願ったり叶ったりだよ
次の日、あの丘の上にストガさんは居なかった。
もちろん、その次の日も、その次も。
気が付けば、ゴールデンウィークはもう今日で終わりだった。
良川の家に入り浸ってゲームをしている間に、また明日からは学校が始まる。
そういえば、もうすぐ模試だった。
今やそんな普通の生活が、懐かしく色褪せて見える。
俺も少し前までは模試だ英検だ彼女だ何だと騒ぐ、ごく普通の男子中学生の1人だったのに。
なのに、どうしてこんなに違ってしまったんだろう。
『歴史にたらればは、無い』
そんな事は分かっている。
でも、俺には、この世界にはあの良川五月が居るんだ。
馬鹿な期待の一つや二つ、してしまうだろう。
そんな自分でも馬鹿な事だと思う様な事を考えながら、猫のように丸くなって床に蹲る良川の背中を眺めていると、奴は不意に振り向いた。
てっきり寝ているものだと思ったから、俺は驚いて、例の様に紅茶のはいったコーヒーカップを手から落としそうになった。
「美玲、行ってみるかい」
「……は」
「彼女のトコロ」
俺はあんぐり口を開けている事しか、できなかった。
そんな俺の表情が予想通りだったのだろう。良川はニヤリと危ない笑いを浮かべた。
「行く事はできるよ。ただし……」
「た、ただし? 」
思わず生唾を飲み、良川を見た。
良川が顎に手を当て、言葉を選んでいると暖かな日差しが部屋に射し込んだ。柔らかい光が良川の顔を撫で、眩い光は良川を見えなくしてしまった。
「良川? 」
その瞬間、内臓が全て空っぽになった気がした。
昨日はあんなに良川という存在を忌々しく思ったくせに、いざこうして良川が見えなくなるとこんなに不安になるんじゃないか。
馬鹿な俺。
俺は馬鹿だ。
「良川⁈ 」
立ち上がろうにも、どうやら腰を抜かしたらしく足に力が入らなかった。
このまま良川が消えてしまったら、俺はどうなる。
良川の居ない世界の明日は、一体どんな世界なんだ。
この瞬間は、もしかしたらほんの一瞬だったかもしれない。
そう思う程あっさりと、良川は再び光の中から姿を現した。
「聞こえてるよ。
おじいちゃんじゃあるまいし」
彼は、真剣な表情で俺を見ていた。
「良川、もし、俺が彼女さ会ったら、お前は殺される」
「だろうね」
「だろうねって、何だそれ。
死ぬかもしれねぇんだぞ⁉︎ 」
「願ったり叶ったりだよ」
「……は」
良川の言葉があまりに意表を突く物だったのと、その言葉を言うときの良川の瞳が、5年前に自らの死の夢を語った時とまるきり一緒だったのとに、俺は戦慄した。
「俺はもうこんな世界に愛想は尽きてるんだよ」
「何言ってんの」
「美玲にはまだ分からないと思うけどね。
この世界は自分本位の上に成り立った、屑の様な世界なんだ」
良川はやおら立ち上がり、大きな窓から差す光を、重い色調のカーテンで完全に遮断した。
間接照明の弱い光だけが、良川の蝋の様に白い顔を濡らしている。
こうして見ると、良川の顔はどこか人間離れして陰鬱だ。
血の気の引いた肌、長い睫毛で縁取られた瞳は深淵のように黒い。
こちらを振り向いた良川は眼鏡の縁に手をかけ、そのままどこかへぶん投げた。どこに落ちたのか、随分と遠くから脆いプラスチックの跳ねる音がした。
「これから、俺は自分のしたい事をする。
もう十分社会には貢献したよ。学校も創った、ロケットの打ち上げも成功した。火星移住計画も、もう最終段階に突入した。
俺のこの頭脳は、俺じゃない誰かの為に。そう思って生きてきたんだ。
もう、いいだろ。
もう、俺がするべきことは、ないだろ。
俺は、もう、居ない方がいいんだろ」
