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外伝 境目の人――久遠寺冴子


彼の背が、揺らぎの中へ、溶けていく。一歩ごとにその輪郭が薄くなり、やがて、暗闇と見分けがつかなくなった。私は境目に立ったままそれを見送った。追うことはできない。私はそこまでしか行けない人間だからだ。


揺らめく暗闇がゆっくりと彼の姿を飲み込んでいく。呼び止めたいという衝動が喉の奥で疼いた。行かないで、と。でも私は言わなかった。言ってもあの子は行くからだ。そして私は、あの子に行ってほしかった。止めたいのと、行ってほしいのが、同じ胸の中で静かに争っていた。


どれくらいそうしていただろう。時間の感覚はこの境目ではあてにならない。一瞬だったかもしれないし、幾日だったかもしれない。私にとって時間というものはとうの昔に意味を失っている。だから私はただ待った。彼が消えた方向を見つめながら。





境目の空気はいつも少し粘っている。揺らぎが始まるその際だからだ。一歩下がれば確定した静かな深層。一歩進めば輪郭の溶ける超深層。私はそのちょうど狭間に立っている。何十年もこの狭間に立ち続けてきた。進めもせず退きもせず。ただ揺らぎの始まりの際で。向こう側を見つめながら。


あの子はこの境目を通り過ぎるとき。私を見て少しだけ頷いた。行ってきますとでも言うように。その当たり前の挨拶が。私の胸を締めつけた。誰もこの境目から先へ行くとき。こんなふうに私に頷いてくれた者はいなかった。みな恐怖に顔を引きつらせて。あるいは私の存在にも気づかずに。揺らぎの中へ消えていった。そして二度と戻らなかった。あの子だけが。私に頷いていった。


あの子が消えたその方向を見つめながら。私は奇妙なほど静かな気持ちでいた。こんなに穏やかな気持ちになるのは。いつ以来だろう。何十年も私の胸は渇きと後悔でざわめき続けていた。でも今は。そのざわめきが少しだけ凪いでいた。あの子を送り出せたというその一点が。私の荒れ続けた胸を。静かになだめていた。


静けさがあった。揺らぎのざわめきのその奥に。彼がいなくなって初めて私は自分がどれほど彼の気配に耳を澄ませていたかを知った。そして思い出しはじめた。彼のこと。律のこと。私自身のこと。この途方もない渇きの始まりのことを。



私にも渇きがある。あったではない。今もある。何十年経っても癒えない。癒えるどころか日ごとに濃くなっていく。あそこを見たい。いちばん深いあの一点を。その一念だけが私をこんなにも長く生かしている。


最初にそれを感じたのがいつだったか。もう正確には思い出せない。ただ、幼い頃、家の者に連れられて、初めて、坑の入口に立ったときのことは覚えている。暗い底の見えない穴。そこから吹き上げてくる冷たい湿った空気。家の者はみな、その穴を資源の源として値踏みする目で見ていた。でも私だけは違った。私はその底の見えなさに胸を灼かれた。あの奥に何があるのか。それを見たいと。


それは家の者には理解されない感覚だった。久遠寺の一族にとって坑は資源だった。富と時間を生み出す打ち出の小槌。そこから何をどれだけ引き出すか。それが一族の関心のすべてだった。見たいなどという得にも金にもならない渇きを抱える者は。一族の中で私だけだった。だから私はいつも少しだけ浮いていた。同じ血を引きながら。見ているものがみなと違った。



渇きという言葉で片付けてしまうと。何か大切なものがこぼれ落ちる気がする。それは欲しいという気持ちとは違う。欲しいものなら手に入れれば満たされる。でもこの渇きは。手に入れることを目的にしていない。ただ見たい。そこに在るものをこの目で確かめたい。それだけの飢え。得るのでも奪うのでも変えるのでもない。ただ見る。それがこんなにも人を狂わせるものだとは。この渇きを知らない者にはたぶん分からない。



それでも私は恵まれていた。一族の力を使えばいくらでも深い坑へ行けた。装備も情報も後ろ盾も思うままだった。私は潜った。誰よりも深く。渇きの向く方へ。若い頃の私はたぶんこの世界の誰よりも深いところを歩いていた。律が現れるまでは。



私はこの渇きを誰にも理解されずに生きてきた。一族の者は私を変わり者だと思っていた。力があり時間があり望むものは何でも手に入る立場にありながら。得にもならない坑の底を見たがる。そんな私をみな遠巻きにしていた。私はいつも一人だった。何年生きても。この渇きを分かち合える相手はいなかった。律は渇きの形が違った。乾いたまっすぐな衝動。私の湿った届かなさへの飢えとは少し違った。本当に私と同じ形の渇きを持つ者に。私はあの子に会うまで。ただの一度も出会わなかった。




久遠寺の一族がいつから坑と関わってきたのか。その始まりは家系図のいちばん古いところよりもさらに昔に遡る。記録に残っていない。ただ口伝として伝わっている。私たちの祖は、坑のいちばん浅いところである資源を見つけた。濃い魔力を帯びた小さな核。それを身体に取り込んだ者が。いくらか歳を取らなくなった。そして、繰り返した。


それが久遠寺の始まりだった。老いないということ。それは途方もない力だった。一人の人間が何代分もの時間を生きる。その時間で富を積み、知を蓄え、坑のいちばん良い場所を押さえる。老いない者たちが世代をまたいで少しずつ坑の資源を独占していった。表向きにはいくつもの別の名を名乗りながら。そのいちばん奥に変わらぬ一族がいた。久遠寺。変わらぬものという意味の名を持つ一族が。


