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アルカナ堂は今日もゆく〜素材屋リュネルの秘録〜  作者: 磨羯瑞花


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第30話 実践演習②〜隊長として〜

一方その頃――。

第2小隊を率いるカロンたちは、第1小隊が選んだ平坦なルートとは対照的な、高低差の激しい峻険な斜面地帯を突き進んでいた。

そこでは、巨木の根が幾重にも重なり合って自然の階段を形成し、その暗い隙間からは冷涼な湧き水が絶え間なく滲み出している。

「足場が悪すぎるだろ、ここ……! 踏ん張りが効かねぇ!」

湿った苔に足元を掬われそうになりながら歩を進める生徒たちからは、隠しきれない不満が漏れ出る。

「無駄口を叩くな。こういう予測不能な地形こそ、俺たちの真価が試されるときだろ」

カロンは、重い装備を背負っているとは思えないほど涼しい顔で言い放った。

木々の中程、傾斜が一段と厳しくなる箇所に辿り着くと、肩に掛けていたロープを手際よく太い枝へと固定し、確実な結び目を作る。

そして、不安げな仲間たちを1人ずつ、安全な下方へと導いていった。

この辺りの霧は第1小隊の周囲に比べれば希薄だが、その代わりとして樹木の密度が異常に高い。

折り重なる枝葉が生み出す濃密な影から、いつ、いかなる牙が飛び出してもおかしくない閉塞感があった。

カロンは作業の合間、ふと遠方の霧の先へと意識を向けていた。

(……ネレウスの奴らは、どう立ち回ってる。あいつのことだ、効率的に進んじゃいるだろうが……)

彼は彼なりに、学年主席であるネレウスの実力を、ある種の敬意を持って意識している。

負けたくないという稚気じみた対抗心も、この極限状態においては嘘偽りのない本音だった。

「カロン、集中しろー」

「……分かってるよ」

カロンの僅かな動揺を察したのか、最後に降下しようとしていた副官役の生徒に静かに窘められた。

唇の端で短い返辞を返しつつも、その脳裏では昨日のリュネルの言葉が重く反響していた。

『優れた魔導師ほど、大気中の不純物に感覚を狂わされやすい。だからこそ、“力を温存し、機を待つ勇気”も必要なのです』

(……力を出し惜しみする勇気、か。今までの俺ならそんな事ぜってー考えない事だな)

それを自覚できているという一点において、彼は既に、昨日の自分を一歩踏み越えていたのかもしれない。

一方、第3小隊――ミレイユたちは、冷たい湿気が足元から這い上がる低地ルートを静寂の中で進んでいた。

「……見てください。水面に薄く、虹色の油膜が浮遊しています」

ミレイユが指摘するまでもなく、水溜まりには異様なぬめりが漂っていた。

「毒ですか?」

「おそらくは、特定種の魔獣が分泌した体液と、腐敗した植物の成分が混合したものでしょう。飲料水としての適性は皆無です。ここは迂回し、高台へとルートを修正しましょう」

彼女の声色は、恐ろしいまでに冷静だった。

表情を一切崩さずに環境の微細な変化を読み解き、最善の安全策を選択していく。

彼女の周囲でも、大気中の魔力の流れは確実に一つの“中心点”へと向かって収束を始めていた。

その未知の消失点を包囲するように、三つの小隊は薄い扇形の陣形を形成しつつあった。


その動向を、探索区ベース地点のギルバート大尉は、魔導投影機越しに監視していた。

「……各個の判断は、現時点では概ね妥当。悪くない布陣ですね」

『そうですね。やはり、彼をこの演習に招聘したのは正解だった』

姿なき声、正確にはギルバートのみに聞こえる念話だ。

アルデラン王子も王宮の自室にてギルバートと同様に淡いディスプレイを眺めている。

『王子、彼らの立ち回りをどう評価されますか?』

「今のところは、まだ“教わった知識をなぞっている”と言ったところだろうか。これが、彼らの想定を遥かに凌駕する事態に直面した際、どのような変貌を遂げるか……。それこそが、彼らに求められる事ですよ」

