

矛盾に満ちた、極めて高度な要求。

近づきすぎれば警戒を呼び、離れすぎれば重要な兆候を見逃す。

その、針の穴を通すような絶妙な距離感を保て、というのだ。

「……かしこまりました」

男はゆっくりと振り返り、射抜くような視線をカリナへと固定した。

「最後にもう一つ、付け加えておく。これは単なる軍内部の采配ではない。第2王子――アルデラン殿下の勅命となっている。その為本件に関わる人間はごく限られているし、情報も秘匿となっている」

カリナの肺が、僅かに震えた。

“殿下のご意向”。

それは、この任務が単なる軍の不祥事の後始末ではないことを意味している。

(あの方が、一介の素材屋のために、わざわざ動かれたというの……?)

男は、慎重に言葉を選びながら締めくくった。

「殿下は仰せられた。『彼を敵に回すような愚策は決してするな』と。……そして同時に、『彼の影に何が寄り添うのか、その目で見定めておけ』ともな」

敵に回すな、そして、目を離すな。

それはすなわち、信用に足る人物だと期待しながらも、その巨大な才能がもたらす波紋を、統治者として放置できないということだろうか。

あるいは、彼を信じ抜くためにこそ、周囲の疑念を払拭するための揺るぎない証拠を求めているのか。

カリナは、深く、長く、肺の空気を入れ替えた。

「任務内容を再定義いたします。観察と定時報告。不測の事態における対象の保護、あるいは抑止。圧をかけず、しかし間隙を与えず。……以上で相違ありませんね」

「その通りだ」

男は机に戻り、最後に一枚、さらに薄い紙を差し出した。

それは彼女の立場を規定するものだった。

そこには、一つの馴染みのない部隊名が記されていた。

「臨時でお前をこの部隊に転属させる形式をとる。単独で抱え込むな。監視という行為は、観測者個人の情動に寄りすぎると、必ずその実像が歪む。報告には必ず、複数の客観的な視点を介在させろ」

“歪む”。

監視する側が、対象に対して一線を超えた感情を抱いてしまう可能性。

それが好意であれ、嫌悪であれ、任務という天秤は容易に傾く。

カリナはその書類を恭しく受け取り、魂を込めて敬礼した。

「了解いたしました。――感情を排し、ただ事実のみを持ち帰ります」

男は小さく頷き、彼女が退室しようとしたその背に、ぽつりと重い言葉を投げた。

「カリナ。……あの錬材師は、決して悪い男ではない。だが、世の中には“悪い男ではない者”こそが、最も厄介で残酷な局面を引き寄せてしまうことがあるのだ。それを忘れるな」

その言葉を、カリナは重い重石のように胸の奥底にしまい込んだ。



(穏やかな監視、ね……)

