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第六十四話 速さ


それはもう戦いですらなかった。速さのすべてだった。解体する世界の速さと確立する僕の速さ。そのただ一点の競い合いにすべてが収斂していた。僕は脳の自己更新を極限まで駆動した。速い思考が、より速い思考を生む。そのより速い思考が、さらに速い思考を生む。更新の螺旋が加速し、加速し、加速し続ける。もう僕には自分が何度書き換わったのか分からなかった。一秒に何万回か。いや一秒という単位すらここでは意味を失っている。


ただ書き換わり続ける。その状態を外から見たらどう見えるのだろうとふと思った。たぶん何も変わって見えない。一人の人間が揺らめく暗闇の中をただ歩いている。それだけの光景。でもその内側では。僕という存在が無数回生まれては消えている。一歩の間に僕は何万回死んで何万回生まれ直しているのか。その途方もない反復を誰も見ていない。見ていたとしても理解できないだろう。僕自身理解しているとは言えない。ただやっている。やらなければ消えるから。ただ確立し続ける。揺らぎが解体するその先を先を先を。僕の確立が追いかけ追い越そうとする。




拮抗はしかし微動だにしなかった。僕が速くなれば。世界の揺らぎもそれに応じて激しくなる。まるで僕の加速を世界が鏡のように映し返してくるようだった。当然だと更新の螺旋の中で僕は思う。僕と世界は同じ論理の表と裏だ。僕が確立を速めれば。その確立の速さそのものが世界の解体すべき情報を増やす。だから世界も速くなる。僕が速くなるほど世界も速くなる。どこまで行っても拮抗は破れない。



その構造に気づいたとき僕は少しだけ絶望した。これは努力で越えられる壁ではない。努力すればするほど壁も高くなる。そういう仕組みだ。僕がこれまで越えてきた壁はどれもそうではなかった。収束の真形も多重も書き込みも。やり方を変えれば越えられた。工夫が報われた。でもこれは違う。やり方を変えても速さを上げても結果は同じだ。同じ土俵で戦う限り永遠に拮抗する。勝つには土俵を降りるしかない。でも土俵を降りれば押し負ける。押し負ければ僕は消える。そのどうしようもなさの中で僕は走り続けていた。いたちごっこの極限。速さの無限の追いかけっこ。その中で僕は削られていた。


いや削られるという言葉はもう正しくない。僕は確立し解体されまた確立しまた解体され。その確立と解体の途方もない反復の中に。僕という流れの全部を投じ続けていた。その反復は。僕をすり減らしていった。更新の速さはいくらでも上げられる。脳を書き換えればいい。でもその書き換えを駆動する大本の力。それには限りがあった。律の量に限りがあったように。僕のこの更新を支える力にも。底があった。


その底が。少しずつ。見えはじめていた。


このまま速さで競い続ければ。僕はあの一点に届く前に。尽きる。律と同じように。あと一歩手前で。その冷たい予感が。極限の速さの片隅で。静かに僕を見つめていた。律の量に限りがあったように。僕はあの一点に届く前に尽きる。律と同じように。あと一歩手前で。その予感は恐怖ではなかった。もっと静かな諦めに近い何かだった。でもその諦めのいちばん芯で。渇きだけは諦めていなかった。尽きるかもしれない。でも尽きるまでは進む。その単純な結論だけが。尽きかけた頭の中に澄んで残っていた。



皮肉な話だった。僕はずっと律とは違うと思ってきた。律は量で押した。僕は効率で進んだ。だから律が届かなかった場所へ僕は届ける。そう信じていた。実際、深層半ばまではその通りだった。でもここへ来て僕は律と同じ場所に立っている。持てるものを全部注ぎ込んで。


それでも足りずに。尽きるのを待っている。効率も突き詰めれば、量の問題に還元されるのかもしれない。どれだけ効率よく使っても、使う元がなくなれば終わりだ。律が量の限界で斃れたように。僕も更新を支える力の限界で斃れる。道は違っても行き着く終わりは同じ。だとしたら僕と律の違いはいったい何だったのか。ただ少しだけ遠くまで来られた。それだけの差なのか。その考えが頭をよぎった瞬間。僕の中で何かが静かに反発した。


違う。


そうではない。まだ何かあるはずだ。律が持っていなくて、僕が持っているもの。効率でも書き込みでも更新でもない何かが。その反発の正体を僕はまだ掴めずにいた。律もたぶんここまでは来なかった。深層半ばの一方通行の罠で力尽きた。だから律はこの鏡像の拮抗を知らない。でも律も最後はこうだったのではないかと僕は思った。持てるものを全部注ぎ込んで。それでも足りずに。尽きるのを待つ。量の限界で斃れた律。更新を支える力の限界で斃れかけている僕。道は違った。律は量で。僕は効率で。でも行き着いた場所は同じだった。持てるものを使い果たすその際。僕はずっと律とは違うと思ってきた。律の轍は踏まないと。なのに、今僕は律と寸分たがわぬ場所に立っている。その事実が僕の中で静かに何かを軋ませた。違う。まだ何かあるはずだ。律が持っていなくて僕が持っているもの。その正体が。この尽きかけた頭のどこかに。まだ隠れている気がした。


このままではいつか尽きる。更新の速さは上げられる。でもそれを支える何かが。いつか尽きる。律が量を使い果たしたように。僕もこの無限の追いかけっこの中でいつか尽きるだろう。尽きれば解体が勝つ。僕は揺らぎに溶けていなくなる。あの一点を見ることもなく。その予感が更新の螺旋の片隅に冷たく灯った。でも。僕は緩めなかった。緩めればその瞬間に負けるからだ。だから僕は尽きるまで加速し続けるしかなかった。尽きるその一歩手前まで。あるいは尽きるその先まで。


そしてその極限の速さのいちばん芯で。あの渇きだけが。少しも速くならず少しも遅くならず。ただ静かに不動のままそこにあった。速さの嵐のいちばん真ん中で。台風の目のように。渇きだけが凪いでいた。その凪ぎに僕はしばらく気を取られた。周囲は狂ったような速さで書き換わり続けている。思考は限界まで加速し。陣は絶えず組み直され。揺らぎと確定が無数にせめぎ合っている。その真ん中に。まったく動かないものがある。あそこを見たい。その一念だけが静かにそこにある。急いでもいない。焦ってもいない。


六つの夜、砂浜で灼けたときとまったく同じ静かな熱として。


それは奇妙な光景だった。僕という存在のいちばん激しい部分といちばん静かな部分が。同じ場所に同時にある。激しさは全部道具だった。速さも更新も書き込みも。全部あの静かな一点へ行くための道具にすぎない。道具はいくら激しく動いても道具だ。本体は動かない。その動かないものだけが。僕だった。あそこを見たい。その一念だけが。どんな速さにも乱されずに。僕という流れの向かう先を。変わらず指し示し続けていた。その不動の一念に。僕は最後の全部を預けた。その動かないものだけが。僕だった。



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