第六十一話 近づく一点
冴子と別れてから、どれだけ進んだだろう。時間の感覚はとうに意味を失っていた。
地上を出てから何日経ったのかも分からない。いやそもそも日という単位がここでは無意味だった。夜も朝もない。空腹も感じない。身体強化の陣が、常時、身体を支え続けているからだ。眠気も来ない。脳の自己更新を止められない以上、眠るという行為がそもそも成立しない。眠れば、更新が止まる。止まれば、揺らぎに呑まれる。だから僕はずっと起きている。
人がどれだけ眠らずにいられるものなのか僕は知らない。でもたぶん僕はもうそういう単位で測れる生き物ではない。食べず、眠らず、揺らぎの中を歩き続けている。その状態をまだ「生きている」と呼べるのかどうか。考えて僕はやめた。呼べようが、呼べまいが、僕は進むだけだ。
揺らめく超深層の中で僕はただあの一点だけを見つめて進んでいた。揺らがぬ一点。最奥。あらゆるものが揺らぎほどけ確定しないこの世界で。ただそこだけが微動だにせず、静かに在る。星に似ていた。あの夜海辺で見上げた届かない星に。近づいているはずだった。でもその一点はいつまでも同じ距離を保っているように見えた。近づいても。近づいても。届かない。見えているのに届かない。そのあまりに馴染んだ渇きの中を僕は進み続けた。馴染んだというのがまた可笑しかった。十年以上僕はこの感覚と一緒にいる。届かないことに慣れてしまっている。慣れているのに諦められない。その矛盾したものを僕はずっと抱えて生きてきた。
歩きながら僕はしばしば思い返した。思い返すというのもこの場所では危うい行為だった。記憶が揺らぐからだ。でも揺らいでもいいと思った。思い返したかったのは事実ではなく感触のほうだ。寮の天井の染み。あの少し歪んだ楕円。毎朝あれを見て起きていた。あの頃の僕は燃費最悪の不適性で。この学校でいちばん値打ちのない生徒だった。誰も僕に期待していなかった。僕自身もしていなかった。ただ胸の裏の熱だけが消えてくれなかった。消えてくれれば楽だったのに。何度そう思ったか。
その熱が僕をここまで運んだ。運んで今あの一点の目の前に立たせている。消えなくてよかったとはまだ言えない。言えるとしたらあの一点を見たあとだ。見てそれがこの道のりに値するものだったかどうか。それを確かめるまでは。もっともと僕は思う。値しなかったとして僕はどうするのだろう。がっかりするのか。後悔するのか。たぶんしない。値するかどうかなど最初から問題ではなかった。僕はただ見たかった。見たかったものがつまらないものでも。見たという事実だけでたぶん僕は満たされる。そういう質の渇きなのだ。得も意味も要らない。その単純さだけが。僕をここまで運んだ。
変化はあるときから始まった。あの一点がほんの少しだけ大きく見えはじめた頃。圧がそれまでと違う増え方をしはじめた。深層半ばのあの一方通行の圧。それでもあれは一段ずつ跳ね上がる階段のような増え方だった。でも今の圧は違った。階段ではない。滑らかに、しかし際限なく加速していく坂だった。進むほどに圧が増す。増した圧に慣れる間もなくまた増す。その増加そのものが加速していく。僕は脳の自己更新を速めた。揺らぎに追いつくために。速めた思考で揺らぎと確定を競い続けた。これまではそれで足りていた。
その更新の速め方にも僕なりの手順ができていた。闇雲に速くすればいいというものではない。脳のどこをどう書き換えれば何が速くなるのか。それを少しずつ把握してきた。思考の分岐を増やせば同時に扱える対象が増える。処理の階層を減らせば一つの判断が速くなる。記憶の参照を浅くすれば反応が鋭くなる。その代わり深く考えることができなくなる。
どこを削りどこを伸ばすか。それは自分という道具をその場に合わせて作り替える作業だった。最初は恐ろしかったその作業もいつのまにか手慣れてきていた。手慣れてきたことがいちばん恐ろしい。人が自分の脳をいじることに慣れていいはずがない。でも慣れなければここでは死ぬ。だから慣れた。