言葉の響きは、確かに耳に心地よい。

だがその実態は、適切な距離感を常に測り続け、対象の観察を完遂せねばならない。

――距離を保て。圧を与えるな。しかし、決して目を逸らすな。

上司の、あの峻烈な声が、耳の奥で何度も反響を繰り返す。

だが、その峻厳な命令のすぐ裏側に添えられていた言葉も、同じように彼女の中に深く根を張っていた。

“守ることもある”。

その余白、その不確定な要素が、この任務の輪郭を酷く曖昧で困難なものに変質させていく。

カリナは、意識を現実の光景へと引き戻した。

ちょうどアルカナ堂の木製の扉が、軽やかな鈴の音と共に開かれたところだった。

店内から、涼やかな風と共にリュネルが姿を現した。

少し癖のある、光を呑み込むような黒曜の髪。

柔らかく、どこか浮世離れした穏やかな表情。

一見すれば眠たげで、無防備にさえ見えるその瞳。

だが、カリナはその奥底に潜む、鋭敏な光を見逃さなかった。

――あの眼差しが眠たげに見えるのは、決して油断しているからではない。

むしろその正反対だ。

極限まで張り詰めた意識の糸を、周囲に悟られぬよう、表情という仮面で巧みに緩めているのだ。

それは情報部の熟練者が用いる、相手を安堵させ、情報を引き出すための“高度な脱力”に酷く似ていた。

「おはようございます。お待たせしました、順番に中へどうぞ」

その声は、春の陽だまりのように柔らかく、しかし店内の隅々にまで過不足なく届く絶妙な響きを持っていた。

カリナは目立たぬよう、懐から携帯式の小型魔道具を取り出した。

客に扮して潜入している味方の視点が、店内の詳細な様子を彼女の鏡面へと映し出す。

一人の冒険者が、赤黒い染みの付いた頑丈な布袋をカウンターへと置いた。

「昨日の狩りの成果だ。状態はそれなりに良いはずだが……見てくれるか」

「拝見しましょう」

リュネルは慣れた手つきで鑑定用のレンズを装着し、袋の紐を解く。

肉の鮮度、繊維の密度、独特の薫り。

骨の断面に刻まれた、欠損の微細な状況。

彼は一切の無駄を排した視線と指先だけで、その素材に刻まれた莫大な情報を一つずつ拾い上げていく。

何より、その道具の扱いがあまりに丁寧すぎた。

丁寧というのは、時間をかけて愛でることではない。

“素材の価値を損なうことなく、最小限の接触で核心を掴む”という、職人の極致だ。

「……なるほど。解体は非常に丁寧ですね。毒腺の引き抜き方も、驚くほど正確です。ただ、この肩口の部位に、僅かですが内出血の跡がありますね。買取価格からは、ここを少し差し引く形になりますが――よろしいですか?」

その説明は、淡々とした事実の羅列であり、そこに一切の駆け引きや誤魔化しは介在しない。

冒険者は一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をしたが、リュネルの淀みのない瞳を見ると、観念したように短く頷いた。

「分かった。文句はねぇ。頼む」

信頼に基づいた取引が、鮮やかに成立する。

続いて、母親の背後に隠れるようにして入ってきた幼い子供が、カウンターを覗き込んだ。

「今日は、何を探しに来たのかな?」

「えっと……この、きれいな、青いお花」

小さな指が指し示したのは、丁寧に乾燥処理を施された、小ぶりな青い花だった。

「それは眠り草の香り袋だね。なかなか寝付けない時に使うんだよ」

「……ほんと?」

「うん。今夜、枕元に置いてごらん。きっと、朝までぐっすりだ」

リュネルは幾つかの花を小さな麻袋に詰めると、差し出された小銭を受け取らずに、子供の手へと渡した。

「……え?」

「これは『お試し用』のサンプルだから、お金はいいよ。もし効かなかったら、次は別の香りを試してみようか。君に合う素材を、一緒に探そう」

母親が恐縮しながら礼を述べる。

子供は、魔法の宝物でも授かったかのように、その花袋を大事そうに胸に抱きしめた。

その一連の光景を、カリナは遠くから冷徹に観察していた。

(……へぇ。王都の店では、まずあり得ない光景ね)

だが、商いとしては成立しているようだ。

無償の提供が、単なる“一方的な施し”になっていないのだ。

「お試し」という形で商品を試させることで、"味や使い心地が分からないものにお金は払いたくない"という不安を減らし、実際に体験して「良い」と確信させることで、購入時の納得感を高めます。

また、粗悪なものを配れば逆効果になるため、試供品を配ること自体が「品質に自信がある」という強力なメッセージになる。

試供品はいわば「撒き餌」ではなく、「信頼関係を築くための名刺」のようなもの。

一度体験して生活に馴染んでしまえば、その客は"リピーター"という店にとって最も貴重な資産に変わる可能性があるのだ。

……上司の、あの不吉な言葉が脳裏をよぎる。

“悪い男ではない者が、一番厄介な局面を連れてくることもある”。

こうして積み上げられた草の根の“善意”は、やがて人々の感情を大きなうねりへと変えていく。

その制御不能な感情の波を、既存の権力構造は、何よりも恐れるのだ。

カリナは、一時的に手元の鏡面から視線を外した。

軍が発行した命令書には、彼を「危険人物」と断定する文言はなかった。

だが、この数時間の観察だけで、彼が“極めて注意を払うべき存在”であることは、疑いようのない事実として確定していた。

素材屋という商売は、その性質上、街の裏社会と表舞台を繋ぐ中継点となる。

溢れる情報、希少な物資、そして多種多様な人間たち。

それらが複雑に交差する結節点に位置するからこそ、統治を司る側は、その距離感を異常なまでに気にするのだ。

(でも、私の目に見えている今の景色は……)