王子は残酷なまでの期待を込めて、微かな笑みを浮かべた。

その時、投影機から漏れ出るノイズの合間に、リュネルの静かな、しかし峻烈な戒めが風に乗って聞こえたような気がした。

『任務という名の理想を語る前に、まずは泥を啜ってでも生き延びなさい』

(……頼むよ、リュネル)

アルデランは握りしめていた拳に、無意識のうちに力を込めていた。

「あんまり、無謀な真似はしてくれるなよ」


第1小隊の足取りは、その後も表面的には順調そのものだった。

ロビンの小さな失態を除けば、行軍を妨げるほどの障害は発生していない。

しかし――事態は、音もなく、それでいて決定的に変質し始めていた。

「ん?……やっぱり妙だ」

 ネレウスが何かに気づいたのか低く呟いた。

「ネレウス?どうした?」

ロビンがそっとネレウスに尋ねた。

「さっきから、魔力の密度が一定じゃない気がする。濃淡が周期的に、まるである種の意志を持って入れ替わっているように感じる」

「魔力が、か?」

「あぁ。……ええと、分かりやすく伝えるのが難しいな――」

ネレウスは静かに瞼を閉じ、霧の中に溶け込むように五感を研ぎ澄ませた。

「霧が膨らみ、そして窄まる。それを絶え間なく繰り返しているような……全体が一つの大きな、目に見えない器官のように動いている感覚、かな」

「いや、分からんよ」

ロビンの反応に僅かな苛立ちを隠せないネレウスは、こんな時あの人に聞けたら、と見えない人影を無意識に探してしまう。

その様子をリュネルは微笑ましさを少し滲ませた表情で木の上から見守っていた。

《あやつ、中々に鋭いではないか》

オルフェウスの声がリュネルの隣に降りてくる。

「本当に優秀なんだと、思わせてくれるよ。

 ………それにしても」

リュネルは自身に蓄積された膨大な知識の目録を、超高速で捲り始めた。

恐らく、彼が抱いた仮説のどれかは正解だろう。問題はどの程度の脅威がその裏側に潜んでいるかだ。

《主よ》

影の中から、ルーガルが警告の唸りを上げる。

《右前方、およそ5km先。霧の流れが、一箇所だけ不自然になっているぞ》

「……僕の目では、まだ捉えきれないね」

リュネルは目を凝らすも、大気中のマナが干渉しているのか、遠見の術ですらその焦点がボヤけている。

《肉眼では見えませぬ。嗅覚すらも曖昧だ。霧に溶けて散らばっているようだ。だが、明確な『個』としての気配が、そこにあることだけは断言できる》

「オルフェウス、君にはどう見える?」

《影の濃度が、周囲と隔絶して高い箇所が一点》

オルフェウスの念話は、冬の月光のように凍てついていた。

《光が差し込んでいるはずなのに、そこだけが絶対的な“闇”の空白となっておる。そこで何かが、口を開けて待っているのではないか?》

濃い霧の奥で、乾いた何かが摩擦するような異音がした。

それは、過敏になった精神が生み出した幻聴かもしれない。

だが、ネレウスもまた、全く同じ方向へと畏怖めいた視線を向けていた。

「あそこには、確実に――“何か”が潜んでいる」

その確信に満ちた言葉が放たれた瞬間、遥か遠方の斜面地帯から、短く、切り裂くような悲鳴が届いた。

「――っ!」

その声が発せられた方位、距離、そして反響した音。

リュネルは脳内でそれらを瞬時に演算し、即座に状況を定義した。

(第2小隊か?)

