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現実世界に別れを告げて

 目を開けた貴也の視界には、一面真っ白の天井が飛び込んできた。

 独特の消毒液の臭いで、ここが病院なんだと分かる。


「あ、貴也。起きたのね?」


 ベッド脇の椅子に座り、貴也に覆いかぶさるように寝ていた母が目を覚ます。

 どれだけ心配をかけてしまったのかと、やつれた顔を見ながら貴也は申し訳なく思った。


「いったい何があったのよ?

 母さんにも言えないことなの?」


 放任主義気味な貴也の両親だったが、それでも我が子が突如生死の境を彷徨ったのだ。

 なぜそんなことになったのかと、しかし最低限のプライバシーは尊重しつつ訊ねた。

 だが正直に言うわけにもいかない。

 信じた詩乃とは違い、常識的な両親に説明したところで入院する病院が変わるだけの話。

 だから貴也は誤魔化すように、逆に聞く。


「医者はなんて?」


 すると母は狐に摘まれたように腑に落ちないといった顔で首を傾げる。


「それがねぇ。

 確かに運ばれた時は重症だったらしいのだけど、手術中に勝手に治ったって……」


 いったいどういうことかしらねと、訳が分からない様子である。

 それが向こうの世界での治癒魔法の影響だと貴也は知っていたが、自分にも分からないと惚けてみせた。


「再検査の結果は至って健康そのものだって先生はおっしゃっていたけど、念のため今日は様子を見るそうよ」


 そう言ってから母は立ち上がる。

 起きるまでは心配だったが、こうして元気な声を聞けてようやく安堵したのだろう。

 一度家に帰って休み、夜に着替えを持ってくると席をたった。

 その背中に貴也は声をかける。


「母さん。――ありがとう」


 振り返った母は怪訝な顔をしたが、それも一瞬で『夜になったらまた来るから』と言い残し去って行った。

 貴也は『ありがとう』の前に付けそびれた言葉を反芻する。

『今まで育ててくれて』

 今夜眠れば、あの化け物との戦いが待っている。

 もちろん死ぬ気などないが、死なないと言い切れる程に望みのある戦いには思えないのだから。





 健康体での入院生活は貴也の予想以上に退屈なもので、午前中は院内を見て回ったり回診を待ったりしていたが、午後になると早くもやることがなくなってしまった。

 だからと言うわけではないが、早退してまで駆けつけてくれた幼馴染にいつも以上の感謝を送った。


「いや正直助かった。

 こんなにやることがないとは思わなかった」


 どこも悪いところがないとはいえ患者に変わりは無い。

 外出はもちろんのこと、検温や看護師の見回り時間には病室にいなければならず、不自由を強いられていたのだ。

 だがあっけらかんとした貴也とは対照的に、詩乃は貴也を見た瞬間泣き出してしまう。

 昨日は病院まで付き添ったものの手術が終わるまで待っているわけにも行かず、貴也の母に学校まで送り届けられてしまったのだ。

 学校が終わってすぐに面会に来たが、今度は麻酔で昏睡していた貴也と話すことも出来ず、無事だと聞いても実感が沸かなかった。

 そうして今ようやく、貴也の無事を心から受け入れられたのだ。


「だがぢゃ~ん……」


 しかし大部屋の病室であるため当然他の患者もおり、視線が痛いと貴也は詩乃を無理やり外に連れ出す。

 午前の探索を思い出し、あそこならばと二人で屋上へ向かうことにした。


 日の傾きかけた屋上はやや肌寒く、病衣の上に羽織るものがあればよかったと、貴也はぶるりと体を震わす。

 だがそのおかげもあり、他に人の気配はなかった。

 詩乃をベンチに誘導し自販機で暖かいお茶を買い与えると、それで詩乃も少し落ち着きを取り戻した。


「心配したんだからねッ!」


 拳を振り上げ、しかし病み上がりだからと叩くことはせずに戻す詩乃。

 まだ涙声ではあったが、調子を取り戻したことに貴也もホッとする。


「ごめんな。

 俺もあんなことになるとは思ってなくてさ」


 当然のように『あんなこと』の内容を詩乃は求め、全部を話しては余計に心配をかけると貴也はなるべくオブラートに包んで話す。