彼女の網膜に映るアルカナ堂は、決して反乱の火種を煽るような不穏な場所ではなかった。

むしろその逆――

それは、滞りかけた街の“循環”を、静かに整えるための器官のように見えた。

冒険者が深手を負えば、適切な治療素材がその手に渡り、商人が供給ルートに窮すれば、鮮やかな代替案が提示される。

市場で余った端材は、無慈想に捨てられることなく、それを真に必要とする誰かの元へと、彼の仲介によって回されていく。

(この街の、目に見えない生命線……なのね)

だが、そのような詩的な感慨を報告書に連ねることはできない。

カリナはあくまで、規律を重んじる軍人だ。

情緒的な感想ではなく、現実と論理に基づいた事実を具申すべき立場にある。

(……私は、一体何を『事実』として報告すべきなのだろう)

書き記すべき事実は、いくらでもある。

客層の多様性。素材の回転率。取引における価格の誠実さ。

……そして、店内に漂う、あの奇妙なまでの“緩さ”。

その「緩さ」は、一見すれば防衛上の脆弱性にも見えるが、この場所においては逆に、誰もが納得する強固な秩序として機能している。

それこそが、軍の常識では最も言語化しにくい、異質な力だった。


昼前。

店の奥に位置する解体作業場から、若い青年の快活な声が響き渡った。

「先生! これ、食えるかな!? 結構いけそうな気がするんだけど!」

魔獣の、……およそ食欲をそそらない部位を掲げた青年が、作業場からひょっこりと顔を出した。

血抜きは完璧に済まされているようだが、素材にはまだ生々しい体温が残っている。

扱いを一歩誤れば腹を下すどころか、命の危険性のある類だ。

声の響きだけで、彼の若さと情熱が伝わってくる。

だが同時に、その声は解体という過酷な労働に、芯から馴染んでいる者の強さを持っていた。

軍の衛生班に志願した新兵でも、最初はこの独特な生臭さに精神を摩耗させるものだ。

吐き気をこらえ、視線を逸らし、それでもなお手を止められない若者が多い中で、これほど平然と声を張り、素材に対して好奇心を向けられるのは、類稀なる経験か、天賦の才能か、あるいは……抗いようのない天真爛漫さゆえか。

「……ソラン、君のそのチャレンジ精神は認めるどね、前に酷い目に遭ったのを、まさかもう忘れたわけじゃないだろうね?」

リュネルの声は、厳しい叱責というよりは、聞き分けのない弟を諭すような、深い慈愛を含んでいた。

「えー、でもこれ、香草と一緒にじっくり煮込めば、いい出汁が出ると思うんだけどなぁ」

「その“煮込み”のせいで、半日以上も寝込んだのは、一体どこの誰だったかな?」

淀みのない即答。

店内を一瞬の沈黙が支配し、次の瞬間、順番を待っていた客たちのあちこちから、堪えきれない笑い声が漏れ出した。

「ははは、そりゃあ止めておいたほうが賢明だな、ソランくん!」

「若いっていうのは、それだけで胃袋まで無敵になれるのかねぇ」

「いやはや、好奇心だけは特級の冒険者並みだ」

常連客の誰かがそう茶化すと、店内の空気はさらに柔らかく弛緩していく。

ソランは照れくさそうに肩をすくめ、素直にその素材を解体台へと戻した。

「……やっぱやめとく。先生が無理矢理飲ませてくる、あの苦い薬だけは、もう勘弁だぜ」

その一言で、場は完全に収束した。

感情を荒らげた者もいなければ、威圧的な命令が下されたわけでもない。

だが、“正しき方向に導かれた”という心地よい納得感だけが、その場にいた全員の胸に確かに残る。

その様子を観測していたカリナは、ある本質的な事実に気づき、戦慄した。

彼は、場を完璧に制御している。

それは決して武力や権威による統制ではない。

誰かが過剰に突出すれば、軽妙な言葉でそれをいなし、誰かが不安げに萎縮していれば、そっと視線を向けて拾い上げる。

(……軍の統率方法とは、対極にある思想だわ)