《ーーギルバート大尉、確認できますか?》

リュネルはギルバートへと連絡を飛ばす。

監督役の教官たちも動いてはいるだろうが、この密林、そして異常な霧の中では、合流までに致命的なロスが生じる。

《ーーこzzzはーー確zzzーーーューーまーーzzz》

ギルバートの声はノイズばかりで聞き取れなくなっていた。

(霧の影響が魔導通信にまで……)

リュネルは悩んだ。

生徒達の安全を100%保証できないこの状況は自分が介入するべきではないのか。

こういった不測の事態でこそ、生徒達の成長の為手を出さない方が教育として良いのではないのか。

しかし、この状況は訓練と呼ぶにはどうなのかと。軍人とはいえまだ学生、彼らはまだ子供なのだ。

軍人では無い人間には口出し無用と嗜められるのか。

いや、今回の特別演習の責任者としては、生徒達の安全を第一に考えたい。

何より………生きて帰れと教えたのは、他ならぬ自分だと。

リュネルの中で激しい葛藤が渦巻く中、第1部隊に動きがあった。

「小隊、その場に停止」

ネレウスは腕を挙げ、小隊の歩みをとめた。

「ネレウス!今の声、第2の奴らじゃないか?」

「…あぁ、多分そうだ」

(どうする……。助けに行くべきか?だが、危険にみんなを巻き込むのはどうなんだ……)

ネレウスは思考を巡らせる。

その表情は険しく、唇も強く噛みしめている。

これまでの自分なら任務を優先しただろう。 

だが、今は違う…… 

「…行こう」

「ネレウス?」

「第2小隊を助けに行こう!」

ネレウスは意を決した表情できっぱりと言い放った。

「でも、ミッションはどうする?」

「隊を分けるのは危険だし…」

「第2小隊が本当に危ないとも限らないだろ?」

隊員からは不安の声があがる。

「みんな講義を忘れたのか?全員で生きて帰るのが最優先だろ。…責任は俺がとる」

全員がハッとしてネレウスに注目する。

「助けに行くと決めたのは俺だ。…隊長として、俺が判断した」

その様子を見ていたリュネルはきっととても柔らかい表情をしていただろう。

しかし、リュネルの中に和やかムードが来るかと思いきや、それを一蹴する様な気配をリュネルは察知した。

リュネルはその気配に一瞬で判断を下すと、視線とハンドサインで2匹の使い魔に指示を出し、木から飛び降りた。

「ーーいい判断だと思いますよ、ネレウス隊長」

濃い霧の中、急に上から降りてきたリュネルに生徒達はまた声をあげた。

免疫のない彼らにはまだ慣れない事だから仕方がない。

「ーーっあの、リュネル先生。…急にでてくるのは、その……心臓にわるいので」

ネレウスは申し訳なさそうな態度で、視線を少し外して言った。

「失礼、こう霧が濃いと驚かせてしまいますね」

リュネルは穏やかに言う。

「…さて」

その一言で彼のまとう雰囲気が変わり、その場の全員そ背筋が伸びた。

「少々状況が変わったので、今回のミッションを変更します」

ネレウス以下隊員たちは、姿勢を正しリュネルの声を真っ直ぐに聞く。

「本来の目的を現時点をもって放棄、全員の生還を本実習のクリア条件とします。では、これよりより第2、第3部隊と合流しベース基地まで移動。学校へ帰還した時点で実習終了とします」

リュネルの言葉が終わり一拍空いたところで、第1部隊全員の返事が響いた。

「発言の許可を願います!」

ネレウスが腕を真っ直ぐに挙げる。

「どうぞ」

「ここからはリュネル先生にも同行して頂けるのでしょうか!」

ネレウスは真っ直ぐにリュネルを見る。

「…先ほども言いましたが、状況が変わりました。ギルバート大尉や他の教官との魔導通信も不通に。そして、招かれざるお客がいるようなので、君たちの安全を保証する為、私も同行します」

