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第六十五話 超えた


速さでは拮抗は破れなかった。僕が速くなるほど世界も速くなる。その無限の追いかけっこの中で僕は確信していた。これは速さの問題ではない。速さで勝とうとするかぎり。僕と世界は永遠に拮抗し続ける。同じ論理の表と裏だから。鏡だから。


ならと僕は考えた。鏡が映さないものは何だ。鏡は形を映す。こちらが手を上げれば向こうも手を上げる。こちらが速くなれば、向こうも速くなる。形あるもの、量あるもの、動きあるもの。その全部を鏡は正確に映し返す。でも鏡が映せないものが一つある。こちらがどちらを向いているかだ。いやそれも映る。鏡の中の像もこちらを向いている。でも向きの意味は逆になる。こちらの右は鏡の中では左だ。向きだけが鏡を通ると反転する。反転するということは、そのままでは映らないということだ。なら。鏡に映らないもので勝つしかない。


世界の揺らぎが決して持たないもの。形を持たないもの。渇き。あそこを見たいというただの向き。向きには大きさがない。輪郭もない。掴むべき形がない。だから揺らぎはそれをほどけない。解体は形あるものにしか効かないからだ。僕はずっと世界と同じ土俵で戦っていた。速さで。力で。確立の量で。だから勝てなかった。全部揺らぎが解体できる形あるものだったからだ。でも渇きは違う。鏡に映らない。世界のあらゆるものを揺らがせるこの場所で。僕の渇きだけが。揺らぎの手の届かない場所にあった。その一点に賭けるしかなかった。



僕は更新の螺旋のいちばん芯を見つめた。速さの嵐の真ん中で凪いでいるあの一点を。渇き。あそこを見たいというたった一つの方向。これだけは。世界がいくら解体しても揺らがなかった。僕がいくら書き換わっても変わらなかった。なぜならこれは情報ではないからだ。これは形ではない。だから解体できない。揺らぎは形あるものしか解体できない。でも渇きは形を持たない。あそこへ向かうというただの方向。方向には形がない。だから揺らぎはそれを掴めない。解体できない。それは灯台のような発見だった。これまで僕は世界と同じ土俵で戦おうとしていた。速さで。力で。確立の量で。でもそれらは全部。世界が解体できる"形あるもの"だった。だからいくら競っても拮抗した。鏡像だから。でも渇きは違う。鏡に映らない。世界のあらゆるものを揺らがせほどくこの場所で。僕の渇きだけが。揺らぎの手の届かない場所にあった。



僕は速さを追うのをやめた。その決断はこれまででいちばんこわかったかもしれない。速さこそが僕をここまで運んできたのだから。速く組む。速く更新する。速く確定させる。その全部を手放す。手放した瞬間に揺らぎに呑まれるかもしれない。それでも僕はやめた。速さで競っている限り勝てないと分かってしまったからだ。分かってしまえば続ける意味はない。意味のないことを続けて死ぬくらいなら。試したことのないやり方で死ぬほうがまだいい。代わりにその揺らがぬ渇きに。自分の全部を預けた。確立を渇きに委ねた。速く確立しようとするのではなく。ただ渇きの向かう方向へ。流れを任せた。委ねるというのがどういうことなのか。言葉にするのは難しい。これまで僕は自分の力を自分で制御してきた。どこにどれだけどう使うかを全部自分で決めてきた。それが僕のやり方だった。でも今は決めない。渇きが向く方へ、力が勝手に流れていくのに任せる。自分が自分の力の主でなくなる感覚。こわかった。でも同時に奇妙なほど自然でもあった。思えば僕はいつもこの渇きに引きずられてきたのだ。覚醒したときも。あの夜深いほうへ走ったときも。禁忌を越えたときも。僕が決めたのではない。


渇きが先に行って僕が追いかけた。


だとしたら、今委ねるのは。もともとの形に戻るだけのことだった。すると。奇妙なことが起きた。揺らぎが僕を解体しようとする。でもその解体のいちばん芯に渇きがあると。揺らぎはそれを掴み損ねる。掴み損ねたその一瞬。僕の確立が揺らぎの解体を。ほんのわずかに。髪の毛一本ぶん上回った。勝ったという実感はなかった。劇的な突破もなかった。ただ。気づけば。あの極大だった圧が。僕の後ろにあった。


いつ越えたのか分からない。どこで上回ったのか分からない。その分からなさがかえってこの越え方の性質を表していた。力ずくで破ったのなら。破った瞬間があるはずだ。衝撃があり手応えがあり境目がある。でも僕がしたのは破ることではなかった。揺らぎに掴まれない形になっただけだ。掴まれないものは押し戻せない。押し戻せないから、僕は進めた。抵抗が消えたのではない。抵抗する相手として僕が認識されなくなった。そういう越え方だった。


だから境目も衝撃もなかった。ただ気づいたら。僕は拮抗を抜けていた。解体する世界を渇きひとつで。わずかに上回って。その最後の壁の向こう側に。静かに立っていた。委ねるということを僕は生まれて初めてした。これまで僕は自分の力を一分の隙もなく制御してきた。どこにどれだけどう使うか。その全部を自分で決めた。測って計算して配分する。それが量を持たない僕の生き方だった。でもこの場所で僕は決めるのをやめた。渇きが向く方へ。力が勝手に流れていくのに任せた。自分が自分の力の主でなくなる。その感覚はこわかった。でも同時に奇妙なほど自然でもあった。思えば僕はいつもこの渇きに引きずられてきた。覚醒したときも。深いほうへ走ったときも。禁忌を越えたときも。僕が決めたのではない。渇きが先に行って僕が追いかけた。だとしたら今委ねるのは。もともとの形に戻るだけのことだった。制御を手放して。僕は初めて僕という流れのいちばん自然な形になった。


派手さは何もなかった。勝利の感慨もなかった。あるのはただ静かな事実だけ。越えた。律が届かなかった場所を。冴子が足を止めた場所を。誰も越えられなかった最後の壁を。僕は越えた。速さではなく。力でもなく。ただ揺らがない渇きひとつで。


そして僕はさっきの反発の正体を理解した。律が持っていなくて僕が持っていたもの。それは力でも効率でもなかった。律も冴子も渇いていた。同じくらい強く。でも二人はその渇きを道具として使わなかった。律は渇きを動機にした。行きたいから行く。冴子も渇きを動機にした。見たいから潜る。僕もそうだった。ずっとそうだった。でもこの場所で僕はそれを動機ではなく。力そのものとして使った。揺らがないものに身を委ねるという形で。その使い方にたどり着けたのは。たぶん僕がいちばん量を持っていなかったからだ。量があれば力で押す。効率があれば効率で押す。僕はその全部が通じない場所まで来てしまった。だから最後に残った渇きに頼るしかなかった。持たざる者だったことが。いちばん最後で僕を拾った。顔を上げる。揺らめく世界のそのいちばん奥。あの揺らがぬ一点が。もうすぐそこにあった。手を伸ばせば。届きそうなところに。



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