軍においては、まず絶対的な規律が先にある。

階級があり、命令があり、服従がある。

だが、ここアルカナ堂では、個々の人間が先に存在している。

それぞれが、“自分はここに居ていいのだ”という、根源的な肯定感の中で息をしている。

――それでいて、無秩序ではないのだ。

ソランが独断で危険を冒さなかったのも、客が過度な悪ふざけに走らなかったのも、

まるで目に見えない美しい旋律に従っているかのようだった。

規律が“外部からの押し付け”ではなく、関係者全員の“内なる合意”によって駆動している。

それがどれほど奇跡的なバランスの上に成り立つ、困難な芸術であるか。

軍という、力の統制の最前線を知るカリナだからこそ、その異常なまでの堅固さを痛感していた。


夕方。

陽光が黄金色から深い橙へと色を変え、街路に伸びる建物の影が一段と長くなる。

市場の喧騒は次第に鳴りを潜め、代わりに一日の荷を片付ける、乾いた音が響き始める。

人の波が引き、アルカナ堂の店内も緩やかに静寂を取り戻し始める。

それでもなお、カリナはその場を離れようとはしなかった。

ブーツに包まれた足の裏が、じんわりと痺れるような熱を帯びている。

長時間の立ちっぱなしに伴う、肉体的な疲労の蓄積だ。

だが、それ以上に彼女の心を重く支配していたのは、終わりのない思考のループだった。

報告書は今夜、宿舎でまとめる手はずになっているが、

そこに落とし込むべき適切な言葉が、どうしても定まらない。

――「対象、および店舗の運営状況に特筆すべき異常なし」。

それは事実だ。嘘偽りのない、観測結果そのものだ。

だが、それではこの場所の持つ真の特異性を、何一つ伝えていないに等しい。

――「市井への潜在的影響力、極めて大」。

それもまた、一つの核心を突いた事実だろう。

だが、軍の形式張った報告書の語彙としては浮いてしまう。

数値化できない、人々の結びつき。

命令系統には決して落とし込めない、自律的な調和。

それら目に見えぬ力の実態を、一体どう扱えば、組織は納得するのか。

その時、閉まりかけたアルカナ堂の扉の隙間から、一陣の涼やかな風が通りへと抜けた。

物理的に扉が開いたわけではない。

一日の熱狂が落ち着き、澱んでいた空気が、静かに、そして劇的に入れ替わる――あの独特の瞬間だ。

店内の棚にある瓶が、微かな振動で鳴り、

積み上げられた紙袋の角が、風に撫でられてサリ、と擦れる。

視線の先で、後片付けをしていたリュネルが、ふと、何かに導かれるように外に出てきた。

一瞬の静止。

カリナの視線と、リュネルの瞳が、夕闇の境界で真っ向から交差した。

そこには敵対の意思も、不躾な探りもなかった。

ただ、すべてを、その背後にある事情までも、まとめて深く理解している者の眼差しだった。

(……やはり、気づかれていたのね)

私が、なぜこの街に立ち寄っているのか。

その立ち居振る舞いが、隠しようのない軍人のそれであること。

そして、この場所に向けられているのが、単なる興味ではなく“監視”という名の任務であること。

それらをすべて、彼は最初の一瞥で、あるいはその場の気配だけで“察していた”。

だが、リュネルは不用意に踏み込んでくることはしない。

視線を逸らすことはせず、かといって、馴れ馴れしく距離を詰めることもない。

監視という名の、不器用で一方的な距離感を、そのままの状態として許容する選択。

それは、相手の立場を尊重しているようでいて、同時に、“ここから先は踏み込んではいけない”という、峻烈な境界線を正確に見極めている者の選択でもあった。

カリナは、無意識のうちに己の背筋を、より一層正した。

王国軍人として。

公正なる観測者として。

だが――

その強固な意志の裏側で、小さな、しかし決定的な“ズレ”が生まれ始めていた。

任務という天秤で測るなら、この店は完璧に“安定”している。

だが、一人の人間として彼と対峙するなら、その静かな存在感は、あまりに強大で、測り知れない。

この店は、秩序を乱す危険を孕んでいるのか。

それとも――

その圧倒的な調和ゆえに、予期せぬ巨大な災厄を引き寄せてしまう“器”なのか。

その問いに対する明確な答えは、未だ見えぬ景色の向こう側にある。

だが、確信を持って言えることが、一つだけあった。

アルカナ堂という場所は、当初の想定よりも遥かに深く、この街に根を張っている。

“簡単に切り捨て、排除できるような場所ではない”のだ。

この場所を断ち切れば、街の循環のどこかが必ず詰まる。

詰まれば、見えぬ場所から腐敗が始まり、やがて全体を壊死させるだろう。

監視という名の、冷たくも静かな距離。

それは今日も、崩れることなく保たれたまま、街に夜の帳が降りる。

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