ネレウスは一瞬嬉しそうな表情をして、直ぐに引き締めた。

「ーーよろしくお願いいたします!」

「「お願いいたします!!」」

全員が最敬礼をリュネルへと向けた。

リュネルは歯痒いような、落ち着かない感情を覚えたが、それを一旦心の隅に置き、大きく頷いた。

そこからは、リュネルを先頭に2列縦隊で周囲を警戒しながら進んだ。

霧はどんどん濃くなり、嫌な気配はネレウス達でも感じ取れる程となってきた。

隊全体が緊張の面持ちで歩く中、リュネルは隣のネレウスへとそっと声をかけた。

「……コレは任務とは関係ない質問ですが」

「えっ?あ、はい」

ネレウスはリュネルを2度見する。

「君が、第2小隊を助けようと決断した理由を聞いても?」

「えっと…」

ネレウスは、己の拳を白くなるほどに強く握りしめた。

――彼の脳裏には、カロンの無骨な貌が浮かんでいた。

不器用で、常に真正面から困難に体当たりしていく、第2小隊の隊長。

どこか自分自身の鏡像を見ているような、放っておけない男。

(……あいつが、今のこの状況下で、冷静さを保てている……とは思えない)

迷いの果て、ネレウスは力強く顔を上げた。

彼は深く、肺の奥まで霧の冷たさを吸い込み、決意を言葉に紡いだ。

「……先生は、“最優先は自分と部下の生命だ”と仰いました。それは、我々第1小隊だけでなく、第2、第3小隊の全員にも等しく適用されるべきだと思いました」

リュネルは表情を動かさず、ただネレウスの言葉を続けさせた。

「ここで傍観し、仲間を失う事態を招けば、俺はこの先も、指揮官としての自分を許すことができない。それに――」

ネレウスは、僅かに不敵な笑みを混ぜた。

「“無謀に突っ込む”ことと、“勝機を見極めて助けに行く”ことは別物です。ルートを慎重に見定め、撤退のラインを明確にした上で、その…、可能性があるならば……俺は、彼らを見捨てたくありません」

リュネルは、その言葉をじっと咀嚼していた。

「なるほど…」

彼は満足げに頷いた。

リュネルは杖を軽く構え直し、彼らは霧の深淵へと静かに足を踏み入れた。


リュネルは索敵用の魔力結界をさらに広げ、霧の流れに己の意識を同調させた。

霧の中心というのは、物理的には存在しない。

しかし、魔力の拍動と霧の不自然な流れが、そこに明確な『生命』が存在することを示していた。

一定の、ゆったりとした伸縮。吸入し、排出する。

それは、この森そのものが巨大な生き物であるかのような錯覚を抱かせる。

《主よ。これ以上接近すれば、あの『舌』に触れられることになるぞ》

ルーガルが、嫌悪感を露わにした声音で警告した。

《あれは魔力を好んで舐め取る。膨大な魔力を内包するお主は、連中にとって最高の御馳走だろうな》

《ご馳走……そうか、………なんかイヤだな》

オルフェウスの冷ややかな愉悦を含んだ念話を受け、リュネルは苦笑を漏らしながらも歩みを進めた。

濃い霧が立ち込める森で、未知の情報を一つでも多く毟り取る。

リュネルはふと、足元の土の変化を感じた。

(急にマナが減った…… ここだけマナの窪みが出来ているのか?いや、周辺の植生では魔力を大量に消費する種は無かったはず……。と、するとコレは魔獣の仕業…?)

