↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
63/71

第六十二話 止まれない


やがて、僕のいちばんの武器だったあの"一歩ずつ"が。通用しなくなった。


これまで僕はどんな深さでも一歩ずつ進んできた。進んで、削れ方を測って、また進む。その慎重さが僕を生かしてきた。あの夜、無知ゆえに死にかけて以来。僕は測ることだけを信じてここまで来た。測れなくなった超深層でも僕はまだ慎重さだけは手放していなかった。


一歩ごとに周囲を確かめ揺らぎの濃さを感じ取り身体の状態を確認する。その習慣がまだ残っていた。でもこの極大へ向かう圧の中では。一歩を測っているその間にも。圧は加速し、揺らぎは濃くなり、僕は削られ、溶けかけていく。立ち止まって測るというそのわずかな時間すら。もう、許されなかった。測ることは僕のいちばんの武器だった。その武器をここでは使えない。使えばその分だけ死に近づく。最後に残っていた僕らしいやり方を。僕はここで手放すことになった。止まればその瞬間に揺らぎに呑まれる。だから僕は止まらずに進み、止まらずに更新し続けるしかなかった。


脳の自己更新。最適化した脳で脳をさらに最適化しそれを更新し続ける。これまでも僕はそれをしていた。でもそれは時折必要に応じて行うものだった。今は違う。一秒も途切れさせられない。更新を緩めた瞬間に圧に追い越される。だから僕は進みながら絶え間なく自分を書き換え続けた。思考を速く。その速い思考で、思考をもっと速く。そのもっと速い思考でさらに速く。螺旋のように。自分で自分を追い越し続ける。その螺旋をリアルタイムで途切れなく回し続ける。その螺旋の中で僕は無数に生まれ無数に消えていた。一歩の間に何万回書き換わったのか。書き換わるたびにさっきの僕は消える。消えて次の僕が生まれる。その生成と消滅を途切れなく繰り返しながら。僕は一歩を進む。それは見方によっては。一歩ごとに何万回死んでいるということだった。誰にも看取られず。僕自身にすら気づかれず。無数の僕がこの超深層で静かに消えていく。でもその無数の死を。僕はもう恐れなくなっていた。消えていくのは水だ。残るのは向きだ。水がいくら入れ替わっても。川は同じ方向へ流れ続ける。その流れ続けることだけが。僕という存在だった。だから僕は死に続けながら生き続けていた。その矛盾の中をただあの一点へ向かって。



その状態を僕は内側からこう感じていた。まず今の自分が限界に達する。限界に達した瞬間その自分では揺らぎに追いつけなくなる。そこで書き換える。書き換えた自分は少しだけ速い。その速さでしばらく追いつける。でもすぐにまた限界が来る。だからまた書き換える。


その間隔がどんどん短くなっていく。最初は数十歩に一度だった。次は数歩に一度。やがて一歩に一度。そして一歩の中で何度も。書き換える間隔が限りなくゼロに近づいていく。ゼロに近づけばそれはもう断続ではなく連続だ。僕は連続的に書き換わり続けている。その状態をなんと呼べばいいのか。生きていると呼ぶには変化が激しすぎる。死んでいると呼ぶには僕は確かにここにいる。どちらでもない何か。名前のない状態で僕は歩いていた。止まれば死ぬ。いや死ぬという言葉すら正しくない。止まれば揺らぎに溶けて"いなくなる"。だから回し続ける。際限なく。休みなく。一瞬も"元の自分"に戻らずに。




時間の感覚が壊れていった。一歩を進むのに永遠がかかっているように感じる。その永遠の一歩の間に僕は無数回、自分を書き換えている。書き換えるたびに"さっきの僕"は消えていく。消えて次の僕が生まれる。その生成と消滅を途切れなく繰り返しながら。僕は一歩を進む。一歩が永遠で。永遠が一瞬で。その壊れた時間の中で。ときどき奇妙なことが起きた。


自分がいま進んでいるのか止まっているのかが分からなくなる。景色は変わっている。でも変わっているのは僕が進んだからなのか揺らぎが動いたからなのか。区別がつかない。あるいはこんなこともあった。ふと気づくと僕は同じ光景を二度見ている。いや二度目なのかそれとも似た光景なのか。記憶が揺らいでいるから確かめようがない。同じところをぐるぐる回っているのではないか。そんな不安が何度も頭をよぎった。そのたびに僕は渇きを確かめた。渇きが指す方向へ進んでいるか。それだけは確かめられる。渇きは揺らがないから。だから方向だけを信じて進む。


距離も、時間も、経路も、全部捨てて。


方向だけが僕に残された唯一の確かなものだった。僕はもう"一人の人間が歩いている"という感覚を失っていた。僕は歩いているというより。更新され続ける一つの流れになっていた。その流れになったという感覚は。奇妙なほど恐怖を伴わなかった。これまで僕は書き換えるたびに恐れてきた。まだ僕かと。でもこの極限の更新の中では。その問いを抱く暇すらなかった。問いを抱くその僕が次の瞬間には書き換わっているのだから。問いは生まれた端から更新に押し流されていく。残るのはただ流れることだけ。そして皮肉にも。問いが消えたことで。僕は初めてその問いの答えに近づいていた。流れているというこの状態。中身が絶えず入れ替わりながら方向だけが変わらないこの状態。これこそが。"僕である"ということの正体だったのかもしれない。止まらない流れ。止まれば消える流れ。その流れがあの一点へと絶え間なく向かっている。



こわくなかったかと問われれば。こわかったと答えるしかない。でもそのこわさすら。更新の速さの中で追い越されていった。こわいと思うその僕は次の瞬間にはもう書き換わっている。だからこわさが根を張る暇もない。恐怖には育つ時間が要る。こわいと感じて。その感じが根を張り。やがて身体を竦ませる。その一連の流れにはほんの少しの時間が要る。でも僕の更新はその時間を与えなかった。こわいと感じたその僕が。次の瞬間には書き換わっている。書き換わった僕はさっきの恐怖を引き継がない。だから恐怖は生まれた端から流されていく。根を張る間もなく。それは楽なようで恐ろしいことだった。恐怖は危険を教える警報だ。その警報が鳴ってもすぐに消える。僕は危険を危険と感じられなくなっていた。警報の鳴らない身体でいちばん危ない場所を歩く。その矛盾を抱えたまま。僕はただ流れ続けた。流れることだけがこの場所での生き方だった。



それは救いのようでもあった。恐怖を感じずに済む。感じてもすぐに流れていく。でも同時に恐ろしくもあった。恐怖というのは生き物にとって大事な仕組みだ。危ないものから身を守るための。その仕組みが機能しなくなっている。僕は今危険を危険として感じられなくなっている。感じても次の瞬間には忘れている。それは無敵になったのではなく。ただ警報が鳴らなくなっただけだ。警報が鳴らない生き物はいずれ死ぬ。その理屈は分かっていた。分かっていてどうしようもなかった。更新を止めれば警報は戻る。でも更新を止めればその瞬間に揺らぎに呑まれる。だから僕は警報のない身体で進むしかなかった。あるのはただ更新し続けるという行為だけ。そしてその全部を貫いて。あの渇きだけが。少しも揺らがずにそこにあった。あそこを見たい。その一念だけが壊れた時間の中で唯一壊れずに。僕という流れの向かう先を指し示し続けていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。