第31話 実践演習③〜試練と覚悟と〜
「――《ラ・アウローラ(夜明けの焔)》!」
絶望の霧を切り裂き、凛とした別の声が空気を震わせた。
それは、周囲を焼き払うような暴力的な輝きではない。
しかし、不純物を弾く“一定の清浄な波長”を帯びた、慈雨のような暖かな光が辺りを優しく包み込む。
カロンの視界に、沈殿していた暗色を払う鮮烈な金色の陽光が差し込んだ。
「ーーっは……これは……霧のど、くが……」
その光に、霧そのものを完全に消散させるほどの威力はなかった。
だが、“毒が見せる幻影の輪郭”を、完膚なきまでに消し去るには十分すぎる力があった。
偽りの街並みは灰のように霧散し、パンの幻臭は消え、忌まわしい笑い声も途絶える。
代わりに――
「おいカロン! 返事をしろ、生きているか!」
荒削りだが、何よりも聞き慣れた信頼の置ける声が、はっきりと耳に届いた。
灰煙の帳を割り、第1小隊の面々がその姿を現した。
「……ネレ、ウス…」
カロンは半ば自嘲的に笑い、そして半ば泣き出しそうな、複雑な表情で友の姿を見上げた。
ーー時は少し遡り
遠く、視界を隔てる白い帳の向こう側で、まるで“霧が爆ぜる”ような微かな戦慄が走った。
肌を撫でる大気の密度が不自然に撓み、張り詰めていた空間の静謐に、鋭い裂け目が走る。
「……第2小隊がヤツと交戦し始めた」
リュネルは指先で宙を弾き、携行していた遠見の術符を励起させた。
魔力の波形を空間に投影し、不可視の異変を鮮明な情報へと変換していく。
投影された霞色の立体地図。
その中央よりやや東側に、淀んだ藍色の渦が疼くように広がっていた。
その渦の中心、魔力の供給源と思われる極小の地点に、およそ生物とは思えぬ悍ましい“何か”の気配が蠢いている。
「ネレウス小隊長」
リュネルの声に、氷のような透明な緊張が混ざる。
その重圧を感じ取ったのか、ネレウスは鋼の芯を通したように、背筋をさらに一段階、鋭く伸ばした。
「はい」
「現時点で判別できる情報を共有します。第2小隊は、峻険な斜面にて“大型の蛇型魔獣”と接触。
周囲のマナ霧は異常な対流を見せ、濃度が致死域まで急激に上昇しています。
――恐らく、“霞毒蛇”(ミストバイパー)である可能性が極めて高いです」
その名が発せられた瞬間、第1小隊の間に「ざわ」と、風に揺れる葦原のような動揺が広がった。
「ミスト、バイパー……そんなものが、この探索区に……」
「ネレウス、知っているのか?」
隊員の一人が問う。
ネレウスは眉間に深い溝を刻み、小さく頷いた。
「……大図書館の魔獣学の本で読んだことがある。確か、“南方ジャングルの深部にのみ棲息する中型魔獣”だとされていたはずだ。
主な脅威は強力な神経毒。そして、周囲の霧を操作して獲物の“視覚を完全に封殺する能力”……」
リュネルは「良く出来ました」と言う様に小さな拍手を送った。
ネレウスは嬉しそうな表情を直ぐに引き締め、隊員達に指示を伝えた。