ここは周囲よりも僅かにエネルギー密度の低い、魔力の窪地となっていた。

《…主》

ルーガルの声に、珍しく迷いの色が混じっていた。

《ここは……本当に、ただの“軍の演習地”なのだろうか?》

《……そのはず、だけどね》

軍学校が管理しているはずの探索区。

リュネルは、一度だけ深く空気を肺の奥へと吸い込み、知識の宮殿へと意識を飛ばしかけた、その刹那――。

彼の身体を氷の刃でなぞられたような冷徹な感触が駆け抜けた。

視線だ。

霧の最奥から得体の知れない“何か”が、明確にこちらを捉えている。

生温い舌先が、己の皮膚の一枚外側の境界を舐め回すような、悍ましい感覚。

ぞわりとした悪寒が、脊椎から後頭部へと一気に突き抜けた。

(……コイツは、よろしくないぞ)

リュネルの中で解が出た。

この霧の中に潜む脅威の正体が判明したのだ。

ルーガルが、喉の奥から地響きのような唸りを漏らす。

《主よ。あれは……極めて質の悪い存在だぞ。何故あんなものがここに居るのだ》

《第2小隊がもしアレと出くわしているなら、急がないと…》

リュネルは小さく息を吐き出し、気持ちを落ち着ける。

「みんな、止まらずにそのまま聞いてほしい」

リュネルは霧の先を向いたまま、生徒達に言葉を投げた。

ネレウス達もまた、指示通り足を止めること無く、リュネルの言葉に耳を傾ける。

「恐らく、第2小隊は何かに出くわしています。そして、それはかなり危険なヤツです」

生徒達が明らかに動揺した。

「…当てが外れてくれたら幸いですが、こういう場合…」

「先生のカンは当たるのでしょう?」

ネレウスは少し意地の悪い顔をしていた。

無理に笑っているようにも見えるが、自身の不安を表に出さないように努めているのかもしれない。

「…そうですね。僕のカンは大概当たってしまう。ーーなので、第2小隊に合流したら、直ぐ戦闘になると思います。その場合、僕の指示通りに動いてください、出来ますね?」

「「はい!!」」

生徒達の表情には不安が見え隠れするが、頼れる"先生"が付いているという安心感がそれを上回り鼓舞させる。

一方のリュネルは、

(――この“違和感”の芽を、放置して帰るわけにはいかない。すべてが一本の糸で繋がっているかは分からないけど……どれも、見過ごせない事には変わりはない……)