良川の悲愴な叫びは、心の底から這い出て来た叫びは、俺が今まで聞くのが怖いと思っていた良川の心、まさにそれだった。
ゆらゆら陽炎の様に動く良川が、ぼんやりと見える。
死の妄執に取り憑かれてしまった生の亡霊。
今の良川には、その言葉がピッタリだった。
「美玲、頼むよ。
俺が俺でなくなる前に、お前が俺を……」
ころしてくれ。
吐息の様なその言葉が、良川の全てだった。
それまで何も言葉を言う事ができなかった俺は、思い出したかの様に良川の元へ駆け寄った。
何を言えば良いんだ。
俺に、良川の何が分かるんだ。
頭の中を、そんな俺の言葉が燕の様に飛び交う。
床に崩れ落ちた良川の背中に手を置き、どうしたら良いかわからない時間に浸った。
「何で、そんな事言うんだよ」
愚問だ。
自分で言っておきながら、その言葉を発した事実に愕然とした。
何でって、俺自身が一番わかってるじゃないか。
「俺が居なければ、こんな事にならなかっただろ。
美玲だって、普通の生活を続けて……」
「嫌だ」
「何が嫌だってさ。
お前だって、考えただろ」
そう言う良川の瞳の鋭い光が、俺の過去に強く突き刺さった。
『歴史にたらればは、無い』
分かっているのに、俺には消してしまいたい過去が多すぎる。
「沈黙は肯定……だろ? 」
自虐的な笑いで、良川は俺を見ている。
事実は過去にある。
時間は巻き戻せない。
過去はやり直せない。認めるしかない。
それは、事実を曲げる事が出来ないというのと、ほぼ同義だ。
つまり、過去は事実だ。
現在にも未来にも、事実はない。
「うん、思った」
その言葉を発した途端、良川の目が見開かれ、頬を何か光る物が伝うのが見えた。
予想外の反応だっただろう。
ここで俺が偽善を吐くのは簡単だった。恐らく、良川はそういう展開を期待していたに違いない。
でも、俺はそうしなかった。
そんなひどい嘘を吐くくらいなら、苦い胃液と一緒に辛辣な言葉を吐き出す方が、マシだ。
「確かに屑みたいな世界だな。
毎日に意味も見出せねぇし。
でも、多分、意味の無い場所から意味を見出すのは、俺らのさねばまね事だんでねぇの。
その証拠に、今みたいな瞬間が重大な意味を持ってるじゃん。
毎日はこういう瞬間の連続なんだって。
俺は今、選択を間違いそになった。楽な方を選びそになった。
でも、そいじゃ意味がねぇ。
彼女の言うように、良川の居ない世界は、少なくとも今よりは平和なのかもしれねぇ。
でも、でもだよ。
それじゃ駄目なんだって。
駄目になる世界も存在すんだって」
伝えるのが怖かった、俺の言葉。ずっと悩んでた。死を望む人に生を強要するのは、本当に正しい事なのかを。
でも、考えが今、固まった。
良川には、少なくとも良川には、生きて居て欲しい。
何もしなくて良い。そんな、社会に貢献できる立派な人間じゃなくて良いんだ。
俺が今、この瞬間にくだした判断は正しかったと、未来の俺が思える世界があれば良い。
そこに、発展も争いも要らない。
自分一人の人生だけを真剣に悩める世界があれば、それで良いんだよ。
「良川、ごめんな」
「何? 」
「お前は殺さない。殺させてやらない」
立ち上がり、カーテンを開けた。
空は、雲ひとつない快晴だ。
ついでに、窓も開けた。
雨上がりだろうか。
冷たい風が部屋に吹き抜け、良川の瞳に一筋の光を取り戻した。
「お前の居ない世界ってのは、刺激が無くって、つまんねぇからな」
ああ、長かった。
肺がこんなに清々しい空気で洗われるまで。
良川とこうして向かい合うまで。
良川の瞳から、涙が出るまで。
そして、俺が再び笑顔になるまで。
「こんな人生なら、もう一回送りたいね」
良川は笑った。
そうだよ。
もう一回。
されどももう一度。
「行こう」




