第八話 婚約者
私は図書室の窓際で、いつも通り書物の整理をしていた。体は鉛のように重く、指先はわずかに震えている。それでも私は鉛筆を握りしめ、書きかけの目録に集中していた。
その時。図書室にやってきた令嬢たちが、ひそひそと話しをし始めた。
「ねえ、聞いた? アシェン様のこと」
「ええ、もちろん! 隣国のご令嬢と親しくされているのよね。婚約者を迎え入れられるのかしら」
「まあ、やはり英雄には、釣り合う方がいらっしゃるのね。お美しい方だと評判よ」
私の手から、鉛筆が滑り落ちた。カラン、と乾いた音が、静かな図書室に響く。
アシェン様が、婚約者を迎える……?
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。それでも、自分に言い聞かせた。
当然のことだ。アシェン様は、この国の英雄。いずれ、しかるべき家柄の女性を妻に迎え、後継者を持つのは自然な流れだ。ましてや、彼のように美しく誰もが認める才覚の持ち主ならば、婚約の噂が立つのも時間の問題だったはずだ。
私のような取るに足らない存在が、彼の隣に立つことなど、あるはずがない。
分かっていた。頭では、ずっと理解していたことだ。
それでも、心臓の奥が、ずきりと痛む。
令嬢たちのひそひそ話は続いている。彼女たちの話題は、アシェン様の婚約の話題で持ちきりだった。その声が私の耳には、遠く、ぼやけて聞こえた。
窓の外では、風に揺れる木々が乾いた音を立てている。私はその音に耳を傾けながら、ゆっくりと椅子に座り直した。
これで、いいんだ。
無理に笑みを浮かべようとするが、口角は思うようには上がらない。
彼の人生は、私がいなくても、完璧に続いていく。そして私の短い人生は、アシェン様との思い出によって彩られた。それでいい。それだけで、いい。
そう自分に言い聞かせるほどに、心臓の奥の痛みは増していくようだった。
私は静かに目を閉じた。残された時間の中で、もう一度、彼の顔を見に行こう。そして最後に、最高の愛の言葉を告げよう。
私は重い体を引きずって騎士団の訓練場へと向かった。アシェン様が婚約者を迎えるという噂を聞いてから、どうしても彼に会いたくて仕方がなかった。
最後に、いつものように彼に愛を告げて、その冷たい反応をもう一度だけ目に焼き付けておきたかったのだ。
訓練場に近づくと、剣が打ち合う音と、騎士たちの掛け声が聞こえてくる。私はその音に励まされるように、さらに足を速めた。
訓練場の入り口までたどり着き、中を覗き込む。広い訓練場の中央で、アシェン様はいつものように完璧な剣さばきを見せていた。彼の周りには騎士たちが集まり、真剣な眼差しで彼の動きを追っている。その姿は、やはりこの国の英雄そのものだった。
しかし私の視線は、アシェン様の少し後ろでにこやかに彼を見守っている女性に釘付けになった。
彼女は光沢のある上質なドレスを身につけ、顔には気品に満ちた笑みを浮かべている。その立ち姿は優雅で、アシェン様の傍らに立つのが当然であるかのように、自然にそこに存在していた。
あの人が……アシェン様の婚約者……。
その女性の姿を見て、胸に再び痛みが走るのを感じた。噂通りの、釣り合う相手。自分とは、あまりにもかけ離れた、輝くような存在。
アシェン様は訓練の合間に、その女性に視線を向け、わずかに口元を緩めているように見える。女性もまた、それに答えるように、さらに優しい笑みを返す。二人の間には、温かい、そして確かな絆のようなものが感じられた。
ああ……私では、到底無理だ。
私はその光景を見て、自分がどれほど場違いな存在であるかを痛感した。私の思いは、あくまで一方的なものに過ぎない。彼の人生には私の入り込む余地など、どこにもないのだ。
これ以上ここにいては、自分が惨めになるだけだ。そう思った私は、くるりと踵を返した。音を立てないように、ゆっくりと、その場を離れようとする。
これで、いい。これが、正しい結末なんだ。
そう自分に言い聞かせる。私の命は、もうほとんど残っていない。
だからこそ、彼の未来を邪魔してはいけない。彼の幸せそうな姿を見ることができたのだから、それで十分だ。
しかし私の心は、これまでにないほど深く沈んでいた。