だからこそ――まずは目の前の若者たちを、欠けることなく生還させる。

それが、今の彼に課せられた、唯一にして最大の使命だった。


第一小隊がリュネルと合流した頃。

カロン率いる第二小隊は、斜面地帯の丁度中腹に差し掛かっていた。

剥き出しになった巨木の根が複雑な段差を作り、湿った岩肌がところどころで牙のように露出している。

霧は若干薄いものの、その分純粋に地形がもたらす物理的な危険が牙を剥いていた。

「足を揃えるな! 常に“三点支持”を意識しろ。重心を低く保て!」

カロンの怒号が、湿った空気の中に響き渡る。

前衛の生徒が一本の根に慎重に足をかけ、岩の突起を掴み、ロープの張力を利用して軽快に体を引き上げた。

「はいっ!」

その動作自体に淀みはなかった。だが――。

その刹那、――ぴしゃり。

何か柔らかい粘膜のようなものが、剥き出しの脚に叩きつけられるような異音が響いた。

「……え?」

直後に、皮膚を鋭く割るような微かな感触。

次の瞬間、ふくらはぎに熱鉄を押し当てられたような焼けるような激痛が走る。

「いっ……!!」

それはほとんど反射的な悲鳴だった。

激痛に意識が飛びかけ、支えていた足が滑り、体勢が劇的に崩れる。

「おい、しっかりしろ! 手を離すな!」

カロンが咄嗟にロープを渾身の力で引き、傍らの仲間が腕を掴み上げることで、辛うじて滑落の惨事は防がれた。

だが、彼らの視線は即座に彼のふくらはぎへと吸い寄せられた。

頑丈なはずの軍服が鋭利に裂け、そこには二箇所の小さな穿孔が開いていた。

そこから、じわりと、どす黒い変色を伴った血液が滲み出している。

「噛まれたのか……? どこに何がいる!」

仲間の一人が周囲を必死に索敵するが、そこには沈黙する樹木と霧があるのみだ。

霧があざ笑うかのようにさらさらと流れていく。

一瞬、長い尾のような残像が見えた気がしたが、瞬きをする間にそれは大気へと霧散していた。

「カロン隊長!」

「噛まれた奴を、まずは安定した場所まで引き上げろ!まずは毒を吸い出せ!それから 止血と解毒を急ぐんだ。おい、解毒剤は――」

「ここにあります!」

1人が傷口へ何度か吸い付き、赤黒い唾を吐き出す。

「おい、口ゆすいどけ」

カロンは傷口を吸った隊員へと水筒を渡した。

救急セットが震える手で開かれ、火傷のように赤く腫れ始めた傷口に魔法薬が塗り込まれていく。

だが、カロンの眉間の皺は、一層深く刻まれることとなった。

(……腫れ方が速すぎる。これは尋常じゃない)

カロンは山岳地帯の出身であり、幼少期から森で蛇の害には慣れ親しんでいた。

(“普通の毒蛇”の類じゃねぇ。それにこの、大気そのものが変質しているような感覚……)

噛まれた生徒の焦点が、急速に定まらなくなっていく。

「なぁ……なんか、視界が……二重に、ぶれるんだ……」

ゴーグルの奥の瞳孔が僅かに開き始め、呼吸の周期も乱れ、呂律が回らなくなっていく。

「喋るな。息を整えろ。呼吸を意識するんだ!」

カロンが必死に声を掛けても、本人はまるで首を絞められているかのように、満足に空気を吸い込めていない。

喉の筋肉が異常に硬直し、酸素の通り道を拒絶しているようだった。

(神経を阻害するタイプか……? いや、それだけじゃない。この霧自体が、毒の拡散を助長している)

霧の芳香が先ほどよりも一段階、鋭利に変質していた。

鼻腔の奥に鉄錆のような不快な味と、脳を麻痺させるような甘ったるい匂いがまとわりつく。

「――全員、防護マスクを装着! 持っている布をありったけ水で濡らして、口と鼻を厳重に覆え!」

カロンの咄嗟の叫びに、生徒たちが戸惑う。

「ですが、貴重な飲料水が……」

「斜面の湧き水でいい! 飲めって言ってるわけじゃねぇ、“濾過層”にしろと言ってるんだ!」

教本には記載のない、現場の野生の勘による指示。

しかし、彼の生存本能はこの霧そのものが毒素を媒介する媒体へと変貌していることを察知していた。

その時――。

彼らの記憶の奥底で、一人の男の声が静かに、しかし鮮明に再生された。

『空気に混じった毒素は、呼吸を通じて直接、神経の経路へと侵入します。布一枚の隔たりでもいい、物理的なフィルタを設けるだけで、体内へ取り込まれる総量は減少するのです』

昨日の講義の際、リュネルが余談として付け加えた言葉だった。

「……クソ、あの素材屋の兄ちゃん……言ってた通りじゃねぇか……!」

カロンは呪詛とも感謝ともつかない呟きを吐き出しながら、自身の口元にも固く濡れ布を巻いた。

「隊長……頭が、重い……」

「他にも、数名めまいを訴えています! 吐き気が止まらない者も……」

隊員の不調が連鎖的に発生する。

「分かってる!。……おい、他に不調がある奴はいないか?」

問われて、数人が恐怖に顔を見合わせた。

「さっきから、我々以外の“誰かの足音”が、一歩遅れて聞こえるような気がして……」

「俺もです。後ろの木陰に、白い人影が立っているような……」

「……そんなものは存在しねぇ。ここにいるのは俺たちだけだ」

カロンは敢えて、叩きつけるような強い口調で断言した。

「“余分な音”も、“見えないはずの影”も、全部毒が脳に見せている幻だ。信じるな。お前たちが信じていいのは、自分の足の感覚と、繋ぎ止めているロープ、そして目の前の仲間の背中だけだ」