「全員、手持ちの予備布を取り出せ。首に巻いている防寒用のやつで構わない。水はあるか――」
「さっきの行軍中、岩陰に見つけた小さな清水で採取したものがあります!」
斥候を任されていた生徒が、機敏に声を上げる。
「よし。各自、それで濡らすんだ。乾いた布で鼻と口を隠して、その上から濡らしたやつで覆うんだ」
ネレウスは無駄のない短文で指示を飛ばし、続けてリュネルへと視線を向けた。
「先生、ミストバイパーが放つ毒の効果は?」
この一刻を争う窮地で、教鞭を執るような真似もどうかとは思いつつ、リュネルは淀みなく即答した。
「コイツの毒は、“魔力と精神の接続部”を狂わせます。つまり、脳から四肢へ送られる司令の経路に、暴力的な程にノイズを叩き込むタイプの神経毒です。五感と認識の乖離を引き起こします」
「……だから、幻覚を見せるのか」
「その通り。虚偽の情景、方向感覚の完全な喪失、さらには胸部を圧迫するような呼吸の乱れ。致死量には個体差がありますが――」
彼は周囲を漂う湿った霧を一度、深く肺腑へと取り込み、それをゆっくりと吐き出しながら言葉を継いだ。
「“息を止めて凌げばやり過ごせる”という類のものではありません。
微量でも一度粘膜から取り込めば、ジワジワと全身に毒が回ってしまいます」
学生たちの喉が、緊張のあまり「ごくり」と乾いた音を立てて鳴る。
「だからこそ――“これ以上の侵入を阻む”物理的な工夫を凝らすしかない」
ネレウスは、仲間に濡らしてもらった布を恭しく受け取ると、自らの口と鼻を厳重に覆った。
「全員、俺に倣え。
酸素の取り込みは浅く、胸ではなく下腹部を膨らませるように意識しろ」
「腹で……?」
「そうだ。日頃の魔導鍛錬で繰り返している、“魔力の枯渇を防ぐ為の気息調律法”を思い出せ。あの要領だ」
彼の声には、場数を踏んだ老練な教官のような、不思議な説得力が宿っていた。
いや、教官たちのそれよりも、“仲間の命を背負う必死さ”が滲んでいる分、生徒たちの心へ余計に強く、深く響いた。
「それから――」
彼は腰の装備から、予備の丈夫なロープを素早く引き出した。その端々には、連結用の小さなカラビナが装着されている。
「ここから先の視界不良地帯では、“独断で先行する”ことを厳禁とする。前衛、中衛、後衛の各班ごとに、このロープで互いを連結しろ。万が一誰かが足を滑らせても、必ず隣の誰かが引き戻せるように」
「……そこまで、臆病になる必要があるのか……?」
一瞬、その過剰とも取れる防衛策に疑問を呈そうとした生徒へ、ネレウスは獲物を射抜くような鋭い眼光を向けた。
「ある。“幻覚に魅入られて崖下へ走り出した1人”の命を、ロープ一本の重みで繋ぎ止められるなら、これほど安い対価はないだろ」
情け容赦のない、しかし理に適ったその表現に全員が口を噤んだ。
リュネルは、教え子の頼もしい横顔を見つめながら、心の中で小さく、しかし確かな手応えを感じて頷いていた。
その時、リュネルの結界に歪な反応があった。
(ーーっ!これじゃ間に合わない!)
