第六十七話 理解
その一点に足を踏み入れた瞬間。僕は理解した。いや理解という言葉は正しくない。理解は順を追って積み上げるものだ。前提があって推論があって結論がある。
僕はずっとそうやってこの世界を読んできた。削れ方を測り、式を立て、答えを出す。それが僕のやり方だった。でもこれは違った。足を踏み入れたその瞬間に。説明も順序もなく。ただ丸ごと理解した。前提も、推論も、結論も、区別のないまま。全部が一度にそこにあった。この場所が何なのかを。この世界が何なのかを。迷宮<ダンジョン>がなぜ在るのかを。
理解したその瞬間。これまでのあらゆる断片が。一つの絵の中に収まっていった。なぜ深いところほど、機械が動かないのか。機械は確定した法則の上でしか動かないからだ。揺らぎに近づけばその法則が揺らぐ。なぜ深いところほど武器が崩れるのか。物質の結合すら、確定した法則に依っているからだ。なぜ収束だけがあらゆる層で通用するのか。魔力は確定と揺らぎの境目にあるものだからだ。どちらにも片足を置いている。だから揺らぐ場所でも崩れない。なぜ深いところの資源が老いを押し返すのか。老いとは確定した時間の流れの結果で。揺らぎに近いものはその流れから少しだけ外れているからだ。久遠寺の人々が老いずにいたのは。揺らぎのほんの搾りかすを身体に取り込んでいたからにすぎない。搾りかす。そう搾りかすだ。探索の果実を、地上のあらゆる者が争い奪い合っていたものは。この場所から見れば零れ落ちたほんのかけらでしかない。全部が辻褄が合っていた。ばらばらだった断片が。一つの根から生えていた。その根が今僕の足元にあった。
言葉にしようとすると。うまくいかない。こうだと書こうとすると。その言葉が指の先からほどけていく。それでも伝えようとするなら。こういうことだった。この世界は。僕らが確かなものだと信じているこの世界は。本当は。揺らいでいる。いちばん根っこのところで。まだ定まりきっていない揺らぎの上に。辛うじて確定して成り立っている。迷宮<ダンジョン>とは。その根っこの揺らぎが。地上に顔を覗かせた一端にすぎなかった。世界の確定した表面に開いた小さな穴。その穴の奥を覗けば。世界が確定する前の揺らぎがある。深く潜るほど。その揺らぎに近づく。だから深いほど法則が狂い。いちばん深いところでは情報そのものが揺らいで解体される。思えば全部辻褄が合っていた。そして。その揺らぎのいちばん奥。あらゆるものがほどけ確定しないその中心に。ただ一点。揺らぎから生まれておきながら。揺らぎを超えて。確立された場所がある。それが。僕が今立っている。この最奥だった。
それは——。
そこで言葉は途切れた。この場所が何であるかのいちばん核心。それを言葉にしようとすると。言葉が追いつかなかった。いや追いつかないというのも正しくない。追いつく、追いつかないの、問題ではない。
言葉というものがそもそもそこに届く形をしていない。言葉は何かを指すものだ。指すためには指される側が確定していなければならない。でもこの核心は。確定した何かではないのだ。確定を生む側のもの。だから言葉では指せない。指そうとした瞬間それは指せるものに変質してしまう。変質してしまえばそれはもう核心ではない。いや言葉の問題ですらないのかもしれない。僕はそれを理解した。確かに丸ごと理解した。でもその理解は。言葉に翻訳できる種類のものではなかった。伝えられない。誰にも。この理解は。僕の中でしか成り立たない。外に持ち出そうとした瞬間に。ほどけて消える。冴子のあの願いが頭をよぎった。
戻ったら教えてくれないか。
——教えられない。
僕はこの場所で初めてそれをはっきりと知った。僕がここで理解したものは。言葉にした瞬間に理解でなくなる。だから僕は誰にもこれを伝えられない。あの人にも。母にも。誰にも。
その事実を僕は意外なほど静かに受け止めていた。悲しくはなかった。悔しくもなかった。なぜだろうと考えてすぐに分かった。僕はもともと誰にも伝わらないものを抱えて生きてきたからだ。あの渇き。説明できず名前もなく誰にも理解されなかったあの熱。母にも桐山先生にも汐里にも伝わらなかった。伝わらないことに僕はとっくに慣れていた。だからここでまた一つ伝わらないものが増えたところで。驚きはしなかった。むしろ腑に落ちた。僕がずっと抱えてきたあの伝わらなさは。この場所の伝わらなさと同じ種類のものだったのかと。最初から繋がっていたのかと。この最奥にたどり着けるのはたぶん僕だけだ。そしてそれはこの場所の本質と同じことだった。立った者にしか分からない。僕の渇きとこの最奥は。最初から同じ形をしていた。
最初から繋がっていたのか。その理解が静かに僕の中に降りてきた。この理解は僕がこの場所に立って初めて成り立つ。立った者にしか分からない。そしてこの場所に立てるのは。たぶん僕だけだ。そしてそれは。この場所の本質と同じことだった。最奥とは。揺らぎから生まれておきながら。揺らぎを超えて確立された一点。それは誰かに伝えることができない。伝えた瞬間にそれは言葉になり。言葉は揺らぎの側のものだからだ。この一点の本質は。この一点に立つことでしか理解できない。立った者の中でしか成り立たない。それはまるで僕の渇きと同じだった。誰にも理解されなかったあの渇き。立った者にしか分からないこの最奥。どちらもその人の内側でしか成り立たない。だからたぶん。この場所にたどり着けるのは。この渇きを抱えた僕だけだったのだ。渇きと最奥は。最初から同じ形をしていた。その途方もない孤独の中で。僕はようやく。顔を上げた。最奥のそのいちばん奥を。この目で見るために。