その声には、僅かな震えが混じっていた。

だが、それでも彼は指揮官として踏み止まっていた。

(ヤバいな。これ以上この霧が濃くなったら、俺だって正気でいられる自信がねぇ)

その時――。

霧の最深部で、粘りつくような“何か”が、這い進む異音が響いた。

 ――ずるり。

 ――ずるり。

それは乾いた枯葉を踏みしめる音でも、獣の蹄の音でもない。

巨大で湿った、粘性の高い物体が、地表の魔力を啜りながら擦過する音。

「……」

カロンは、ふと、古参兵から聞いた話を思い出した。

『ジャングルの最深部には、“霧を呼吸し、魔力を啜る大蛇”が棲んでいる。あいつは霧の中に完全に溶け込み、獲物が気づかぬうちに、その存在の根源を舐めとる。あいつに遭遇しちまったら、俺たちの剣なんて、ただの楊枝にもなりゃしねぇよ……』

(……冗談だと思って笑い飛ばした話が、今、目の前で現実になろうとしてるのかよ)

目の前の白い世界が、物理的な圧力を持って不自然に膨張した。

「全員、姿勢を低くしろ! 衝撃に備えろ!」

彼の絶叫を号令に、大気を切り裂いて“それ”は姿を現した。

その白濁とした中心から、ぬらりと光る異形が、大気をねじ伏せるようにして現れる。

蛇――と呼称するには、あまりにもその存在は巨大すぎた。

胴体の太さは、鍛え上げられた屈強な男性の胸幅ほどもある。

その長さは霧の向こう側へと果てしなく伸びており、全容を視認することすら叶わない。

鱗の表面は不気味な灰青色で、そこには死斑を思わせる白い斑点が浮かび上がっている。

そして何より、その頭部が異常だった。

肉体と霧の境界が曖昧で、輪郭が絶えず揺らいでいる。

目に相当する位置には、虚無を湛えた黒い穴が穿たれているだけで、生物らしい瞳は存在しない。

しかし、その“暗黒の深淵”からは、確かに獲物を品定めするような、冷酷な視線が放たれていた。

「……っ」

誰かが言葉を失い、呼吸を止める。

蛇は、嘲笑うかのようにゆっくりと、その大口を開いた。

透明な牙は水晶のように鋭く、その先端からは未知の粘液が絶え間なく垂れ落ち、大気へと溶け込んでいく。

その刹那、カロンは自身の喉元を不可視の手で掴まれたような、激烈な圧迫感に襲われた。

(何だ!?息が、吸え、ねぇ……)

霧が粘性を帯び、まるで泥の中を泳いでいるような感覚に陥る。

舌の表面には、不快な苦味と、脳を麻痺させる甘味が同時に広がった。

激しい耳鳴りがし、視界の端には、現実には存在しない光の粒子がノイズとなって走り抜ける。

 ――霧に、猛毒が完全に充満した。

「霧を吸うな! なるべく浅く、静かに呼吸しろ!」

叫んだ自身の声すらも、水底から響いているかのように遠く、頼りない。

蛇の周囲で大気が脈動するたび、第2小隊の生徒たちの肺腑へと、死の接吻がじわじわと流れ込んでいく。

カロンは、奥歯が砕けるほどに歯を食いしばった。

(俺がここで倒れたらら、全員がこの霧の餌食になる……!)