「てわけで、普段ならすぐに回復してもらえるんだけど、そういう訳にもいかなかったんだよ」


 アハハとなるべく軽く話したつもりの貴也だったが、俯きながら聞いていた詩乃は気付いていた。

 貴也の声が時折震えていることに。

 今聞いた以上に危険があり、本当に死ぬ直前だったのだと直感的に分かってしまう。


「――もうさ、止められないの?」


「え? なにが?」


 気付かれていることに気づいていない貴也は、なおも明るく笑顔で聞き返したが、次の瞬間にはその笑顔も消え去った。

 詩乃が貴也の胸に飛び込み泣いていたのだから。


「たかちゃん死んじゃうよ……。

 もう戦わなくていいじゃんッ! 向こうの人たちがどうなっても関係ないでしょッ!」


 詩乃の悲しみは、ぶつけようのない怒りへと変わっていた。

 なぜ貴也が傷つかなければならないのか。

 なぜ貴也を連れていってしまうのかと。


 怒りと涙でぐちゃぐちゃになった顔で貴也を見上げ、必死で懇願する。

 行かないで、逝かないでと。


 その表情に、その思いに、貴也は胸を締め付けられながら、それでもと幼馴染に告げた。


「それでも行かなきゃならないんだ」


「なんでよッ!」


「――大切なものが……。

 向こうにも、大切な人たちが居るんだ」


 これ以上詩乃を欺けないと、誤魔化すことなど許されないと、貴也は本心を言葉にする。

 こちらの世界も大切だが、同じくらいに向こうの世界も大切なものになったのだと。

 だが詩乃は受け入れない。だから――。


「それは、たかちゃんにとって、アタシよりも大切なの?」


 聞いてしまった以上、引き返せなくなる質問をしてしまった。

 否定して欲しい。『そんな訳ないだろ』と言って欲しい。

 だがもし肯定されてしまったら……。

 今、張り裂けそうなほど胸が痛いが、それでも詩乃に後悔はない。

 貴也をこちらに引き止められる可能性が少しでもあるのなら、痛みなど怖くはないのだから。


 ――しかし貴也からの答えは返ってこない。

 貴也も分かっている。沈黙が一番卑怯だと。

 卑怯だと分かりながら、それでも答えることが出来ないのだ。

 その二つを比べることなど、貴也には出来ないのだから。



(ダメだ……)


 詩乃は思う。


(行ってしまう……)


 もう届かないところへと。


(――ッ!!)


 爆発した。


「好きなのッ!

 ずっと好きだったのッ!!」


 一度決壊した理性はもう戻らなかった。

 次から次から溢れ出る貴也への思いを塞き止めることが出来ず、止め処なく言葉となってしまう。


 もう貴也を止めるためなどという理由すら失くし、ただただ詩乃は叫んでいた。

 その思いのたけを余すところ無く受け止めて、それでもなお貴也は答えない。

 答えられるわけないじゃないかと、声には出さず絶叫する。

 今夜死んでしまうかもしれない自分が、いったい何を答えればいいというのかと。


 だから貴也は、今言える精一杯を言葉にした。

 到底答えにはなりはしないが、今貴也が言っても許される言葉はこれだけだと。


「明日返事をするから」


 それで詩乃も悟ってしまう。

 間違いなく今夜、貴也は死地へと赴くのだと。

 それはもうどうしようもなくて、止めようのないことなのだと。


 乱暴に袖で涙をふき取り、詩乃は笑顔を作る。

 今出来る精一杯の、不恰好かもしれなくても最高の笑顔を。


「絶対だからねッ!」







 再び貴也は真っ白い天井を眺めていた。

 病院の消灯時間はとっくに過ぎているが、今はまったく眠れる気がしない。

 頭の中で色々なことが思い起こされる。

 両親のこと、学校のこと、詩乃のこと。


 知らず、涙がこぼれた。

 死ぬ気はないと、生きて帰るんだと思い続けても、それを否定する自分がいる。

 無理だ。勝てない。殺されると。


 時計を見る。

 時刻は23時30分。


 そろそろ時間だと、ゆっくり目を閉じる。

 最後の光景が見知らぬ白い天井だというのが、少し悲しく感じた。


「さよなら」


 意識せず出た言葉を最後に、世界はぐるりと、反転した。



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