だから私たちは坑のいちばん深い秘密にいちばん近いところにいた。何代もの時間をかけて。一族は坑の本当の姿を少しずつ知っていった。


迷宮に踏み込んだ者は。何かを得る。権能と人はそれを呼ぶ。ある者は炎を。ある者は癒しを。ある者は鋼のような頑健さを。なぜそんなものが身に宿るのか。誰にも分からない。世に言う所では、平衡の為に魔力が生み出されるときの副産物とも言うらしいがそれもまだ基のない空虚だ。ただ迷宮に触れた者だけがそれを得る。私はずっとこう考えていた。権能を得た者は。ひとつ上の段に至った人間なのだと。あの深い穴に触れることで。人はただの人から少しだけ別のものへと変わる。その変化のいちばん先に。いったい何があるのか。私はそれが見たかった。




一族にとって権能を持つ者は。資源の一種だった。坑から湧く鉱石や薬と同じように。有用な権能を持つ者を見つけ。囲い、使い、あるいは血に取り込む。そうやって一族は力ある権能を少しずつ集めてきた。でも私は。権能を資源としては見られなかった。私にとって権能を持つ者は。私と同じ坂道を上りはじめた者だった。迷宮に触れ。ただの人から、少しだけ別のものへと変わった者。その坂道のいちばん上に。何があるのか。権能を持つ者はみなその坂道の途中にいる。私もそうだ。ならいちばん上まで上りきったら。人は何になるのだろう。



その問いを一族の者にぶつけたことがある。若い頃。まだ私が家の中で素直だった頃だ。坂道のいちばん上には何があるのかと。一族の長老は笑った。そんなものを考える必要はないと。私たちは坂道を上りきる必要などない。坂道の途中で湧く資源を。効率よく汲み上げればそれでいい。いちばん上に何があろうと。それは私たちの商売には関係がないと。その乾いた答えに。私は初めて自分が一族の中で異物なのだと悟った。みなは坂道を商売の場として見ている。私だけがそのいちばん上を見たがっている。同じ血を引きながら。


私の渇きは。誰とも共有されなかった。



久遠寺の一族は。そのダンジョンから湧く資源を。いちばん古くから押さえてきた。濃い魔力を帯びた核。傷を癒す薬。身体を鋼に変える鉱石。


そして何より――老いを押しとどめる深部の資源を。一族はそれらを独占した。表には決して出ずに。老いない者たちがいくつもの別の名をまといながら。世代をまたいで静かに深く。富と坑を握り続けた。ダンジョンがまだ世に広く知られる前から。私たちはそのいちばん甘い果実を。誰にも気づかれずに味わっていた。


一族の支配の仕方は。静かだった。誰も久遠寺という名を表では聞かない。でも坑にまつわる、あらゆることのいちばん深いところに。私たちはいた。主だったクランのいくつかには一族の遠い血の者を送り込んでいた。縁のように。有用な坑のいちばん良い区画は、知らぬ間に私たちの息のかかった手に渡っていた。邪魔な者は、名を明かすことすらなく、気配だけで退かせた。顔を見せない手が。坑の世界をいちばん上の段から静かに動かしていた。


私はそのいちばん上の段にいた。一族の中でも古い部類の老いない者として。何十年も。私は顔を見せずに。無数の糸を引いてきた。誰もその糸のいちばん先に。私がいることを知らない。知られてはいけなかった。老いない者が一つの名の下に居続ければ。いずれ怪しまれる。だから私はいつも影のいちばん奥にいた。坑の世界の静かな支配者。でもその支配は。私を少しも満たさなかった。富も坑も人も。私が本当に欲しいものではなかったからだ。私が欲しかったのは。ただあの坂道のいちばん上の景色。それだけだった。


深く潜るほど。世界は静かに狂っていく。浅いところでは機械が動く。でも深いところでは動かない。鋼の武器もある深さより下では崩れて砕ける。方角すら狂う。なぜそうなるのか。私には分からなかった。ただ深いところには。私たちの当たり前が通用しない別の理があった。それだけはこの目で見て知っていた。その当たり前の壊れ方は。下りるほどひどくなる。まるで深いところほど。世界が薄くなっていくように。



ただ一つ、あらゆる深さで通用するものがあった。魔力だ。機械が死に、武器が崩れる、そんな場所でも。魔力だけはなぜか崩れずに働いた。だから坑のいちばん奥へ行けるのは。結局魔力を扱う者だけだった。そしてその中でもいちばん奥まで行けるのは。魔力をいちばん細く、鋭く扱える者だった。なぜ魔力だけが通用するのか。その理由も私は知らない。ただそういうものだと。一族は代々それを経験として受け継いできた。


そして不老。久遠寺を久遠寺たらしめた、あの老いない力も。深部のある資源から来ていた。濃い魔力を帯びたその資源を身体に取り込んだ者が。歳を取らなくなる。なぜそうなるのか。やはり私には分からない。一族のいちばん古い者ですら知らなかった。ただそうなるという事実だけが。口伝として受け継がれていた。仕組みは分からない。でも効き目は確かだった。だから一族はその資源を何より大事に独占した。老いないことは。時間を味方につけるということだ。一人が何代分もの時間を生きて。その時間で富を積み坑を押さえ人を動かす。不老は久遠寺の静かな支配のいちばんの土台だった。


浅いところの資源でこれだけのことができる。老いを押しとどめ、傷を癒し、身体を鋼に変える。ならそのいちばん深いところにあるものは。いったいどれほどのものなのか。私はいつもそれを考えていた。浅いところでこれなら。いちばん奥には。人の想像も及ばない何かがあるはずだと。その想像も及ばない何かを。この目で見たい。その渇きが。私を坑の底へ駆り立て続けた。