脊髄を駆け上がる本能が、警鐘を鳴らし続けている。

(ここで、俺の全魔力を注ぎ込んだ“大技”をぶち込めば、この状況を打破できるかもしれねぇ。だが、この異常なマナ霧の中で魔力を爆発させれば――)

昨日のリュネルの教えが、最悪の皮肉となって脳裏に蘇る。

『環境が濃ければ濃いほど。そして、術者の魔力が強大であればあるほど、その身に降りかかる反動は致命的なものとなります』

(……クソッタレが)

カロンは、あえて“魔法を封印する”という、魔導師にとって最も過酷な選択を下した。

腰のサバイバルナイフを逆手に握り直し、霧の中から現れた異形を見据える。

「全員、絶対に距離を詰めるな! ヤツの間合いに踏み込んだら、二度と戻ってこれねぇぞ!」

彼自身は、一歩も退かずに最前線に立ち続けた。足が竦んだのではない。

背後で意識を失いかけている部下たちを、その広い背中で守り抜くためだ。

大蛇は、人間たちが織りなす微々たる抵抗に、特に興味を抱いている様子はなかった。

ただ、霧を吸い込み、霧を吐き出す。

第2小隊を包み込む周囲の霧は、もはや“白”と表現できる色を失っていた。

それは、毒気を帯びた澱んだ灰色の世界。

周囲の光を鈍く乱反射させ、空間そのものが強い酒で酩酊しているように錯覚させる。

「……なぁ、おい……あれ、見えるか」

隊員の一人が、引き攣った震え声で虚空を指さし呟く。

峻険な斜面の少し下方、本来なら深い森が広がっているはずの霧の向こう側に、ぼんやりと温かな“街並み”が浮上していた。

陽光に照らされた、懐かしい石造りの家々。

平和を謳歌する子どもたちの、無邪気な笑い声。

朝の食卓を飾る、焼きたてのパンの芳ばしい匂い。

「……あそこ、俺の……故郷じゃないか……?」

渇望のままに手を伸ばしたくなる。

磁石に引き寄せられるように、その足が、死地への一歩を誘われる。

「そっちへ行くな!」

カロンが咄嗟の判断で叫び、連結されたロープを渾身の力で引き戻した。

崖の淵へと踏み出しかけた隊員の体が、泥の中から引き抜かれるようにぐいと強く引き戻される。

「目を覚ませ! それはただの幻影だ。お前の故郷であるはずがない。

お前の中にある、“帰りたい”という切実な願いを、頭が勝手に見せてるだけなんだ!」

「……っ!」

隊員の目から、堪えていた涙が溢れ出した。

ぼやけた視界の中で、美しいはずの街並みがゆらりと不気味に歪む。

次の刹那、温かなパン屋の看板は、血を滴らせる蛇の頭部へと変貌した。

響き渡っていた子どもたちの笑い声は、鼓膜を突き刺すような、金属的な嘲笑へと変質していく。

幻覚が、その毒々しい本性を剥き出しにしたのだ。

「ひっ……あああぁっ!」

「ヤツの目を見るな!胴体で動きを探るんだ、耳を塞げ!」

カロン自身、視界の端々が激しくぐらぐらと揺動しているのを感じていた。


誰かがすすり泣く声。

誰かが狂ったように笑う声。

遠い大聖堂の鐘の音。

幼き日の凍えるような記憶。

雪深い山中で、寒さに身を震わせた冬の情景。

兄弟と互いに体温を分け合い、死への恐怖を誤魔化しながら寄せ合ったあの夜。

父親に厳しく叱られ、それを慰めるように優しく撫でてくれた母親の温もり。


「……やめろ……俺を……惑わすな……!」

視界が涙のように滲む。

存在したのかも分からない過去の残滓が、ぬるりとした霧の中から、亡霊のようににじり寄ってくる。

(……来るな、あっちへ行け!)

魂を込めて叫びたくても、思うように声が出ない。

喉の筋肉が、蛇の放つ毒素によって異常な硬直を始めつつあった。

(おれは、…しぬのか?)

身体が思うように動かず、思考もすでに擦り切れる寸前となっていた。

意識を失いかけている仲間を引きずる力も残っていない。

カロンは仲間達と蛇を隔てるように向き合うも、遂に膝から、崩れ落ちた。

(……クソ、やろーが、よ……)

空気を取り込もうとする胸の動きも、次第に弱まっていった。

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