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第六十八話 星の海


顔を上げた。そして僕は。息を呑んだ。


暗かった。どこまでも暗い。揺らぎのいちばん奥。あらゆる光がほどけ消える闇のいちばん底。なのに。明るかった。暗いのに明るい。その矛盾した光景が。僕の目の前に広がっていた。暗闇の中に。無数の輝点が。浮かんでいた。一つ一つが。小さく鋭く澄んで。瞬いている。いくつあるのか。数えられなかった。数えるという発想が意味を失うほど。無数の光が。暗闇のすみずみまで。満ちていた。


星。

星だった。星の海だ。



僕はその場に立ち尽くした。声も出なかった。ただその光景に。全身を貫かれていた。これが。いちばん深いところ。誰も帰ってこなかった場所。その底に。こんなものがあったのか。深く潜るほど世界は暗く狂い恐ろしくなっていった。悪夢だ、地獄だ、と。誰もが呼んだ。そのいちばん奥の奥に。こんな静かで。こんな美しいものが。待っていたのか。地獄のいちばん底が。星の海だったなんて。誰が想像しただろう。誰もしなかった。誰もここまで来なかったから。言葉もなく。ただそれを見ていた。揺らぎを超えて確立されたこの一点から見る揺らぎのすべて。解体され揺らめく無数の情報が。ここから見れば。まるで星のように。一つ一つ澄んだ光の点として。暗闇に瞬いている。


なぜそう見えるのか。たぶん確定した場所から見ているからだ。揺らぎの中にいたときはそれはただの恐ろしい混沌だった。輪郭を溶かし僕を呑もうとするもの。名前を、記憶を、意思を、ほどいていくもの。でも揺らぎを超えた場所から見ると。同じものがこんなにも澄んで見える。位置が変われば見え方が変わる。ただそれだけのことなのに。そのそれだけのことが。これほど違うのか。揺らぎは何も変わっていない。変わったのは僕が立っている場所だけだ。世界のいちばん根っこの揺らぎが。こんなにも。美しかった。誰も知らなかった。律も。冴子も。


このいちばん深いところの光景を。見た者は。いなかった。僕が初めてだった。誰も帰ってこなかったいちばん深いところ。その底に待っていたのは。絶望でも虚無でもなかった。星の海だった。同じ揺らぎが。中にいたときは恐ろしい混沌だった。輪郭を溶かし名前を記憶を意思をほどいていくもの。僕を呑もうとするもの。でもそれを超えた場所から見ると。こんなにも澄んで、透明だった。一つ一つが鋭い光の点として暗闇に瞬いている。揺らぎは何も変わっていない。変わったのは僕が立っている場所だけだ。中にいるか超えた場所から見るか。ただそれだけの違いで。地獄は星の海に変わる。その事実が僕には途方もなく大きなことに思えた。同じものが見る場所によってまるで違うものになる。だとしたら僕がこれまで恐れてきたものは。本当に恐ろしいものだったのか。それともただ恐ろしく見える場所から見ていただけなのか。その問いは静かに僕の胸に残った。


でも今は答えなくてよかった。ただこの星の海を。見ていたかった。



あの夜が蘇った。海辺の砂浜。黒い海と黒い空の境も分からぬ闇。その中に瞬いていた無数の星。あのとき僕は手を伸ばした。そして届かなかった。見えているのに届かない。その渇きが僕のすべての始まりだった。今。同じ光景が。目の前にあった。暗闇と。無数の星と。でも。あのときと一つだけ。違うことがあった。僕はそっと。手を伸ばした。あの夜と同じように。あの届かない星へ。そして。


——届いた。


気づけば僕は泣いていた。泣いたのはいつ以来だろうとぼんやり思った。上履きを隠されたときも泣かなかった。不適性と査定されたときも。枯渇死の淵で死にかけたときも。身体と脳を書き換えたときも。一度も泣かなかった。どれもあの底へ行くための途中の出来事にすぎなかったからだ。でも今。その途中の出来事のいちばん果てにたどり着いて。僕は初めて泣いていた。悲しくないのに。むしろ満たされているのに。涙だけが勝手に出てくる。十年以上僕を動かし続けてきた渇きが。やっと止まった。そのあまりの静けさに。書き換えた身体のいちばん芯にあるあの変わらない渇きが。今初めて。満たされていた。届いた。僕は。


ついに。届いた。


手が届いた。あの夜どうしても届かなかった星に。今僕の手が。触れていた。指の先に。星の光が。確かに。あった。温かくも冷たくもない。ただ澄んだ光の感触。感触という言葉が正しいのかも分からない。触れているというより触れ合っているに近かった。僕とその光の境目が曖昧になる。揺らぎの中で輪郭が溶けたときとは違う。あのときは僕が失われていく感覚だった。でもこれは逆だ。僕が増えていく。光と僕とが区別を必要としなくなる。そういう触れ方だった。届いた。届いてしまった。あんなにも遠かったものに。あんなにも届かなかったものに。僕は今。触れている。涙が出た。なぜ涙が出るのか。自分でも分からなかった。嬉しさとも悲しさともつかない何かが。胸のいちばん奥から静かに溢れて。


悲しくないのに。むしろ満たされているのに。涙だけが勝手に出てくる。たぶんこれは身体が勝手にやっていることだ。十年以上僕を動かし続けてきた渇きが。やっと止まった。そのあまりの静けさに。身体のほうが追いつけずにいるのかもしれない。書き換えた身体の書き換えた脳のそのいちばん芯にある。あの変わらない渇きが。今。初めて。満たされていた。


長かった。あまりに長い道のりだった。あの海辺の夜から。何年。いや書き換え続けた果てに時間の感覚などとうに壊れていた。ただ長かったということだけが。身体のいちばん奥に刻まれていた。燃費最悪の不適性と笑われた。上履きを隠された。いてもいなくても同じものとして無視された。枯渇死の淵で死にかけた。身体を脳を書き換えて。僕でなくなるかもしれない恐怖を何度も越えた。政争の駒にされ。誰にもこの渇きを理解されず。ただ一人で。ここまで来た。その全部の果てに。この一滴の光があった。届いた星のこの澄んだ感触が。それだけで。全部が。報われた気がした。届いた。僕は。ついに。届いた。



この一点にはあらゆる情報を書き換える力があるのだと。どこかで知っていた。でも。その力を使うという発想は。僕の中に微塵も湧かなかった。


書き換える?

何を?

この星の海を?

この届いた光を?

とんでもない。


僕はこれを変えたくてここへ来たのではない。僕はただ。これを見たくて。ここへ来たのだ。だから僕は何もしなかった。ただ手を伸ばし。星に触れ。そして。見ていた。その暗いのに明るい星の海を。いつまでも。



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