へばな。
さようなら。
お父さん……と、彼女は叫んだのだろうか?
ことはさんのお父さんとは、どういう事なのか?
その人に何があったのか?
俺はその全てを確認すべく、あのドアを開けた。
脳が知覚したもの。
オイルまみれの彼女の脚。
彼女が縋り付く、黒いズボンの脚。
黒いズボンの彼の足下の、紅い花。
床に咲いた、紅い花。
朱に染まった花の蕊は、生あたたかい臭いを絶え間なくあたりに振りまいていた。
紅い花の疎らに白い蕊。
それは、見慣れた背中だった。
それは、俺の名前を良く呼んでくれた人の背中だった。
その白い背に出来た緋色の雀斑。
それが撃たれた痕だと、どうして俺が認識できたか?
あの乾いた音が銃声だと、どうして分かったか?
ホラーゲームの実況動画で散々見たからだ。
仲間が一人二人減って、とうとうプレーヤーが独りになって。
もどかしい気持ちで画面をタップしても、俺は傍観者だから何も出来なくて。
似てるんだ。
今のこの状況が、画面の前での不可避的な仲間の死に怯えるあの状況と。
「……良川?」
答えはない。
投げ出された彼の腕は、紅に染まっていく。
「良川」
黒の蓬髪の毛先は、異質な黒で固まっている。
「良川!」
俺の足は、自分の叫び声に驚いたかの如く跳ね上がり、良川の血溜まりに突っ込んだ。
良川の頭を抱え、膝の上に仰向けにしてそっと置いてやった。
ひしゃげた眼鏡の奥の瞳は既に虚ろだったが、まだ僅かに光があった。
「良川、俺が解るか?」
呼びかけると、僅かだが、良川の乾いた唇が動いた。
「……みれい……?」
干からびた音がした。
それは、良川の声だった。
「良川、すぐ帰ろう。
向こうに戻れば、治療できる筈だろ?」
俺は良川の頬を撫でた。
冷たい。
血の気が失せて、肌が変わってきていた。
良川は首を横に振り、動かなくなってきたのだろう口角をぎこちなく上げる仕草をした。
「みれい、これ、わたしておいて……」
「これって……」
そう言って差し出された、痙攣する良川の手の中には一つの指輪があった。
元の色が分からない程、血で濡れてしまっていた。
そして、よく見ると、良川の左手薬指にも朱色の指輪が嵌っていた。
「それじゃあ、まいねよ。
俺が渡すもんじゃねぇよ、これ。
良川が生きて帰って、あの人に渡さねぇといけねえもんだろうが!」
その時、良川の唇が再び言葉を紡いだ。
その言葉は、自身の死を夢むものではなかった。
そして、それきり、良川は糸の切れた人形の様に、沈黙した。
何度叫んでも、良川の瞳に再び光が差す事はなかった。
ただ、俺の目から零れた涙が良川の目元に落ち、頬を伝った。
それが、まるで、本当に良川が泣いているみたいで。
俺は良川の差し出した指輪に付いた血を、親指で拭った。
星屑を集めて造ったのだろうかと思う程に眩いダイヤが、さっき良川の頬を滑り落ちた涙の様で。
かつて死を夢んだ男が最期に言った、「へば、また明日」の言葉。
俺はその男の瞼をおろしてやった。
たった今、彼の、人生という舞台の幕が、降りた。
「へばな、良川」