索敵結界が捉えた毒濃度が危険域に達してきた。
「全員僕を中心に円形に集まって!第2小隊の所まで飛びます」
「えっ?と、飛ぶんですか!?」
ネレウスはリュネルの言葉に度肝を抜かれながらも、小隊の歩みを止めさせる。
リュネルは全員が位置についたのを確認すると、素早く転移魔法陣を展開させる。
蛇と第2小隊の位置を考慮し、安全かつ先手をとれる座標を組み込む。
(転移陣を1人で、しかもこんなに速く…)
ネレウスはリュネルの技に心の開いた口が塞がらなかった。
「転移後は直ぐに防御役と治療役で分かれてください!ーーでは、いきます」
リュネルが短く詠唱し、両手を打ち鳴らすと、魔法陣は青白い光を放ち、次の瞬間には全員の姿はそこには無かった。
「第2小隊、全員、一歩たりともその場から動くな!」
合流を果たしたネレウスは、まず鋼のような声音でそう厳命した。
リュネルが散らしたとはいえ、自分たちもまた、依然として猛毒の霧の支配下にいることを片時も忘れてはならない。
「第1小隊、円弧を描くように前方へ展開。ミストバイパーと第2小隊の間に、魔法障壁を展開!」
第1小隊の隊員たちは、昨日の講義で学んだ生存戦略と、先ほどネレウスから下された指示を胸に刻み、足場を慎重に確かめながら布陣していく。
リュネルは静かに一歩前へと踏み出し、その巨躯を霧の中に潜ませる霞毒蛇と、真正面から正対した。
蛇は、明確に彼を“最優先排除対象”として認識していた。
瞳孔を持たぬ漆黒の穴が、一点の曇りもなくリュネルの身体にある魔核の位置を捉えている。
チロチロと揺れる長い舌先が、空気を媒介に彼の魔力の密度と性質を執拗に舐め取り、その味を確かめている。
「主よ」
ルーガルがリュネルの真横に、影のように並び立つ。
「コイツ、……どうやら“主の魔力の芳香”を、えらく気に入りやがったようだ」
「……へぇ、味の違いが分かるグルメだとでも?僕の魔力は、そう安売りしているつもりはないんだけどね」
リュネルは愛用の杖を舞うように軽く一振りし、長杖へと持ち換える。
「ここから先は、もはや学校の授業なんて枠内に収まる“特別演習”ではありません――生徒諸君、全員、“見て学ぶ”ことだけに全神経を集中させてください」
学生たちに向けたその声は、驚くほど静謐で、凪いだ湖面のように落ち着いていた。
だが、その指先には、魔力回路が爆発的な出力を蓄え、鋭い緊張が奔っている。
「毒気に呑まれ、勝手に動こうとする者がいれば、即座に背後から引き倒して構いません。下手に動いて毒を回すくらいなら、無理やりにでも眠らせたほうが、まだ生存率は高まる」
冷徹とも取れる現実的な言葉を残し、彼は霞毒蛇のテリトリーへと、確かな足取りで一歩踏み出した。
「ルーガルは右から攪乱。オルフェウス、影を飛ばしてヤツの注意を彼らから逸らしてくれ」
「了解した。腹一杯、暴れさせて貰おうか」
「承知。煉獄の影を、あの醜悪な長虫に見せてやろうぞ」
ルーガルは気配を極限まで低く沈めた瞬間、その輪郭を霧の中に完全に溶け込ませた。
音も、匂いも、生命の気配すらも殺す。
そこにあるのは、嵐の前の静けさにも似た、“不自然なまでの無”だけ。
一方のオルフェウスは、生徒たちの守護を担うように陣取り、地表に這う影を巧みに操り始めた。
霞毒蛇の足元――いや、その巨大な腹部が接触している地表面に沿って、粘りつくような黒い帯が、幾重もの鎖となってぐるりと回り込む。
蛇は本来、空気の振動や熱源で獲物を感知するが、オルフェウスが操る影は、実体を持たずとも、そこに確かな“生命の存在”があるという錯覚を強烈に引き起こす。
その効果は、感覚器官が鋭敏な上位魔獣ほど、逆説的に強く作用してしまう。
(あやつを攪乱し、焦燥を誘うだけであればこれで十分。だが、完全にその歩みを止めるには……)
オルフェウスは表情を変えず、淡々と、しかし緻密に自らの職務をこなしていく。
霞毒蛇が、周囲の霧ごと自らの巨躯を大きく振り上げ、第2小隊の生存者たちへ向けて肉薄しようと鎌首をもたげる。
その絶好の瞬間――。
地面の影が、牙を剥く“底なしの泥”のように変貌し、蛇の柔らかな腹部を強引に掴み取った。
ぬちゃり、という生理的な不快感を伴う重い音が周囲に響く。
