第六十六話 最後の一歩
最後の壁を越えると。揺らぎは少しずつ静まっていった。いや静まったというのは違う。揺らぎのいちばん奥。あらゆるものが揺らぎほどけるその中心。そこに近づくほど逆に静けさが増していく。台風の目のように。嵐のいちばん激しいところを抜けた先に。ぽっかりと静かな場所があった。その静けさはこれまで味わったどんな静けさとも違っていた。深層の静けさは生き物の気配がない静けさだった。超深層の静けさは音が伝わらない静けさだった。
でもここの静けさは。揺らぎが届かない静けさだ。何もぶれない。岩は岩のまま。道は道のまま。僕の手は僕の手のまま。その当たり前のことが。どれほど久しぶりだったか。地上では当たり前すぎて気にも留めなかったこと。物がそこにそのまま在り続ける。それがこんなにも安らかなものだったとは。揺らぎの中をあれだけ歩いてきて。初めて僕はそれを知った。確かさというもののありがたさを。
自分の手を見る。輪郭がはっきりしている。滲んでいない。揺らいでいない。僕は確かにここにいる。その実感が久しぶりに身体に戻ってきた。その静けさの真ん中に。あの一点は在った。揺らがぬ一点。揺らぎのいちばん奥から生まれておきながら。揺らぎに呑まれず。ただ静かに確立されたひとつの場所。
僕はその一点へ向かって歩いた。もう更新を極限まで駆動する必要もなかった。壁を越えたからだ。ここは静かだった。だから僕は久しぶりに。ただ歩くということができた。その当たり前のことが。どれほど久しぶりだったか。
超深層に入って以来、僕は一瞬も休まずに自分を書き換え続けてきた。歩くという行為の裏側で絶えず無数の処理が走っていた。でも今はそれが要らない。揺らぎが届かないからだ。この静けさの中では僕はただの歩く人間でいられた。久しぶりに思考が一本になった。その一本の思考で僕は初めてゆっくりと考えることができた。自分がどこまで来たのか。何をしてきたのか。これから何を見るのか。一歩一歩。その一歩はもう削られる恐怖の一歩でもなかった。ただ近づくための一歩だった。
近づいている。確かに。あの一点が少しずつ大きくなる。これまでいくら近づいても同じ距離を保っていたあの一点が。今は確かに近づいている。その事実に僕の胸のいちばん奥が。静かに灼けた。この感覚を僕は知っている。六つの夜、砂浜で初めて感じたもの。あれから十年以上。僕を動かし続けてきたもの。それが今満たされる方向へ向かっている。この感覚を僕は知っている。六つの夜砂浜で初めて感じたもの。届かない星に手を伸ばしたあの胸の疼き。あれから十年以上。その疼きは一度も消えなかった。消えてくれれば楽だったのに。何度そう思ったか。
でも消えなかった。消えなかったから僕はここまで来た。燃費最悪の不適性と笑われた場所から。深層の底で身体と脳を書き換えたあの夜から。揺らぎを渇きひとつで越えたあの臨界まで。全部あの海辺の夜から続く一本の道だった。枝分かれも寄り道もなかった。ただまっすぐに。あの届かない星へ。その一本道のいちばん果てに。僕は今立っている。そしてその果てで。あの疼きが初めて満たされる方向へ向かっている。長い道だった。あまりに長い。でもその長さのすべてが。この最後の一歩に集まっていた。
歩きながら僕はあの夜のことを思い出していた。いちばん最初のあの夜。まだ六つの頃。海辺のキャンプ。両親とまだ小さかった汐里と。夜の砂浜に寝転んで。僕は空を見上げていた。黒い海と黒い空の境も分からぬ闇の中に。無数の星が瞬いていた。手を伸ばした。届かなかった。あんなにはっきりと見えているのに。どうしても届かない。その悔しさとも憧れともつかない胸の疼き。
あれが僕のすべての始まりだった。あの夜から僕はずっと渇いていた。見えているのに届かないもの。その一点に届きたくて。でもその渇きをまっとうに理解してくれる人は。誰もいなかった。母は恐れた。桐山先生は諦めろと言った。同級生は僕をいてもいなくても同じものとして扱った。誰も僕のこの渇きを。分かってはくれなかった。だから僕は隠した。器用に、そこそこの落ちこぼれを演じて。この渇きだけは。誰にも渡さずに。胸のいちばん奥にしまって。一人で深いところへ潜り続けた。律だけが。冴子だけが。同じ渇きを抱えていた。
でも二人とももう隣にはいない。律は死に。冴子は境目に残った。だからこの最後の道は。結局僕一人の道だった。あの届かない星への渇き。それが僕をここまで運んできた。燃費最悪の不適性と呼ばれた場所から。深層の底で身体と脳を書き換えたあの夜から。揺らぎを渇きひとつで越えたあの臨界まで。全部。あの海辺の夜から続く一本の道だった。
そして今。僕はその道のいちばん果てに来ていた。あの一点が。あの届かない星が。もう目の前にあった。あと一歩。あと一歩で。僕はあそこに立てる。誰も立ったことのない場所に。律も冴子も届かなかった場所に。僕はその最後の一歩の前で。ほんの少しだけ足を止めた。こわいからではなかった。ただ。あまりに長い道のりだった。そのいちばん果てに立つその一歩を。ほんの一瞬だけ。噛みしめたかった。
この一歩を踏み出せば。僕の渇きはたぶん満たされる。十年以上僕を動かし続けてきたものが。終わる。その終わるという言葉が。少しだけこわかったのかもしれない。渇きは苦しいものだった。誰にも理解されず。説明もできず。家族に無理をさせ。自分の身体と脳まで書き換えさせた。でも同時にそれは僕そのものでもあった。あの渇きがなければ僕は何者でもない。燃費最悪の不適性で。教室の隅でうつむいているだけの誰かだった。渇きが僕を僕にしていた。その渇きが満たされたら。僕は何になるのだろう。空っぽになるのだろうか。それとも別の何かに。分からない。考えても分からない。だから考えるのはやめた。見てから考えればいい。息を吸う。揺らぎのいちばん奥の静かな空気を。この空気を吸っているのが僕なのかどうか。その問いも今日は脇に置いた。そして。僕はその最後の一歩を。踏み出した。




