その旅の始まりを
宿屋の一階で桶にお湯を汲み、それを持ってエンカは二階へと上がる。
「入るわよ姉さん」
部屋の扉を叩き中に入ると、ベッドから上半身を起こした姉と目が合った。
その視線に微笑みで返し、お湯の中に布を入れて柔らかく絞る。
「さぁ、身体を拭くから脱いで」
妹の目から見ても美しい姉。
背中を向けてレスタシアが服を脱ぐと、その鍛えられ均整の取れた肌が露になり、エンカは思わず頬を寄せた。
「なんだい、甘えっ娘だねぇ」
それを受け入れるレスタシアもまた、相好を崩す。
思えばアラニスと共に旅に出た時、もう妹には会えないことすら覚悟していた。
なのに魔王の城で命を繋がれ、絶望の闇の中を耐え忍び、そうして奇跡ともいえる再会を果たしたのだ。
「これからはずっと一緒よ」
背中で愛おしい妹の声を聞く。
こんなに穏やかな時間を過ごせる時がくるなど、思ってもいなかった。
アタシは竜殺の拳、レスタシア・クォルツなのだから。
「嬉しいけどね、エンカ。
でも早くしてくれないと風邪をひいちまうよ」
その声にゴメンと慌てて、エンカがようやく布を手にした。
少しずつ丁寧に、力を込めすぎないように優しく清められていくレスタシアの身体。
時折古傷を見つけては、エンカはそれを指でなぞる。
少し痩せた姉の身体。
監禁状態にあり、ろくに食事も取らせて貰えなかったのだろう。
それを思うとエンカは未だにゴッゾが許せない。
当然だ。今すぐ殺してやりたいとすら思う。
――だが、姉は許した。
今後奴隷商との関係を切り街の人々のために尽力するなどの条件付きではあったが、それでも何事もなかったようにさっぱりと。
エンカにはそれが理解できなかった。
『まぁロクでもない人間なのは間違いないね。
でも、同時に街をここまで発展させたのもアイツなんだ。
見たかい? 街の人達の顔を。皆いい笑顔だっただろ?』
だから帳消しだなどと姉は言ったが、やはりエンカには理解できない。
街の人がどうであろうと悪は悪。
あれだけ酷いことを姉にしておいて、許せるほうがおかしいと。
「背中はもういいよ」
考え事をしていたからか、エンカの手は止まっていた。
それを咎められたような気になり、慌てて謝るが姉は笑う。
「そんなに気をつかうなって」
そうして、前は自分で拭くからとレスタシアはエンカから布を受け取る。
どこかの皇帝はエンカの胸を姉譲りだなどと言っていたが、そんなことは恐れ多い。自分などでは到底姉には叶わない。そう思いながら、しかし身体を清める姉を見続けるのは不躾だと視線を逸らした。
「――いいのかい?」
また考え事をしていたエンカに、不意に姉が尋ねる。
「なにが?」
窓から外を見ながらエンカが聞き返す。
日は高く昇り、良い天気だ。
「貴也について行きたかったんだろ?」
反射的に立ち上がり、ガタンと椅子が倒れた。
しかし続く言葉が、否定する言葉が出てこない。
昼前には、貴也達はすでにルディヒアの街を出発していた。
馬車でパーズィーまで戻り、そこから船に乗ってボードレイドを目指すのだという。
別れの時、貴也は笑顔だった。
ルーインは恐らく泣いてくれたのだろう、目を真っ赤に腫らしていたが。
それでも一度も『一緒に行こう』とは言われなかったのだ。
「それはアイツ等が優しいからさ。
アンタだってそのくらい分かってるんだろ?」
当然だ。
その優しさに何度も救われてここまで来れたのだから。
もし『一緒に行こう』と言われていたら、私はなんと答えたのか?
いや、なにかを答えることが出来たのだろうか?