蛇の機敏な動きが、一瞬だけ遅れた。
そこへ影の中から放たれた、ルーガルの痛烈な一撃が突き刺さる。
霧の帳から飛び出したのは、銀灰の影などという生優しいものではなく、大気を震わせる狼の魂そのもの、物理的な衝撃を伴う咆哮だった。
その凄まじい叫びは、指向性を持った高密度エネルギーの光条として射出される。
蛇は本能的な危機を察し、咄嗟に胴をくねらせて地面を這う姿勢に逃れた。
直撃こそ回避されたものの、光が掠めた部分の鱗は剥げ散り、更にはその奥の肉組織までもが、一瞬にして蒸発し、消し飛んでいた。
「――ッ! €€€#0……!」
受けたダメージの衝撃か、霞毒蛇の動きがわずかに淀んだ。
その動きに連動し、操作されていた霧が乱れ、空間の毒素濃度も部分的に瓦解し始める。
そのわずかな隙を逃さず、リュネルが杖を力強く地面に突き立てた。
「――《メタモルフォ/コンプレス(性質変化/圧縮)》!」
霞毒蛇の巨躯を取り囲む周囲の空気が、見えない万力によって無理やり押し潰された。
霞毒蛇の口から赤黒い血がこぼれた。
蛇の胴体の一部が、凄まじい圧力によってぐっと締め付けられる。
周囲の霧を貪り、力を蓄えようとするその機能が、一瞬にして停止した。
(巨大なだけはあるな。これだけの圧力を掛けても、即座に圧死させるまでには至らないか……。でも、)
蛇は、霧を喰らう。
この不自然な霧そのものが、ヤツにとっての“糧”であり“動力源”なのだとすれば――。
(一時的にでもその供給源となる魔力経路を塞げば、確実な隙が生まれる)
霞毒蛇の頭部が、痙攣したように「びくん」と跳ねた。
その大きく開かれた口から、蓄積されていた濃密な紫煙が、一気に外へと逆流するように吐き出される。
リュネルは、目に見えぬ霧の潮流を読み取りながら、舞うような足取りで距離を詰める。
(やっぱりアイツを何とかしない限りは毒が出され続けるのか。なら、もう出し惜しみしてる場合じゃないな)
彼は愛用の杖へと再び換え、天高く振り上げた。杖の先端が明けの明星のような淡い、しかし透徹した光を放つ。
光の波紋が広がると同時に、一定範囲の空間から、不純物たる毒素が強制的に分離され、消失していく。
霞毒蛇の周囲を鉄壁のように守っていた霧が、目に見えて薄弱なものへと変わっていった。
「ネレウス、今だ!」
リュネルの鋭い号令と共に、ネレウスが爆発的な踏み込みで前方へと飛び出した。
抜刀された双剣が、濁った霧の中で雷光のように白く閃いた。
ネレウスは、一歩目の踏み込みでヤツの視覚器官を狙い、二歩目の滑り込みで顎の可動部へと切っ先を突き立てる。
それは“屠る”ための攻撃ではなく、相手の“機能と動きを制限する”ための、精密な斬撃だった。
(ここで“大金星を狙って首を落としに行く”のは、俺の役目じゃない)
彼は、沸騰しそうな頭脳で冷静にそう自己を律していた。
相手は“未知の変異を遂げた深部種・霞毒蛇”。
自分はまだ、学びの途上にある一介の学生に過ぎない。
この戦場の支配権を握っているのは、あくまで背後に控えるルーガルやオルフェウス、そして比類なき叡智を持つリュネル先生だ。
ならば、俺が為すべきは一つ。“彼らがその真価を十全に発揮できるように”、ヤツの自由を奪い、選択肢を削り落とすことだ!)
風を纏った双剣の刃が、霧を切り裂き、硬質な鱗を激しく叩く。
手に伝わるのは、石を斬っているかのような重い手応え。
だが、研ぎ澄まされた刃は、わずかに、しかし確実に深層の肉へと食い込んだ。
霞毒蛇が、地底から響くような不気味な低音で唸り声を上げた。
周囲の霧が荒れ狂う渦を巻き、必死にその主の傷口を守ろうと応戦し、尾で反撃する。
ギリギリの所で攻撃を避けたネレウスだが、口元の布が一部裂けてしまった。
ネレウスは直ぐに距離をとったが、息が上がっていたためか、霧を吸ってしまった。
ネレウスの意識の中に、“自分の経験には存在しない記憶”が無理やり侵入してきた。
――そこは、地獄のような戦場。
鉄錆と、こびりつくような鮮血の匂い。
絶望に染まった、名もなき兵士たちの悲鳴。
空を覆う黒煙と、瓦礫の山に埋もれたかつての繁栄。
(……っ、なんだ、これは……!)