久遠寺の一族は表の歴史には出てこない。出てこないようにしてきた。老いない者が一つの名の下に居続ければ。いずれ怪しまれる。だから一族はいくつもの別の名を用意し。何十年かごとに代替わりを装った。死んだことにして別の名で生き直す。そうやって一族は表の世界の目を欺きながら。裏で坑のいちばん良い資源を世代をまたいで押さえ続けてきた。


私も何度名前を変えただろう。娘として生まれ直し。孫として現れ直す。同じ顔で。同じ渇きを抱えたまま。戸籍の上では私は何人もの別々の人間だった。でもそのどの私も。坑の入口で底の見えなさに胸を灼かれたあの幼い日から。何一つ変わっていなかった。名前は変わっても。渇きの向きだけは。ただの一度も変わらなかった。




紫の縁という言葉がある。古い作品の中に出てくる言葉だと聞いた。出典はもう誰も覚えていない。でも久遠寺の一族ではそれを血の符牒として使う。変わらぬ縁。時代を隔てても途切れぬ繋がり。縁というあの子の名も。常磐というあの子の姓も。みなその変わらぬものへの符牒だった。常磐。久遠。どちらも永遠に変わらぬものという意味を持つ。私たちは変わらないことを宿命づけられた一族だった。変わらないことが。私たちの力であり。そして呪いでもあった。



私は境目に通い続けた。超深層の入口。揺らめくあの際に。なぜ私がそこに惹きつけられたのか。自分でもうまく言えない。行けもせず退きもせず。私はいつのまにか、境目の住人になっていた。人の世界にも。坑のいちばん奥にも。どちらにも属せない者として。老いない身体で。終わらない渇きを抱えて。ただあの際に立ち尽くす。それが私の変わらない日々だった。


坑を深く下りていくほど。世界は静かに狂っていく。浅いところではすべてがはっきりしている。石は硬く、水は冷たく、道はまっすぐだ。でも下りるほどそのはっきりがぼやけていく。石が揺らぎ、水が形を失い、道が曲がって見える。超深層まで行くと。もう自分の身体の輪郭すらあやふやになる。私はそこまでは見た。この目で。そして思った。この狂い方がいちばん奥まで進んだら。その先はもう。私たちの知る世界ではなくなるのではないかと。深さとはたぶん。世界が別の何かに変わっていくその坂道なのだ。


だからいちばん奥にあるものが何なのか。私には見当もつかない。資源の究極なのか。あるいは、世界の始まりのようなものなのか。それとも、人が触れてはいけない何かなのか。分からない。ただ確かなのは。そこはもう私たちの知る世界の続きではないということだ。超深層のあの輪郭の溶ける狂乱の。さらに先。そこではたぶん世界そのものが変わっている。私はその手前で足を止めた。だからその先に何があるのかを。私は知らない。知らないまま。


ただ見たいと渇いている。


何度あの境目に立っただろう。立つたびに私は感じた。この一歩の先は。もう坑の続きではないと。それまでの深さは。どれだけ法則が狂っても。まだ同じ世界の続きだった。石が揺らいでも石は石だった。でもあの境目の先は。違う。そこでは石が石でなくなる。私が私でなくなる。一歩踏み込めば。私は深いところへ行くのではなく。別の世界へ行くのだ。そんな気がした。坑を下るというより。この世界のいちばん薄い膜を破って。その向こう側へ抜ける。そういう一歩だった。


だからこわかったのだと。今なら分かる。私が境目で足を止めたのは。ただ死ぬのがこわかったからではない。死ぬだけなら。坑の底で幾度も覚悟してきた。そうではなく。私という存在そのものが。この世界ごと置き去りにして。知らない何かになってしまう。その想像もつかない変化が。こわかった。私はこの世界の住人でいたかった。終わらない渇きに苦しみながらも。まだこの確かな世界の際に。しがみついていたかった。その未練が。私の足を。境目に縫い止めた。





老いないというのは。若い頃の私が思っていたような祝福ではなかった。むしろそれは拷問に近かった。

終わりがないのだ。人はいつか死ぬ。だから諦めることができる。届かなかったものも手にできなかったものも。死とともに手放せる。それが救いだと、私は老いなくなって初めて知った。終わりがあるということは。抱えた渇きにいつか終止符が打たれるということだ。


でも私にはそれがない。届かないものを見つめ続ける。癒えることも、忘れることも許されずに。何十年も。たぶんこれから先もずっと。渇きは時とともに薄れると人は言う。でもそれは時がその人を少しずつ死へ近づけていくからだ。死へ向かうから諦めがつく。終わらない私にはその諦めが来ない。渇きは薄れるどころか澱のように溜まり続ける。


何度この身体を恨んだか分からない。老いてくれれば。衰えてくれれば。いつかこの渇きを抱えたまま死ねるのに。そう思った夜が数えきれないほどあった。でも身体は老いない。私はこの終わらない渇きの中に閉じ込められている。老いない身体という出口のない牢の中に。それが久遠寺の一族が手に入れた力の本当の姿だった。一族の者は誰もそれを口にしない。でもみなどこかで知っている。私たちは祝福されたのではなく。終われなくなっただけなのだと。


人は私を見て羨む。若さを保ち。歳を取らず。病にも倒れない。なんてうらやましいと。でもその人たちは知らない。老いるということが。どれほど優しい仕組みかを。老いは人に諦めを教える。少しずつ身体が衰えて。できたことができなくなって。人は静かに手放すことを覚えていく。執着を。渇きを。叶わなかったあれこれを。そして最後にいちばん大きなものを手放す。自分の命を。その手放しの練習を。老いは一生をかけて人にさせてくれる。私にはその練習がない。だから私は何一つ手放せないまま。この渇きを握りしめたまま。終われずにいる。





