表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/19

第九話 私は、本当に


 私が訓練場を去ろうと背を向けた、その瞬間。


「ルーナ!」


 背後から、アシェン様の声が響いた。反射的に体が硬直する。まさか、気づかれるなんて。

 振り返らず足を速めようとしたその時、ガッと腕を掴まれた。


「待て。どこへ行く」


 アシェン様の声には、いつもの冷徹さとは違う、どこか焦りのような響きが混じっていた。掴まれた腕から伝わる体温が、私の体を熱くする。


 ゆっくりと振り返り、できるだけ、いつも通りの笑顔を作ろうとする。しかし、口元はひきつり、頬はこわばってしまった。

 アシェン様の眼差しは、訓練場にいた時とは異なって鋭い。まるで獲物を捕らえる獣のようだ。


「アシェン様……私に、何か御用でしょうか」


 私は震える声で尋ねた。彼は私の顔をじっと見つめる。その瞳に、僅かながら動揺が走るのが見て取れた。

 私がいつものように、アシェン様に話しかけられて喜ばなかったからだろうか。


「なぜ、武闘祭に来なかった」


 アシェン様が問いかける。私は、どう答えるべきか迷った。病気のことを話すわけにはいかない。


「……あ、それは。その、急用ができまして。本当に申し訳ありませんでした。アシェン様の晴れ舞台を見に行くことができず……」


 言葉を選びながら、必死で言い訳を並べた。


 ……とても惨めだ。今すぐに、彼の前から離れたい。


「これまで、アシェン様に数々の非礼を働き、大変申し訳ございませんでした。もう二度と、このようなことは致しませんので……」


 そう言って、私はアシェンの腕から逃れようと体を引いた。しかしアシェン様が私の腕を掴む力は、微塵も緩まない。むしろ、さらに強くなったようにさえ感じられた。


「二度と、しないだと?」


 アシェン様の声が、低く響いた。その瞳は私の心を見透かすかのように、深く、強く、私を捉えて離さない。彼の表情には、これまで見たことのない、複雑な感情が渦巻いているように見えた。


「今までの言葉は、すべて嘘だったというのか?」


 彼の声は低く、感情を押し殺した響きがあった。その言葉は、私の胸に深く突き刺さる。


 嘘。そうだ、私はずっと、この告白を正当化してきた。どうせ死ぬのだから、少しだけでも楽しみたい。私の言葉は、誰にも迷惑をかけていないから。アシェン様からすると、私の軽い言葉は嘘のように聞こえていたのかもしれない。


 しかし今、彼の真剣な眼差しを受けて、私の心の中で何かが弾けた。


「嘘なんかじゃ、ないっ……!」


 思わず、叫ぶように言い返していた。喉の奥から絞り出すような声だった。


「私は、本当に、あなたが好きなんです……! いつも、あなたの姿を見るたびに、胸が締め付けられるほどに……あなたからしたら軽いものなのかもしれないけど、私は、ずっとあなたのことが好きで……あなたの、その冷たくて、無関心な態度を見るたびに、私だけの特別なアシェン様だと、そう、思っていたのに……っ!」


 言葉が、とめどなく溢れ出す。隠し続けていた、押し殺していた本心が噴き出した。頬を熱いものが伝い落ちる。一度こぼれ落ちた涙は、止めようもなく溢れてきた。


 アシェン様は、私の言葉に僅かに目を見開いた。掴んでいた腕の力が、ほんの少し緩んだ気がした。彼の表情には、驚き、困惑、そしてこれまで私が見たことのないような、複雑な感情が入り混じっている。


 その時、アシェン様の背後から、コツ、コツとヒールの音が近づいてくるのが聞こえた。視界の端に、鮮やかなドレスの裾が見える。


 こんなところを見られるわけにはいかない……!


 彼の婚約者が、この場にいる。こんな醜態を、見られるわけにはいかない。ましてや、自分の、一方的で、惨めな告白を。


「っ……離してくださいっ!」


 私は振り絞るような声で叫び、アシェン様の腕を振りほどこうと必死にもがいた。今すぐ、この場から逃げ出したい。彼の前から、消えてしまいたかった。

 私が叫んだ時。エリオットが慌てた様子で駆け寄ってきた。


「ルーナ様! 無理はなさらないでくださいと申し上げたでしょう!」


 エリオットの声は、焦りに満ちていた。彼は私の顔色の悪さに気づき、すぐにただならぬ状態を察したようだ。

 私はその声を聞いて、まるで救いの手を掴むかのように、エリオットの方へ視線を向けた。アシェン様が掴んでいた腕の力を緩めた隙に、ルーナは彼の手を振りほどき、よろめきながらエリオットの方へと倒れ込む。


「先生……!」


 エリオットは崩れ落ちそうになる私の体をしっかりと抱きとめ、優しく支える。私はそのまま彼の胸に顔をうずめ、アシェン様に背を向けた。彼がどんな顔をしているのか、見たくない。


「ルーナ様、もうお部屋へ戻りましょう。これ以上は体に障ります」


 エリオットはそう言いながら、私の体を支え、アシェン様の横を通り過ぎようとした。

 私は、一度もアシェン様の方を振り返らなかった。



 そのせいで、アシェン様が私の姿が見えなくなるまでじっと見つめていたことに、気が付かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