共に行きたい気持ちはある。だが同時に、今なお傷ついている姉を残してなど行けないという気持ちもあるのだ。
それを分かっていたからこそ、彼は何も言わずに笑顔で去った。
「アンタの気持ちは嬉しいよ。すっごくね。
でもさ、同時に悲しくもあるんだ」
いつの間にか身体を清め終えたレスタシアが、エンカの顔を真っ直ぐ見つめていた。
「妹に気持ちを押し殺させてまで世話をさせる。
アタシはそんなダメな姉にはなりたくないよ」
それは違うと叫ぶ声は、しかし喉でひっかかり声にならない。
本心だ。
ようやく会えた姉と一緒に居たいという思いも、傷ついた姉の世話をしたいという思いも本心である。
それなのに、そう伝えたい言葉は口から出ずに、代わりに涙が溢れ出ていた。
「泣いてんじゃないよ。
曲がりなりにもアタシを倒した『竜殺の拳殺しの拳』がさ」
アハハと晴れ渡る空のように笑い、そしてレスタシアはエンカの背中を叩いた。
それは、どの戦いで受けた傷よりも、強くエンカの背中に響いた。
「行きな! エンカ・クォルツ!」
言われ、そしてエンカは弾かれたように部屋を飛び出す。
振り返らずに、涙を拭い去り、そして力強く一言『行ってきます!』と思いを残して。
貴也達を乗せた馬車がゆっくりと街道を進む。
あんなに高く見えていたディアルドア山も、すでに遥か後方へと霞んでいた。
「んっ!!」
ノゥのお菓子をこっそり摘もうとしたサハテオが、バシッと手を叩かれて咎められた。
「一個くらいくれよぉ。
一緒に買い物した仲だろ?」
貴也はノゥがサハテオに懐いていると思っていたのだが、このやり取りを見ているとそれがどうやら間違いだと気付く。
「まるで姉弟みたいですね」
ルーインが目を細めながら姉弟のようだと評する。
この場合ノゥが姉というのがなぜかしっくりくるのだ。
「痛てててて!
分かったよ分かりました! もう取ろうとしねぇよぉ」
さらに隠れて取ろうとしていたサハテオの手を、ノゥが思い切り抓ったらしい。
勇傑の7人の一人を手玉に取るノゥはどんな大物に育つのかと、父性に目覚めた貴也は思う。
ノゥが拗ね、サハテオが謝り、それをルーインが微笑ましく眺める。
だが足りない。
『なにやってるのよ』
呆れながら、それでも優しく見つめるあの声の主がいない。
(早く慣れなきゃな)
貴也がそう決意した時、突如馬車が大きく揺れて止まった。
「魔物か?」
サハテオがすぐに反応し警戒する。
しかし前窓が開き、すぐに御者が『違う』と状況を伝えてきた。
「すいやせんねお客さん。
急に馬車の前に飛び出した頭の悪い女がいるんで。
いますぐ追っ払ってきやすから」
だが御者よりも前に貴也は馬車から飛び出していた。
予感があった。
いや、それは唯の願望かもしれない。それが彼女であって欲しいと。
そして馬車の前まで走り、貴也はその女性と相対する。
その顔を見た貴也はすぐに声をかけようとしたが、女性は一歩前へ進み出て貴也の言葉を制し、そして言った。
「あなたが勇者代行?」
瞬間、あの夜の出来事が洪水のように思い起こされる。
溢れ出る感情をなるべく出さないように、貴也が答える。
「そうだけど君は?」
ニヤリと笑ってから、女性はさらに一歩踏み込んだ。
ボディラインがくっきり浮き出る服装が、発育の良い胸を強調している。
やや縦長で猫科を思わせる瞳が貴也を覗き込んだ。
「あなた、これから色んな国へ行くのよね?
なら私も連れて行って」
姉を探すためだけに同行を求めた旅は終わりを向かえた。
だからエンカは、あの夜をやり直すことで意志を示している。
ここからは自分の為、自分だけの為に同行したいのだと。
その思いに気付き、感情が爆発した。
溢れる涙を止める術をもたず、貴也は思わず彼女を抱きしめ、そして叫んだ。
「もちろんだ!!」
突然抱きしめられたエンカは驚き、だが拒絶せずに笑顔を咲かせた。
もう竜殺の拳の妹ではない。
ただ一人の女性、エンカ・クォルツとして貴也に着いて行くのだと、そう心に決めて。
だから彼女の、彼女自身の旅はここから始まったのであった。
第三章はこれにて完結となります
次からが最終章となりますが、最後までお付き合い頂ければ幸いです