律のことを話さなければならない。一ノ瀬律。今では死んだ伝説として古い映像の中でだけ語られる男。収束というはずれの権能でただ一人大成した化け物。でも私はその律を知っている。生身の律を。同じ時代を生きた知り合いとして。



律は異常な男だった。異常個体という言葉がいちばん近い。桁違いの魔力量を持っていた。集めて、焼いて、垂れ流しても、まだ余るほどの。普通の探索者が一滴を惜しんで戦うところを。律は大河のように魔力を注いで進んだ。だから深く潜れた。誰よりも深く。当時の私と肩を並べるほどに。


世間は律をこう評した。律のは、要するに力業だと。化け物だから、行けたんだと。才能ではなく、ただの量の暴力だと。その評価は半分正しかった。律は確かに量で押していた。計算をしなかった。理屈も聞かなかった。行きたいから行く。ただそれだけの男だった。


でも私は律をただの力業だとは思っていなかった。量だけでは説明のつかない何かが律にはあった。でもそれが何なのかは。私にも分からなかった。私は律の潜り方を間近で見ていた。なのに、律がなぜあそこまで深く行けたのか。その理由を掴めなかった。ただ律という男は。異常だった。量も進み方も何もかもが規格の外にあった。その規格外の何かが。律を伝説にした。私に分かったのはそこまでだった。


律が現れたのは。ちょうど時代が変わりはじめた頃だった。それまでダンジョンは。私たち一族のような、ごく一部の者だけがその深さを知る秘めた場所だった。でもあるときから。ダンジョンは世に広く知られはじめた。探索者という新しい職が生まれ。坑に潜る者が増え。国が坑を管理しはじめた。一族の静かな独占は。その大きな流れの中で。少しずつ崩れはじめていた。


そしてその一般化の奔流の中から。律のような異常が現れた。一族の管理の外から。誰の血筋でもなく。誰の囲いの中でもなく。ただ桁違いの量を持って生まれた一人の男が。私たちの何代もの支配をあざ笑うように。たった一代であの深さまで潜っていった。私はそれを複雑な思いで見ていた。一族の者としては。律のような管理の外の異常は。私たちの支配を脅かす危うい存在だった。でも渇きを持つ者としては。律は。私が何十年も探して出会えなかった。同じ坂道を上るたった一人の同類だった。


律は量で押した。工夫も技術も学ばなかった。学ぶ必要がなかったからだ。押し切れてしまう者は学ばない。量があるうちはそれで済んでしまう。でもあるとき。律のその量が尽きた。

深層半ばだった。そこには恐ろしい非対称の圧がある。数メートル進むごとに圧が加速度的に跳ね上がり。戻ってもほとんど下がらない。進むも退くも削られ続ける一方通行の罠。律はそこで量を注ぎ続けた。注いで、注いで、注ぎ切って。そして尽きた。量が尽きた瞬間に律にはもう何も残っていなかった。律は深層半ばで斃れた。化け物の量をもってしても。届かなかった。


私は律の最期を看取ったわけではない。ただ律が帰ってこなかったと聞いた。あのいつもまっすぐで迷いのない男が。坑の底のどこかで量を使い果たして消えた。その報せを聞いたとき。私は泣かなかった。ただ思った。律はたぶん最後まで幸福だったのだろうと。


律はたぶん幸福だった。あの超深層の境目に立って。自分が自分でなくなるあの恐怖を。律は知らずに済んだ。深層半ばで力尽きたから。あの輪郭の溶ける場所まで行き着く前に終われた。だから律は迷わなかった。乱暴でまっすぐで迷いのないまま。力尽きた。自分が自分であることを。最後まで疑わずに済んだのだから。それはある意味で。いちばん幸福な死に方だった。


律と初めて言葉を交わしたときのことを覚えている。深い坑の詰所の隅だった。律は防具もろくに着けずにそこに座っていた。満身創痍だった。でもその目だけが子供のように光っていた。次はもっと深く行けると。そう言って笑った。私が無茶だと言うと。律はきょとんとした顔で言った。なんで。行きたいんだから、行くだろうと。


それが律という男だった。行きたいから行く。そこに理屈はなかった。私のように届かないものを見つめて、こわがったり、後悔したりする。そういう湿ったものが律にはまるでなかった。からりと乾いていた。渇きすら律にとっては乾いたまっすぐな衝動だった。湿った渇きを抱える私には。その乾いたまっすぐさがまぶしかった。そして少しだけ羨ましかった。


律は私の不老のことを知っていた。知っていて律は一度もそれを羨まなかった。むしろ律は言った。終わらないなんてぞっとするなと。俺は行きつくところまで行ってそこで終わりたいと。そのときの私は律の言葉の本当の意味が分からなかった。でも今なら分かる。律は終わりを恐れていなかった。むしろ終わりを渇きの行き着く先として受け入れていた。だから律は量を惜しまなかった。尽きることを恐れなかった。そして本当に尽きるまで行って。尽きた場所で終わった。たぶん律はそれで満足だったのだ。


私は律のようになれなかった。私には終わりがなかったから。終わらない者は尽きることを選べない。律がうらやましかった。尽きられるということが。終われるということが。私は律の乾いたまっすぐさのいちばん奥に。私には決して手に入らない終わりという救いを見ていた。