一度も見たことのない、悍ましい光景。
しかし、何故か“魂のどこかで知っている”ような、耐え難いほど嫌な記憶。
蛇の牙から漏れ出た毒が、脳へこの地に眠る“負の記憶の断片”を強引に流し込んでいるのだ。
「ネレウス! 呑まれるな!」
誰かの叫びが遠くの場所で響いたように感じられた。
その混濁した瞬間に――彼は、自らの頬を、意識が飛ぶほどの力で思い切り叩きつけた。
――ぱんっ!
乾いた衝撃音と、突き刺さるような痛みが、幻覚の世界に鋭い楔となって打ち込まれる。
(俺の“今”あるべき場所は、……ここだ!)
急速に視界が焦点を結び直すと、霞毒蛇の巨大な頭部が、数メートルの距離まで詰めてきていた。
「――俺の道は、俺が決める!」
彼は静かに、しかし決然と呟き、再び双剣をクロスさせるように構え直した。
霞毒蛇は、明らかに“苛立ち”と“警戒”を混在させた反応を見せ始めていた。
霧の中で、蛇の巨躯がのたうち回り、身をよじる。
その顎が限界まで大きく開き、今度は搦め手ではなく“直接的な捕食”を狙ってネレウスへと噛みつこうとする。
「……来いよ」
ネレウスは、一歩も退かなかった。
牙の周囲で、残留した霧が不気味にゆらめく。
だが――。
その死の牙が少年の肉に到達するよりも早く、天から降り注いだ光の障壁が、その間に割り込んだ。
「――《スギア・ルア(疾く護り給え)》!」
リュネルが展開した高密度の光盾が、二人の間に再び壁を作った。
霞毒蛇の牙が、硬質な光の膜の上を空しく滑り抜ける。
魔力と魔力が真っ向から衝突する、金属同士を擦り合わせたような不快な音が周囲に轟いた。
しかし、その光盾に亀裂一つ入ることはない。
「そう簡単に、僕の教え子を喰わせるわけにはいかないな、蛇くん」
冗談を叩きつけるように軽く呟くなかで、リュネルは蛇の“首筋”の特定座標に視線を釘付けにした。
そこには、普通の魔獣であれば決して存在し得ない、うっすらとした異変が刻まれていた。
(…見つけた)
鈍く光る鱗の間に、極細の条が緻密な幾何学模様となって編み込まれている。
既視感のあるその模様に、リュネルは心のなかで盛大にため息をついた。
(やはり、誰かがこれに意図的に『手』を入れている……)
胸の中で、冷たい確信が静かに広がっていく。
だからこそ、本来は現れないはずのこのような訓練区域にまで“深部種”が存在し、凶暴化しているのだ。
「ルーガル、もう一度ヤツの頭部を地に伏せさせてくれるかい。強引にでも」
「任せておけ。次は加減なしだ」
ルーガルは再び影の海へとその身を隠した。
次の瞬間、霞毒蛇の無防備な背中側から、大質量による体当たりを敢行する。
今度は、霞毒蛇のコアそのものを狙い鋭い牙を立て、深く噛みついた。
ルーガルの牙は、物理的な肉体のみならず、“高密度な魔力そのもの”も食い破ることができる。
ルーガルは蛇の首元に噛みつき、地面に押さえつける。
そこへ――リュネルが杖を真っ直に向けた。
「星々は語らず、ただ巡るのみ。
その歩みを乱すものに、静かなる終を。
光よ、理を外れし御魂に寄り添い給え。
星環に捧げ、流転に還せ…
――《アストラ・クラウィクラ(星罰の楔)》!」
四方八方へと走った光の連なりが、霞毒蛇の首から胴にかけてを幾重にもぐるぐると絡みつき、縛り上げた。
蛇は、天を仰いで苦悶の絶叫を上げた。
「ネレウス! 今だ!」
「はいッ!」
弾かれたように応じたネレウスの双剣が、空中で美しい交差を描く。
リュネルは目を細め、指先を小さく踊らせた。