慣れて僕はまた少し人から遠くなった。自分の脳を道具のように組み替える。思考の分岐を増やし処理の階層を削り記憶の参照を浅くする。その作業に僕はいつのまにか手が慣れていた。慣れたということは。抵抗がなくなったということだ。最初に脳へ陣を刻んだ夜。僕は震える指でそれを行った。自分の思考のいちばん密な一点に糸を通す。あのときのあの恐怖は。もうどこにもなかった。今は必要とあれば迷いなく脳を書き換える。朝服を選ぶように。その迷いのなさが。ふとこわくなる瞬間があった。人は自分の脳をいじることに慣れていいはずがない。でも慣れなければここでは生きられない。だから慣れた。慣れることでしか進めない場所まで僕は来てしまった。慣れるたびに僕はまた一つ人という岸から遠ざかっていった。
でもこの加速する圧の中では。速めた更新すらすぐに追い越されていく。僕はまた速める。また追い越される。また速める。更新のその加速が圧の加速に辛うじて食らいついている。
辛うじて。
辛うじてというのが恐ろしかった。これまで僕にはいつも余裕があった。燃費という圧倒的な余裕が。深層でも超深層でも。僕は削られながらもどこかで余力を残していた。でもこの極大へ向かう圧の中では。その余裕がみるみる削られていく。僕のいちばんの武器だった余裕が。初めて底をつきかけている。それでも進むしかなかった。あの一点が近づくほど圧が増すなら。圧が増すことは近づいている証だからだ。削られることが。届きつつある証だった。
あの一点が近づくほど圧が増す。それはたぶん偶然ではなかった。最奥に近づくほど世界の揺らぎは激しくなる。情報の解体がその源に近いほど根源的になる。あの一点は揺らぎのいちばん濃いところに囲まれて在る。守られていると言ってもいい。あるいはあの一点があるからこそその周囲がいちばん激しく揺らぐのか。どちらが原因でどちらが結果なのか。ここではそれすら確定しない。
だからあそこへ行くには。この極大へ向かう圧を越えなければならない。誰も越えられなかった最後の壁を。律も届かなかった。いや、律はここまで来ていない。深層半ばのあの一方通行の罠で力尽きた。冴子もその手前で足を止めた。境目に立ったままここへは来られなかった。この加速する揺らぎの圧の中で。二人とも僕と同じ渇きを抱えていた。同じものを見たがっていた。でも届かなかった。その二人分の渇きを僕は今背負っている気がした。背負うというのはたぶん傲慢な言い方だ。二人の渇きは、二人のものだ。僕が代わりに満たせるものではない。
それでも。僕があの一点を見たとき。二人が見たかったものがそこにある。それだけは確かだった。でも僕は進む。渇きがいつものように恐れより先に行っているから。あの一点を見たい。あの届かない星に。触れたい。その一念だけが加速する圧の中で少しも揺らがずに。
僕を前へ引き続けていた。もう後戻りはできなかった。いや後戻りするという発想すら僕の中にはなかった。あるのはただ前へ。あの一点へ。そのたった一つの方向だけ。
考えてみれば僕はいつからか帰ることを計算しなくなっていた。深層に通いはじめた頃までは必ず帰りの分を残していた。どこで引き返せば帰れるか。その計算が僕の命綱だった。でも超深層に入ってからその計算をやめた。やめたというよりできなくなった。測れないのだから計算のしようがない。計算をやめた瞬間から僕は片道の旅をしているのかもしれない。その事実に僕は今までまともに向き合ってこなかった。向き合えば足が止まるからだ。
でも今この極大の圧の中で。僕ははっきりとそれを認めた。帰り道はたぶんない。あるいはあるのかもしれないが、僕には分からない。分からないものはないのと同じだ。だからこれは片道だ。母への手紙にごめんなさいと書いた理由が。今になってようやく自分でも分かった。
僕はあのとき、すでに知っていたのだ。自分が帰らない道を選ぼうとしていることを。知っていて言葉にせず。ただあの一行に押し込めた。その身勝手さに対する謝罪だった。そして僕はその身勝手さを今もやめられずにいる。やめられないまま進んでいる。それが僕という人間のいちばん正直な姿だった。