律が生きていたあの頃。坑の世界はまだ荒々しく自由だった。国の管理も緩く。クランの境も曖昧で。腕一本でどこまでも行けるそんな時代だった。律はその時代の申し子のような男だった。誰の指図も受けず。ただ行きたいところへ行く。一族の静かな網の目など。律にはまるで関係がなかった。私はそんな律が。少しだけうらやましかった。私は生まれたときから久遠寺の網の中にいた。律のように自由にはどこへも行けなかった。律は網の外の自由な風の中で。そして私は網のいちばん奥の静けさの中で。同じ渇きを抱えていた。違う場所から。同じ坂道のいちばん上を見上げていた。


律が最後に深層へ下りていくその朝。私は坑の入口で律を見送った。止めればよかったのかもしれない。でも止めても律は行っただろう。律の目はいつものあの子供のような光で満ちていた。次こそいちばん深いところが見える気がすると。律はそう言って笑った。私は気をつけてと言った。律は片手を上げて。そのまま坑の暗がりへ下りていった。それが私が見た最後の律だった。


何日待っても律は戻らなかった。私は坑の入口の石碑に。新しく刻まれた律の名を見た。戻らなかった者たちの名が並ぶあの石碑に。一ノ瀬律と。几帳面な彫りで。私はその名を指でなぞった。冷たい石の感触だけが指に残った。律は行きたいところまで行って。そこで終わった。羨ましいとまた思った。私には刻まれる終わりがない。石碑に名を刻んでもらえるのは。終われる者だけの特権だった。





そして私のことだ。私は律とは違う道を歩いた。律が量で押したのに対して。私は量には恵まれていなかった。一族の血は不老をもたらしたが。律のような桁違いの魔力量はくれなかった。だから私は律のようには押せない。私は私なりに深く潜る術を磨いた。量がないぶん。少しでも無駄なく魔力を使う。その細く鋭く扱う術を。命がけで道として磨いた。


それでも私はあの底には届かなかった。燃費が足りなかったのだ。私の効率はたしかに律よりも洗練されていた。でも私の魔力そのものがあの子ほど細く鋭くはなかった。超深層のあの揺らぎの中では。私の陣は組んだ端からぶれ溶けていった。確定を保てなかった。私は揺らぎのいちばん浅いところで。もう自分の輪郭を保つのが精一杯だった。


でも本当のことを言えば。燃費だけの問題ではなかった。私はあの超深層の入口――境目に立った。あと少しなら。私の力でもその先へ踏み込むことはできたはずだ。引き返せるだけの力は残っていた。なのに、私は。行かなかった。


どこか、こわかった。それが私の越えられなかった壁の正体だった。何がこわいのか。自分でもうまく言葉にできない。揺らぎの中に身を投じれば。自分の輪郭が溶けていく。身体が、脳が、記憶が、意思が。少しずつ世界と混ざり合って区別がつかなくなる。そのとき私はまだ私でいられるのか。溶けて消えていなくなるのではないか。


その輪郭のない恐怖に。私は足をすくませた。魔物なら戦えた。圧なら耐えられた。でも自分が自分でなくなるという恐怖には。戦い方が分からなかった。姿も大きさもない。何をどうすれば防げるのかも分からない。分からないものには身構えようがない。だからいちばんこわかった。


私は境目で足を止めた。そして引き返した。力が尽きたのではない。はっきりと諦めたのでもない。ただなんとなく。こわくて。行けなかった。その曖昧さが。何十年経っても私を苦しめ続けた。


もしあのとき力が尽きていたのなら。私は諦めがついたかもしれない。仕方がなかったと。でも私には力が残っていた。行こうと思えば行けた。なのに行かなかった。こわさに負けた。そのたった一つの事実が。消えない棘のように私のいちばん柔らかいところに刺さり続けた。老いない身体はその棘を抜くことも忘れることも許さなかった。


何十年も私は自分に問い続けた。なぜあのとき進まなかったのかと。もう一歩踏み出す勇気があれば。私もあの底を見られたのではないかと。その答えの出ない問いを抱えて。私は境目に通い続けた。行けもせず諦めもできず。ただ揺らぎの手前で立ち尽くす。それが私の終わらない日々だった。


何度も私は境目に立った。そのたびに私は自分に言い聞かせた。今日こそ行くと。もう一歩踏み出せばいい。たった一歩。でもその一歩が。どうしても踏み出せなかった。足が地面に縫い付けられたように動かない。理屈では行けると分かっている。力もある。なのに身体が拒む。それは私のいちばん深いところにいる何かが。溶けて消えることを。本能的に拒んでいたからだった。


おかしな話だと思う。私は終わらない時間に苦しんでいた。終われる律を羨んでいた。なのに、いざ消えるかもしれないという段になると。身体がそれを拒む。終わりたいと願いながら。消えることをこわがる。その矛盾こそが。私という人間のいちばん正直な姿だった。口では終わりたいと言いながら。本当のところは。消えたくなかったのだ。私というこの渇きを抱えた存在が。なかったことになるのが。何よりこわかった。


あの子はその恐怖を越えた。でもあの子も恐れていなかったわけではない。あの子の目の奥にも。私と同じあの輪郭の溶ける恐怖が確かにあった。自分が自分でなくなるかもしれないという恐怖が。それでもあの子は進んだ。恐怖を消したのではない。恐怖を抱えたまま。その隣に渇きを置いて。渇きのほうがほんの少しだけ重かったから。天秤が傾いた。ただそれだけのことで。あの子は私が何十年も越えられなかった一歩を踏み出した。





ある日のことだった。私は一つの噂を耳にした。国立の迷宮技術学校に。妙な生徒がいると。燃費が異常にいい。消耗をほとんどせずに坑を歩く二年生。前期の認定をごぼう抜きで通ったという噂。そして学校の坑の記録に残らない、裏口を使った痕跡。