「――うおおおぉぉッ!」
湿った大気を切り裂き、鈍い、しかし確かな破壊の手応えが掌に伝わる。
堅牢な鱗と強靭な肉を突破し、霞毒蛇の頭がネレウスの刃によって無慈悲に断ち切られた。
霞毒蛇の全身から、それまで維持されていた不自然な活力が一気に抜け落ちる。
蛇の巨躯は、霧の中でゆっくりと、抗う力を失って崩れ落ち、やがて冷たい泥土の上に横たわった。
「……終わった、のか……?」
誰かが、震える声で恐る恐る呟いた。
ネレウスは、肩で激しく息をしながらも、双剣を鞘へと納め、蛇の死骸を静かに見下ろした。
ほぼ口が顕になった濡れた布越しに、慎重に空気の様子を嗅ぎ取ってみる。
さっきまでの、意識を刈り取るような強烈な甘苦さは、すでに霧散していた。
「まだだ、決して油断しないように」
リュネルが、厳しい声音を崩さずに声を掛けた。
「毒は“空中を漂う霧”の中だけにあったわけではありません。周囲の土壌、生い茂る草木、そして君たちが今着ている軍服の表面にも付着しています。ここで“勝利の雄叫び”を上げて不用意に深呼吸などしたら、それこそ一生の笑い話にもなりませんよ」
冗談めかした言い回しだが、その中身は生徒たちの安全を案ずる真剣そのものだ。
「応急処置は済んでますね。では準備でき次第、この区域から速く移動しましょう」
第三小隊からは、冷静沈着なミレイユが合流していた。
「先生。こちらから観測した限りでは、森林の“中心域”を覆っていた異常な霧も薄くなっているようです」
「ありがとうございます。――オルフェウス、周囲の反応はどう?」
「中心域にあったあの不気味な“口”は、無くなっているようだな。今は問題なかろう」
影を通じた精緻な観察結果を受け、リュネルは深く頷いた。
彼は再び、蛇の首筋に残された、焼け焦げたような“符”の痕跡を凝視した。
鱗の隙間に焼き付いた、黒い魔術回路の断片。
それは明らかに、高度な魔導技術を持った“人間の手”による恣意的な加工の跡だった。
「先生」
ネレウスが拭えない違和感を抱えながら、おそるおそる声をかける。
「……コイツのサイズ、図録に載っていた平均的なものより、あまりに大きすぎませんか?」
「そう。これは、もはや一般的と呼べるカテゴリーを逸脱している」
リュネルはいつも通り、素材を品定めするときのように答える。
霞毒蛇の体表にそっと手をかざし、残留している魔力情報を読み取る。
そこには、豊かな自然の中で育まれたものとは異質なノイズが混ざり込んでいた。
人工的で、どこか無機質な。
紛れもない、人の手によって弄られた残留思念。
胸の奥に石のような冷たい確信が、音を立てて落ちていく。
「先生」
ネレウスが、今度はその核心を突くように、もう一度呼んだ。
「これは……不可抗力による“事故”なのでしょうか。それとも……」
リュネルはわずかな沈黙を置いてから、慎重に言葉を選んで答えた。
「“まだ、断定を下すには情報の破片が足りない”……。それが、今の精一杯の回答です」
彼は少しだけ目を細め、霧の先を睨んだ。
「でも、これが“ただの不幸な偶然”の積み重ねだと笑い飛ばせるほど、僕は楽観的な性格ではないんですよ」
ネレウスは、その静かな言葉の裏にある「警告」を感じ取り、強く唇を噛みしめた。
「とにかく、今は“全員の生還”を絶対の優先事項とします。
この個体は貴重な標本として持ち帰ります。必要であれば正式な軍のルートを通じて、徹底的な調査を依頼するかもしれません」
