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第六十九話 境目の人へ


どれだけの時間が経ったのか。分からなかった。ここでは時間が意味を持たない。僕はただ星の海を見ていた。何も書き換えず。何も失わず。ただ見ていた。書き換える力を持ちながら何一つ書き換えず。あらゆるものに手が届く場所で、ただ見ることだけを選んで。僕はそこに立っていた。この一点には、あらゆる情報を書き換える力があった。揺らぎの源。確定と揺らぎの境目。ここから手を伸ばせば。世界のどんな情報でも書き換えられる。自分の過去も。誰かの渇きも。母の恐れも。全部。でも僕は何もしなかった。書き換えるという考えがそもそも浮かばなかった。僕はこれを見に来たのだ。変えに来たのではない。そのたった一つの向きだけで僕はここまで来た。そして今気づいた。母がいちばん恐れたもの。取り返しのつかないところが変わってはいないかというあの問い。その答えがここにあった。僕は身体を書き換えた。脳を書き換えた。一秒ごとに更新し、無数の僕を消してきた。取り返しのつかないところは全部変わった。


でも。この見たいという向きだけは。ただの一度も変わらなかった。だから僕はまだ僕だった。書き換えられなかったのは身体でも、脳でも、記憶でも、なかった。この形を持たない渇きの向き。それだけが僕の変わらない芯だった。母の恐れへの答え。それはこのあらゆるものを書き換えられる場所で何も書き換えなかったというただ一つの行いの中にあった。


選んだというのも少し違う気がする。選ぶというのはいくつかの候補の中から一つを取ることだ。でも僕には候補がなかった。書き換えるという考えがそもそも浮かばなかったのだから。浮かばなかった理由は単純だ。


僕はこれを見に来たのであって。これを変えに来たのではないからだ。もし僕が何かを変えたくてここまで来ていたなら。たぶんこの場所にはたどり着けなかった。変えたいという願いは形を持つ。こうしたいという具体的な形を。形を持つものは揺らぎに解体される。あの最後の壁を越えられたのは。僕の渇きがただ「見たい」という形を持たないものだったからだ。変えたい者はここへは来られない。見たいだけの者だけがここへ来られる。そういう仕組みになっている気がした。そう考えるとこの場所はずいぶん意地が悪い。あるいはずいぶん優しい。どちらとも言えなかった。満たされていた。あの生涯を貫いた渇きが。初めて静かに凪いでいた。



ふと。境目に残るあの人のことを思った。久遠寺冴子。あの人は今もあの境目で待っているのだろうか。僕が戻って。ここで見たものを教えてくれるのを。


いや、たぶん待ってはいないだろうとも思った。あの人は賢い。僕が戻らない可能性が高いことも。戻ったとして言葉にできない可能性があることも。全部分かった上であの願いを口にした。叶わないと知りながら願う。それは願いというより祈りに近い。祈りは叶うことを前提にしていない。ただそう在ってほしいと思うだけのものだ。あの人は何十年もそうやって生きてきたのかもしれない。叶わないと知りながらあの底を見たいと願い続けて。その長い、長い、祈りの最後の形が。あの僕への一言だったのだろう。でも。僕にはそれができない。この星の海を。この暗いのに明るい光景を。言葉にしようとした瞬間。それはほどけて消える。僕はあの人に何も伝えられない。最もこの渇きを分かち合える人に。最もこれを見せたい人に。何も伝えられないまま。あの人はあの境目で。あるいは地上に戻って。永遠に渇いたまま。僕の帰りを待ち続けるのかもしれない。叶わぬ願いを抱いて。それはあまりに残酷だった。


でも。僕はそれを変える気にもならなかった。あの人の渇きを書き換えて消すことも。この場所の力ならできたのかもしれない。でもしなかった。あの人の渇きはあの人のものだ。僕の渇きが、僕のものであったように。それを消すことは。あの人をあの人でなくすることだ。だから僕はしない。ただ。あの人がいつか。どこかでこの星の海を。あの人自身のやり方で。見られることを。願うだけだった。叶わなくても。願うことだけは。僕にできた。


あの人は僕を送り出す手になったと言った。自分が届かなかった場所へ。僕を行かせるために。その願いは。半分叶った。僕はここへ来られた。あの人の送り出す手が。僕をここまで運んだ。でももう半分は。叶わない。僕は見たものをあの人に伝えられない。だからあの人は。自分が送り出した者が何を見たのかを。永遠に知らないまま。境目に残る。それは送り出す者の宿命なのかもしれなかった。送り出したものは。二度と同じようには戻らない。戻ったとしても。その手が届いた場所のことは。決して持ち帰れない。あの人はそれを知っていて。それでも僕を送り出した。その覚悟の深さを。僕はこの星の海の前で初めて思い知った。




それから僕は。遠い食卓のことを思った。母の味噌汁。父の疲れた背中。汐里のまっすぐな目。あの少ないおかずの並ぶ狭い食卓。僕がいちばん遠くまで来てなお。忘れられなかったあの温かさ。不思議なもので、思い出すのはいつも些細なことばかりだった。母が皿を洗うときの水の音。言いにくいことがあるときのあの遅くなる手つき。父の手の甲の細かい傷。汐里が風呂上がりに、髪を拭きながら僕の部屋の椅子に座るあの遠慮のなさ。立派なことは何一つ思い出さない。どうでもいい日常の断片ばかりが浮かんでくる。たぶんあれが家というものなのだろう。特別なことなど何もない。ただ同じ食卓で同じ味噌汁を何百回も飲む。その繰り返しだけが家だった。その繰り返しから僕はいちばん遠くまで来てしまった。母は今もあの食卓で僕の席を空けたまま待っているのだろう。その姿を想うと。満たされた渇きのその隣で。胸のいちばん柔らかいところが静かに疼いた。


僕がの短い手紙を読んで。勘のいいあの人はきっと察している。息子がもう戻らないかもしれない場所へ行ったことを。それでも母は。僕を責めることも追うこともできずに。ただ待つ。帰るかもしれない帰らないかもしれない息子を。その姿を想うと。満たされた渇きのその隣で。胸のいちばん柔らかいところが。静かに疼いた。ごめんなさいと心の中で呟いた。あの手紙の最後の一行を。もう一度。母には届かない謝罪を。




でも。と僕は星の海を見上げながら思う。僕は後悔してはいなかった。母を悲しませたことは申し訳ない。冴子の願いに応えられないことも辛い。でも。僕はここへ来たことを。この星の海を見たことを。あの届かない星に手が届いたことを。後悔してはいなかった。できなかった。


だって。これが僕だったのだから。あの海辺の夜からずっと。このたった一つの渇きが。僕だったのだから。その渇きを手放していたら。僕は母を悲しませなかったかもしれない。でもそのときの僕はもう僕ではなかった。僕は僕のままここへ来た。そして僕のままこの光景を見ている。それだけは。変えようがなかった。



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