最初はただの有望株だと思った。久遠寺の一族は常に有用な駒を探している。私は家の末端に連なる縁という子を使って。その生徒を観察させた。縁はいい子だ。家の中でいちばん下の自分の値打ちを証明するために。使えるものを見つけて上に上げる。それだけを役目として生きている。私と遠い血を分けたその子は。紫の縁とでも呼ぶべき細い糸で私と繋がっていた。


縁の報告は興味深いものだった。その生徒――灯真というその子は。収束というはずれの権能の持ち主だった。律と同じ。世界がいちばん低く見たあの力。でも律とはまるで違う使い方をしていた。量がないのだ。律のような桁違いの量はまるで持っていない。むしろ逆だった。持たないぶんを極限の効率で補っていた。細く、細く、収束を撚り上げて。一滴の無駄もなく使い切る。量で押す律とは。正反対の道を。この子は歩いていた。


私は興味を持った。そして手を伸ばしはじめた。まず邪魔者を退けた。鉄環の鷲尾という男がその子を力ずくで引き抜こうとしていた。私は縁を通して私の後ろにいるものの名を匂わせた。名は明かさない。ただ大きなものが後ろにいるとそれだけを。鷲尾は青ざめて退いた。名を明かさずとも。久遠寺の気配だけで大手のクランが道を譲る。それが一族の力だった。


それから私はその子の行く道を均していった。役所の手続きの壁を消した。飛び級卒業の推薦を用意した。二つのクランの綱引きからその子を掬い上げるために。全部顔を見せずに行った。顔のない命令が階段を降りていく。いちばん上の段に私がいることを。誰も知らないまま。私はその子の運命を少しずつ、私の手のひらの上に載せていった。


そのときの私はまだ。その子を道具として見ていた。私の届かなかった場所へ代わりに行かせる駒として。あるいは久遠寺の新しい力として。囲い込んで私のそばに置いておこうと。そう思っていた。私は何十年も待っていた。律のようなあるいは私のような渇きを持つ者が現れるのを。そして現れたなら。今度こそ手放さないようにと。


縁の報告を聞くたびに。私は少しずつその子に惹き込まれていった。燃費がいいというだけではなかった。その子は力を隠していた。わざと平凡な落ちこぼれを演じて。本当の力を暗がりに沈めていた。二年間も。たった一人で。誰にも気づかれずに。その隠すという営みの執拗さに。私は自分と似たものを感じた。私もずっと名を隠してきた。本当の顔を見せずに生きてきた。隠すことに慣れた者どうしの匂いのようなものを。私は報告書の文字の向こうに嗅ぎ取っていた。


その子が坑の底で見せる本当の力の話を聞いたとき。私は息を呑んだ。誰も見ていない場所でだけ。その子は本当の自分になる。演技も値踏みもいらない坑の底で。その子は初めてまっすぐに自分の力を使う。いちばん危険な場所がその子にとってはいちばん素顔でいられる場所だった。そのあべこべを。私は痛いほど分かった。私も境目でだけ本当の私でいられたからだ。人の世界ではいつも久遠寺の名のない鎧を着ていた。鎧を脱げるのは。誰もいない境目でだけだった。




でもその考えが変わった瞬間があった。灰縄という古参のチームが。深いところで窮地に陥った。そのときその子は。二年間必死に隠してきた自分の核を。あっさりと晒して。たった一人で救援に向かった。


私はその報告を聞いて。しばらく言葉を失った。自分のいちばん大事な秘密を。見ず知らずの他人のために投げ出す。そんなことができる子だとは。思っていなかった。私ならしない。律もたぶんしなかっただろう。秘密は力だ。力を守るのが当たり前だ。なのに、その子は迷わずにそれを捨てた。目の前の命のために。


そこに私は見た。力のために力を求める者ではない何かを。その子の渇きは。得るための渇きではなかった。何かを手に入れるためにあの底を目指しているのではない。ただ見たい。その一点だけの渇き。損も得も計算に入っていない。だから目の前の命と自分の秘密を天秤にかけて。迷わずに命を選べる。


それは私がずっと探していたものだった。いや。それは私自身の渇きのいちばん純粋な形だった。私も本当はそうだった。得のためではない。ただ見たかった。でも私はいつのまにかその渇きに。一族の思惑や力への執着を混ぜてしまっていた。純粋な渇きを忘れて。囲い込むことばかり考えていた。その子は私に思い出させた。私がいちばん最初に坑の入口で感じたあの混じり気のない渇きを。


その瞬間。私の中で何かがほどけた。囲い込む手を握りしめていたその指が。ゆっくりと開いた。この子を私のそばに置いてはいけない。この子は私の届かなかった場所へ行ける子だ。囲い込めばその翼を折ることになる。私がしてきたことと同じことを。この子にもさせてしまう。境目で足を止めさせてしまう。


だから私は決めた。囲い込む手を放して。送り出す手になろうと。自分では行けなかった場所へ。この子を行かせようと。それは諦めであると同時に。私に残された最後の希望でもあった。私の渇きが私の代では叶わなくても。この子の中でいつか叶うかもしれない。その細い糸に。私は何十年分もの渇きを結びつけた。




囲い込むというのは。結局こわいからだと私は気づいた。手放せば失う。失うのがこわいから握りしめる。私はあの子を失うのがこわかった。何十年も待ってようやく現れた同族を。二度と手放したくないと。でも握りしめれば。あの子は私と同じ境目の住人になってしまう。私のこわさが。あの子の翼を折る。それだけはしてはいけないと。私は自分のこわさに打ち勝った。初めて。境目の恐怖には打ち勝てなかった私が。この手放すというこわさにだけは。打ち勝つことができた。