リュネルが蛇の巨躯に手をかざすと、虚空に現れた金色の光の穴へと吸い込まれるように、その体は収納空間へと速やかに収容された。
これは将来の危機を未然に防ぐための分析調査が目的であり、断じて、だ・ん・じ・て、珍しい素材を丸ごと手に入れようという私欲によるものではない。
あくまで、純粋なる調査の為の回収である。
治療役の報告を受け、処置が必要と判断した負傷者は4人だった。
1人は、最初に不意を突かれてふくらはぎを咬まれ生徒。
2人目は、霧の中に充満した毒を大量に吸い込んでしまったらしく、息苦しさと、手足の痺れを訴える生徒。
3人目は、極限のパニック状態で足を滑らせ、岩場に腕を強く叩きつけ、骨を痛めていた。
「脈拍、異常に速いです!」
「指先が、氷のように冷たくなって……」
「先生……吐き気が、止まりません……!」
半ば泣き声のような悲壮な訴えが響く中、リュネルの落ち着いた声が、その場のパニックを鎮めるように割り込んだ。
彼は負傷者たちの傍らに跪き、手早く、しかし確実に一人ひとりの状態を確認していく。
「最初に噛まれた方は……毒が全身に回り始めていますが、まだ間に合う範囲ですね。最初の処置が良かったようだ」
彼は腰に提げた携帯薬包から、手のひらに収まるサイズの小さな琥珀色の瓶を取り出した。
中には、月の光を閉じ込めたような、薄く黄金色に煌めく神秘的な液体が満たされている。
「これは、魔導神経毒を中和するために調合した、特殊な解毒剤です。決して万能の神薬ではありませんが、“毒素が神経へと及ぼした影響”を治癒し、魔路も浄化することができます」
「そんな希少なものを、お持ちだったんですか……?」
「持っているというか、調合は自分でしています。探索区では何があるか分からないですから」
彼は軽く微笑み、迷いのない手つきで傷口の周囲に液体を直接塗り込んだ。
続いて、別の小瓶から純白の粉末を取り出し、自身の水筒の水で素早く溶かすと、それを負傷者に経口投与する。
「非常に苦いですが、助かるなら安いものでしょう。さぁ最後まで飲み干してください」
「う……っ、にが……っ、これ、本当に苦いです……っ!」
「“苦い”と感じられるなら、まだ大丈夫な証拠です。万が一、味覚すら消失してしまったら、それはそれで別の大掛かりな処置が必要になるところでしたからね」
適切な軽口を交えながらも、その指先は一分の狂いもなく、完璧な応急処置を施していく。
呼吸の乱れている生徒には、吸入タイプの粉薬を与え。
また肺の機能を補助し、筋肉のこわばりを和らげるための簡易的な魔法を施した。
胸の辺りに淡く清涼な風が流れ込み、こわばっていた組織が少しずつ柔らいでいく。
腕を痛めた生徒には、骨折の有無を透視魔法で確認しつつ、鎮痛薬を塗布。
その場にある資材で、患部を安定させるための簡易的な固定具を魔法で生成し、腕を保護した。
「リュネル、先生……」
そして処置が必要と判断した4人目ーーカロンが、枯れた掠れ声で、その名を呼んだ。
「俺は……隊長として、ちゃんと皆を、守れていたんでしょうか……?」
「“守れていた”かどうかを評価するのは、この場にいる全員が、学校の門を無事に潜り抜けた時に判断します」
リュネルはカロンの肩にそっと手を置き、短く、しかし力強く続けた。
「でも、“今この瞬間までの君の判断”は、決して間違っていませんでしたよ。
布で顔を覆い防御を固めたことも、幻覚に対して呑まれる事なくみんなを守った事は、十分評価に値します」
それを聞いたカロンは、満足げな笑みを浮かべながらゆっくり目を閉じた。
