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第六十三話 拮抗


圧はついに極大に達しようとしていた。あの一点がもうはっきりと大きく見える。でもその周りの揺らぎの濃さも、想像を絶していた。


ここは世界の揺らぎのいちばん源に近いところ。情報がいちばん激しく解体される場所。僕が一つの陣を確立する。その端から揺らぎがそれを解体しにかかる。僕が確立する速さと。揺らぎが解体する速さが。ほとんど拮抗していた。



その拮抗に最初に気づいたのは進みが止まったときだった。歩いているのにあの一点が近づかない。いや近づいてはいる。でもその速度がみるみる落ちていく。最初は疲れかと思った。でも疲れではなかった。僕が一歩確立して進むたびに。その一歩を揺らぎが解体して戻そうとしている。僕が進んだぶんだけ、世界が僕を押し戻す。その押し合いが拮抗に近づくほど。僕の進みは止まっていく。あと少しで完全に止まる。止まればあとは押し負けるだけだ。押し負ければ僕は揺らぎに還る。その未来がはっきりと見えた。


その拮抗の中で僕はある奇妙な事実に気づいた。僕とこの世界は。まったく同じことを逆向きにしていた。迷宮<ダンジョン>は——この世界の揺らぎは。確定した情報を解体し揺らぎへと還していく流れだ。秩序を混沌へ。形あるものを形なきものへ。そして僕は。揺らぐ情報を確立し形あるものへと組み上げていく流れだ。混沌を秩序へ。形なきものを形あるものへ。まったく同じ揺らぎの論理を。僕らは正反対の向きに辿っている。その気づきは僕を奇妙に落ち着かせた。これまで僕はこの超深層を得体の知れない化け物のように感じていた。あらゆる法則を狂わせ輪郭を溶かし僕を呑もうとするもの。理解の及ばない恐怖の塊。


でもそうではなかった。この世界と僕はまったく同じことをしていた。向きが逆なだけで。世界は確定を揺らぎへほどく。僕は揺らぎを確定へ組み上げる。同じ論理を共有している。だからこれほど綺麗に噛み合い拮抗する。まったく異質なもの同士ならこんなに正確には押し合えない。同じ言葉を話しているからこそ。一歩ごとに過不足なく拮抗する。僕はこの世界の敵ではなかった。この世界の裏返しだった。鏡のこちら側と向こう側。その理解は恐怖を親しみに近い何かへと変えた。自分と同じ形をしたものと向かい合っている。それだけのことだと。


その事実に気づいたとき僕は奇妙な感情を覚えた。敵意ではなかった。むしろ親近感に近かった。この世界と僕は同じことをしている。向きが違うだけで。だから僕らはこんなにも噛み合う。噛み合って拮抗する。まったく違うもの同士ならこんなに綺麗には拮抗しない。同じ論理を共有しているからこそ。一歩ごとに正確に押し合える。僕はこの世界の敵ではない。この世界の裏返しだ。その理解は僕を少しだけ落ち着かせた。得体の知れないものと戦っているのではない。自分と同じ形をしたものと向かい合っている。それだけのことだ。解体する世界と。確立する僕。それは鏡像だった。世界が右手でほどくものを。僕は左手で結び直す。世界が崩すその速さで。僕は組み上げる。同じ動きを。正反対の向きに。まるで世界と僕とが。一枚の鏡を挟んで。向かい合っているようだった。


そして僕は思った。もしこの鏡の両側が。完全に同じ速さなら。僕は永遠にここから進めない。鏡像は決して鏡を越えられないからだ。越えるには。鏡に映らない何かが。要る。その二つが今真正面からぶつかり拮抗していた。僕が一歩確立すれば世界がそれを一歩解体する。世界が一歩解体すれば僕がそれを一歩確立し直す。その途方もない綱引きが。一秒の何万分の一の間隔で。繰り返されていた。どちらも譲らない。どちらも勝てない。僕が速くなれば世界も速くなる。僕が強くなれば世界も強くなる。鏡像の宿命だった。鏡の中の像は決して鏡を越えられない。こちらがどれだけ力を込めても。向こうも同じだけ力を込め返す。その完璧な拮抗の中で。僕は少しずつすり減っていった。このままではいつか尽きる。尽きれば解体が勝つ。その冷たい予感の中で。僕はそれでも緩めなかった。緩めればその瞬間に負けるからだ。



これが最後の壁だった。


単純な燃費の壁。武器を持つ者が深層で越えられなかった丸腰の壁。量を持つ律が越えられなかった消耗の壁。恐怖を知る冴子が越えられなかった自己喪失の壁。そのすべての壁のさらに奥。いちばん深いところのいちばん手前にある最後の壁。


思えばこの道のりは壁の連続だった。僕の最初の壁は収束が不適性だという世界の常識。あれを僕は真形の発見で越えた。次の壁は単層の限界。あれを多重で越えた。次は深層半ばの加速する圧。あれを書き込みで越えた。次は超深層の揺らぎ。あれを自己更新で越えた。そして今。解体する世界そのものとの正面からの拮抗。越えるたびに壁は大きくなっていく。


最初の壁は人が作ったものだった。次の壁は僕自身の限界だった。そして今の壁は世界そのものだ。これ以上に大きな壁はたぶんない。この先にまだ壁があるとしたら。それはもう壁と呼べるものではないだろう。解体する世界と確立する僕とが正面から拮抗するこの臨界。ここを越えなければ。あの一点には届かない。でも越えるには。僕が世界の解体速度を。わずかにでも上回らなければならない。世界そのものの根源的な力を。たった一人の僕が。上回る。そんなことができるのか。分からなかった。ただ一つだけ分かっていた。止まれば負ける。緩めれば解体が勝つ。だから僕は更新を極限まで加速し続けた。解体の速さに食らいつき。わずかでもそれを上回ろうと。脳の自己更新のその螺旋を。これまでの比ではない速さで回し続けた。もっと速く。もっと速く。僕という流れのすべてを注ぎ込んで。あの一点へ向かうたった一つの方向に。僕は全部を賭けた。




賭けながら頭の隅で僕は一つのことを考えていた。なぜこの世界は僕を押し戻すのだろう。悪意があるわけではないはずだ。揺らぎに意思はない。ただ性質として確定したものをほどく。それだけのことだ。でもと僕は思う。だとしたらなぜあの一点はほどかれずに在るのか。揺らぎのいちばん濃いところで。いちばん激しくほどこうとされているはずの場所で。あの一点だけが確定を保っている。


どうやって。その答えが分かれば。僕も同じことができるのではないか。あの一点と同じやり方で揺らぎに抗えるのではないか。その考えはしかしすぐに行き止まりになった。僕にはあの一点がどうやって確定を保っているのか分からない。遠すぎて見えない。近づかなければ分からない。でも近づくにはその答えが要る。堂々巡りだった。


だから僕は考えるのをやめた。考えても答えが出ないなら。答えの出ないまま進むしかない。これまでもそうしてきた。あの夜も。深層半ばでも。答えを先に掴んだことなど一度もなかった。いつも追い詰められてから身体が答えを見つけた。だったら今回もそうなのだろう。そう腹を括って。僕は更新を加速し続けた。考えることを手放すのは。僕にとっていちばん難しいことだった。でもその難しいことをしなければ。この答えの出ない壁は越えられない気がした。



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