そして私は境目であの子と向き合った。初めて名を明かした。久遠寺冴子と。名を明かすというのは私にとって格を脱ぐことだった。ずっと名を必要としないほど上にいた私が。同族の前でだけその名のない鎧を脱いだ。この子は道具ではない。対等な誰かだった。だから名を渡した。


私はあの子に全部を話した。不老の実態を。終わらないということ。届かないものをただ見つめ続けること。それが祝福ではなく拷問だということを。あの子は静かに聞いていた。そして少しだけこわそうな顔をした。自分もあの資源を手にしたら。同じ終わらない渇きに閉じ込められるのかと。そんな顔だった。


私はあの子に問うた。なぜこわいのか分かるかと。私が境目で足を止めたそのこわさの正体を。あの子は少し考えて言った。説明できないからこわいんだと思いますと。その一言が。私の何十年もの後悔を。たった一言で言い当てていた。


そうだ。説明できないからこわいのだ。魔物なら姿がある。圧なら大きさがある。でも自分が自分でなくなるという恐怖には。姿も大きさもない。名前のない恐怖。輪郭のない恐怖。それをあの子は私と同じように抱えていた。あの揺らめく境目を前にして。自分が溶けて消えるのではないかと。同じ問いに震えていた。


違ったのはたった一つ。あの子の渇きはその恐怖よりほんの少しだけ大きかった。私の恐怖は私の渇きよりほんの少しだけ大きかった。それだけの差だった。紙一重の差。どちらがほんの少し重いか。そのわずかな傾きが。あの子をその先へ行かせ。私を境目に残した。


それは弱さではなかった。私は長いあいだ自分を弱いと責めてきた。でもあの子と話して分かった。勇気の問題ではなかったのだ。ただ渇きと恐怖の大きさの順番。それだけのことだった。あの子が勇敢だったから行けたのではない。ただあの子の渇きがたまたま恐怖より少し大きかった。その事実は。私の後悔を消しはしなかった。でもその刃先を。ほんの少しだけ鈍らせた。あなたのせいではなかったと。あの子の存在が。そう告げていた。


あの子は私が名を明かしても。驚いた顔をしなかった。むしろ腑に落ちたという顔をしていた。たぶんあの子はうすうす気づいていたのだ。自分の道を均してきた大きな手の正体に。役所の壁が消え。鷲尾が退き。飛び級の推薦が降ってきたそのあまりの円滑さのいちばん上の段に。誰かがいることを。そしてその誰かが今目の前に立っていることを。


私はあの子に謝ろうとした。勝手にあなたの道を動かしてきたことを。でもあの子は首を横に振った。使えるものは使う。それがいちばん下から這い上がってきた者の生き方だと。あの子はそう言って少しだけ笑った。利用されていたとは思っていないと。むしろその手のおかげで盤の外へ逃げられたと。その澄んだ言い方に。私は救われた。私の身勝手な裏工作すら。あの子は恨まずに受け止めていた。




別れ際に私は一つだけ願いを口にした。戻ったら。あなたが見たものを私に教えてくれないか、と。


あの子は少し困った顔をして。それでも頷いてくれた。戻れたら教えますと。その優しい嘘とも、本気ともつかない返事に。私は微笑んだ。微笑みながら。たぶんそれは叶わないだろうと。心のどこかで知っていた。


あの底で見るもの。それが言葉になるものなのか。私には分からない。でもたぶんならない。私でさえ、超深層で見たあの狂った景色を。うまく人に語れたことがない。言葉はいつも、ここはこういう場所だと確かなものを指すことしかできない。でもあの奥は確かなものが崩れていく場所だ。ましてそのさらに先。世界そのものが変わっているかもしれないその場所を。どんな言葉で指せばいいのか。私には見当もつかない。だからあの子がたとえ戻ってきても。見たものを私に伝えることは。たぶんできない。


それでも私は願った。叶わないと知りながら。なぜならそれが私に残されたたった一つの渇きの行き先だったからだ。自分では行けない。でもあの子が行く。あの子が見る。その事実だけでも。私の終わらない渇きを。ほんの少しだけ和らげてくれる気がした。たとえその中身を教えてもらえなくても。あの子があそこに届いたというその一点だけで。私は少しだけ救われる。


あの子を送り出したあと。私はしばらく動けなかった。自分のしていることの意味が。じわじわと胸に染みてきたからだ。私は自分の渇きを。他人に託した。私がいちばん見たかったものを。私ではなくあの子が見る。それは諦めだった。でもただの諦めではなかった。諦めきれない者の最後のあがきだった。自分の代で叶わないなら。誰かの中で叶えばいい。そう思わなければ。私はこの終わらない渇きに。とっくに狂っていただろう。


送り出すというのは。自分は行かないと認めることだ。私はもうあの底へは行けない。何十年も境目に通いながら。私はその事実を認められずにいた。いつか行けると。もう一歩の勇気があればと。でもあの子に会って。私はようやく認めた。私は行けない。恐怖が渇きよりほんの少し大きいから。その順番はたぶん変わらない。何十年経っても。だから私は行く者を送り出す。それが行けない私にできる。たった一つの渇きの叶え方だった。


あの子を送り出すとき。私は一つ決めていたことがあった。もうあの子を一族の糸には絡めないと。権能を持つ有用な駒として。囲い使い血に取り込む。一族ならそうしただろう。私も以前ならそうしていた。でもそれはあの子を。坂道の途中に縛りつけることだった。資源として汲み上げられる場所に。止めてしまうことだった。私はそれをしなかった。一族の静かな支配のその手を。あの子にだけは伸ばさないと決めた。初めて私は。久遠寺の者としてではなく。ただ渇きを持つ一人の人間として。もう一人の渇きを持つ者を。解き放った。それは支配者としての私が。初めて自分の手を開いた瞬間でもあった。