「はい、カロン君眠りたい気持ちはよく分かるが、君が1番重傷だ。コレを飲みなさい」
リュネルは穏やかな表情ではあるが、左手の回復薬をカロンの頭に浴びせ、右手におどろおどろしい色の液体が満たされた試験管を持っている。
それからの処置の様子をみていたネレウスは、初めて友人に同情した。
「解毒の事後処置は問題ありませんか?」
治療役を担ってくれたミレイユが質問を挟む。
「最初の方の脈も安定してきています。他の2人も、この場での応急処置で今のところ問題はないでしょう。もちろん、帰還後には医療官の診察と解呪を受けてもらいます。もちろんカロン君もね――さぁ、とりあえずベース地点まで移動しましょう」
リュネルは立ち上がり、襟元に固定された魔導通信機に軽く触れた。
「――ギルバート大尉、聞こえますか。霧が晴れ、通信品質が改善されているはずです」
『……ああ。聞こえている。こちらもベースキャンプで、映像を注視していた。――正直なところ、私の寿命が数年縮む思いだったぞ』
通信機から、安堵と苦笑が混ざり合った、苦い声が返ってくる。
『解毒の進捗と、離脱の手筈は整っているか?』
「こちらでの応急処置はすべて完了しました。
現在地から最も近い転移陣までの、最短かつ安全ルートを、ナビゲートしてもらえますか?」
『すでに算出済みだ。アルデラン殿下からも、“生徒一人たりとも欠かすことなく生還させろ”との厳命を賜っている』
「それは実に心強い。あぁ、それから、他の教官たちにも、即時の撤収指示をお願いします。不自然な霧の乱れによって、座標を見失いかけているようですから」
通信の向こう側でギルバートが軽く咳払いをし、眉間に皺を寄せて渋面を作っている光景が、リュネルには容易に想像できた。
『……例の、“蛇”はどうなった』
「ええ、こちらで回収しました。個人的に少々、その構成を分析してみたい事柄がありましたので……。それと、現時点での見解ですが、コイツが“完全な自然発生種”である可能性は、限りなく低いとだけ付け加えておきます」
数秒の、重苦しい沈黙が回線に流れた。
その後、ギルバートの声が一層、重く低いものへと変わった。
『……そうか』
「詳しい分析結果については、戻ってから。今は帰還が先決です」
『了解した。――リュネル様。……お見事な、ご采配でした』
「それは、“全員が無事に家路についた後”にお願いしますよ」
通信を切り、リュネルは毅然とした態度で振り返った。
「さぁ、皆さん、まだ終わりではありませんよ」
学生たちが、その言葉の意図を汲み取ろうと目を瞬かせる。
「“敵に勝った”後に、“いかに慢心せず安全に帰るか”。それもまた、立派な戦いの一部なのですから」
ネレウスは、そのリュネルの教えを噛みしめるように、小さく笑みをこぼした。
「……了解です。じゃあ、ここから先は――“俺たちの仕事”ですね、先生」
「ええ。僕はまた、“少し後ろから口うるさく助言する役”に戻らせてもらいます」
彼らは、負傷者を陣形の中央に配置し、三つの小隊が密に連携して守るように動き出す。
周囲にはまだ、薄っすらと白い霧の残滓が漂っているが、その色調は先ほどまでの不気味な色を脱し、穏やかな白へと戻っている。
一歩一歩、足元の確かめながら、彼らはベースまでのルートを行く。
その帰り道は、行きよりもずっと長く、そして険しく感じられた。
だが――。
彼らが踏み出す一歩一歩の足音には、この死地を乗り越えた者だけが持てる、以前とは決定的に異なる“確かな自信”という重みが宿っていた。