そして。あの子は揺らぎの奥へ消えていった。私は境目に一人残されている。たぶん私はこの境目に残る唯一の証人だ。あの子がここからその先へ行ったことを知るただ一人の。


少し前。揺らぎのいちばん奥のほうから。かすかな震えのようなものが伝わってきた。揺らぎが一瞬ざわめいて。そして静かになった。何が起きたのかは分からない。でも私にはなぜか確信があった。あの子は超えたのだと。私が越えられなかったあの壁を。あの子は超えていった。


どんな景色を見ているのだろう。あのいちばん奥で。私がずっと見たかったもの。律が届かなかったもの。それを今あの子は見ている。その景色を想像しようとして。でもできなかった。想像すらできない。それがあの底のいちばん遠いところだった。見た者にしか分からない。そして見た者にもたぶん言葉にできない。


私は待つ。あの子が戻ってくるかどうかは分からない。戻ってきても見たものを教えてもらえるかは分からない。何一つ確かなことはない。でも私は待つ。この境目で。叶わないかもしれない願いを抱えて。


思えば私の周りにはそういう者ばかりがいる。届かないと知りながらなお想い続ける者。あの子の母もそうだと聞いた。帰るかどうか分からない息子を。食卓の席を空けたまま待っていると。私も同じだ。戻るかどうか分からないあの子を。この境目で待っている。母と私は。会ったこともないのに。同じ形の祈りを抱えていた。


渇きはまだ私の中にある。消えない。たぶんこれから先もずっと。でも以前とは少しだけ違っていた。以前の渇きは私一人のものだった。届かない私だけの飢え。でも今の渇きは。あの子の背中と繋がっている。私が行けなかった場所へあの子が行った。その事実が。私の渇きに初めて行き先を与えていた。


だから私はもうあの曖昧な後悔だけの日々には戻らない。境目で立ち尽くすだけの日々には。私は待つ人になった。誰かの渇きのその先を見届けようとする人に。それは行けなかった私にできる。たった一つの渇きの叶え方だった。


揺らめく暗闇を私は見つめる。あの子が消えていったその方向を。いつかあの揺らぎがまたざわめいて。あの子が戻ってくるかもしれない。あるいは戻ってこないかもしれない。どちらでもいいと今は思える。あの子は届いた。私の渇きのその先へ。それだけで私は。この終わらない時間を。もう少しだけ生きていける。


だから私はここで待っている。境目に残って。あの子が見たものを。あるいはあの子そのものを。叶わなくても。ずっと。待っている。




この境目に立っていると。時々思うことがある。私は、本当は行けたのではないかと。あのときこわさに負けさえしなければ。私もあの子のように。渇きを恐怖の隣に置いて。そのわずかな傾きに身を委ねれば。行けたのではないかと。


でも、そのたらればを。私はもう口にしない。過ぎたことだ。私は行かなかった。それが私だ。こわがりで。踏み出せなくて。境目に残る者。それが久遠寺冴子という人間の正体だった。でも。そのこわがりの私にも。できることがあった。行ける者を見つけ。その道を均し。そして送り出すこと。私の越えられなかったその先へ。誰かを行かせること。それが私の。たった一つの渇きの叶え方だった。


揺らめく暗闇を私はいつまでも見つめている。時間の感覚はない。あの子が消えてから。どれくらい経ったのか。一日か一年かあるいはそれ以上か。終わらない私にとってその違いはあまり意味を持たない。私はただ待つ。待つことだけが。今の私の渇きの形だった。


ふと思う。もしあの子が戻ってきて。見たものを教えてくれなくても。私はその教えてもらえないということそのものから。何かを受け取るのだろうと。言葉にできないということ。それこそがあの底の証だ。あの子が言葉を失って戻ってきたなら。それだけで私は知る。あの子が本当にあそこに届いたことを。言葉にできないものを抱えたその顔を見るだけで。私の何十年もの渇きは。たぶん少しだけ報われる。




あるいはあの子は戻らないかもしれない。あのいちばん奥で。見ていたいと。ずっとそこにいたいと。そう願って。戻ってこないかもしれない。もしそうなら。それもいいと私は思う。あの子が渇きの行き着く先で。満たされているのなら。戻る理由など。もうないのだから。


私はこの境目に残る。唯一の証人として。あの子がここからその先へ行ったことを。覚えているただ一人として。誰にも伝えられなくても。私は覚えている。燃費最悪のはずれの権能を抱えたあの子が。律の届かなかった場所へ。私の越えられなかった壁を超えて。いちばん深いあの一点へたどり着いたことを。それを覚えている者が一人でもいれば。あの子の旅は。無かったことにはならない。




渇きはまだ私の中にある。でももうあの暗い後悔だけの渇きではない。それは今あの子の背中と繋がって。初めて行き先を得た渇きだった。私は待つ。叶わないかもしれない願いを抱えて。でもその願いは。もう私一人だけの閉じた渇きではない。あの子へと開かれた渇きだった。だから私はもうこわくない。終わらない時間も。埋まらない渇きも。そのすべてを抱えて。私はここで。あの子を。待っている。



いつか。揺らぎがまたざわめく日まで。あるいは二度とざわめかなくても。私はこの境目の際に立って。あの子が消えていった揺らめく暗闇を。見つめ続ける。私が越えられなかったその先を。あの子が確かに超えていったその方向を。ずっと。ずっと見つめている。


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