第六十話 遺した手紙
冴子と別れてから。僕はたった一人で揺らめく超深層を進んだ。もう言葉を交わす相手もいない。振り返っても境目の気配は遠く小さくなり、やがて揺らぎの向こうに溶けて見えなくなった。冴子はあそこに残っている。僕を見送るために。その事実だけがこの孤独な道行きの中で奇妙な温もりだった。誰かが僕の帰りを待っている。たとえその帰りが叶わないとしても。母は待つだろう。帰るかもしれない、帰らないかもしれない、息子を。
その待つという行為は。叶うことを前提にはしていない。叶わなくても待つ。それは冴子の祈りと同じ形をしていた。叶わないと知りながら願う。叶わないと知りながら待つ。僕の周りにはそういう人がいる。届かないと知りながら、なお想い続ける人が。母も。冴子も。その報われない想いの上に。僕の渇きの旅は成り立っている。
僕があの一点へ向かえるのは。背後で報われない想いを抱えて待ち続ける人がいるからだ。その事実を。僕は深いところへ抱いて行こうと思った。忘れないために。僕がどれほど身勝手な旅をしているのかを。その身勝手さごと引き受けて。僕は進む。
進みながら僕は家のことを思った。最奥へ向かうと決めたとき。僕は家族に会いに行かなかった。会えばきっと顔に出てしまう。母は勘のいい人だ。僕がもう戻らないかもしれない場所へ行くことを。一目で見抜いてしまうかもしれない。そうしたら母は僕を止めるだろう。あるいは止められないと知りながら泣くだろう。その顔を見るのが怖かった。だから僕は会わずに一通の手紙だけを残してきた。言葉を選びに選んで書いた短い手紙。遺書ではない、そんな覚悟ではない。嘘は書かなかった。でも本当のことも全部は書けなかった。
――しばらく遠いところへ潜ります。――連絡が取れなくなるかもしれないけれど心配しないでください。――汐里を頼みます。あの子の学費はまとめて送っておきました。――今までありがとう。――そしてごめんなさい。
伝えたいことはたくさんあった。でもそのどれも書けなかった。書けば母は崩れてしまう。あるいは追ってこようとするかもしれない。覚醒すらしていない母があの狂った世界へ。それだけはさせられない。だから僕は全部を飲み込んで。ただ、ありがとうと、ごめんなさいだけを残した。
言葉というのは迂回だと思った。いちばん伝えたいことはいつも言葉にできない。だからその周りを遠回りになぞる。このありがとうとごめんなさいは。僕が母に伝えたい途方もない何かの。いちばん外側の皮一枚だった。その皮の下にあるものを。勘のいい母ならきっと読み取ってしまう。だからこれで十分だった。いやこれしか書けなかった。それ以上は僕の弱さが許さなかった。
書き終えるまでに何日かかかった。何度も書いては破った。最初に書いたものはもっと長かった。これまでのことを全部書こうとしたのだ。収束の真形を掴んだ夜のこと。複数の陣を覚えたこと。深層で身体と脳を書き換えたこと。その全部を母に知ってほしかった。知ってほしいというよりたぶん許してほしかった。でも書いているうちに気づいた。
これは母のための手紙ではない。僕が楽になるための手紙だ。母はこれを読んでどうすればいいのか。息子が身体と脳を書き換えて帰らないかもしれない場所へ行った。そう知らされて母に何ができる。何もできない。ただ恐れが現実になったことを確認するだけだ。だから破った。書き直した。もっと短く。もっと当たり障りのない形に。最終的に残ったのがあの数行だった。
嘘は書いていない。でも大事なことは何一つ書いていない。最後の一行を書くとき僕の手は少しだけ震えた。ごめんなさい。何に対する謝罪なのか。自分でもうまく言えなかった。母の恐れた道を進んだことか。覚醒し、身体を書き換え、脳を書き換え。いちばん行ってほしくない場所へ行ったことか。帰らないかもしれないことか。あるいはこの渇きをどうしても手放せなかったその身勝手さにか。たぶんその全部だった。でもそれを全部書けば。母はこれが今生の別れの手紙だと悟ってしまう。だから書けなかった。ただごめんなさいとだけ。
そのたった五文字に。言い足りないことの全部を押し込めた。母は勘のいい人だ。あの五文字から僕が押し込めたものを。きっと読み取ってしまうだろう。言葉にしなかったからこそ伝わってしまうものがある。届いているのに届いていない。でもその五文字だけは。言葉にできなかった全部を抱えたまま。母に届くのかもしれなかった。母の恐れた道を進んだことか。帰らないかもしれないことか。あるいはこの渇きをどうしても手放せなかったその身勝手さにか。たぶんその全部だった。手紙を投函するとき。僕はしばらくポストの前に立っていた。この手紙が届く頃には。僕はもう深層のずっと奥にいる。連絡は取れない。もし戻れなければ。この手紙が母に遺す最後の言葉になる。たった数行の。言い足りないことが山ほどあった。でもそれを全部書けば。母はこれが今生の別れの手紙だと悟ってしまう。だから書けなかった。言い足りないまま投函するしかなかった。届いているのに届いていない。最後まで僕と母のあいだには。その距離があった。埋められないまま。僕はそれを抱いて深いところへ来た。
母はあの手紙を読んで。どう思っただろう。勘のいい人だ。あの「ごめんなさい」の一行から。息子がもう戻らないかもしれない場所へ行ったことを。きっと察している。そしてそれでも。母は僕を追ってはこない。来られない。母は覚醒すらしていないただの一般人だ。僕の生きる世界に母は入れない。だから母にできるのは。ただ待つことだけだ。あの少ないおかずの並ぶ食卓で。僕の席を空けたまま。帰るかもしれない帰らないかもしれない息子を。
あの狭い集合住宅の食卓。醤油差しの隣にいつも学費の通知が置かれていたあの食卓。そこに僕の席がある。もう何か月も座っていない席。母はたぶんその席を片付けない。箸も茶碗もそのままにして。いつ帰ってきてもいいように。帰らないかもしれないと察していても。それでも席を空けておく。それが母にできるただ一つのことだからだ。追いかけることも止めることもできない。ただ待つ。その光景を想うと。揺らめく暗闇の中で僕は自分がどれほど身勝手なことをしているのかを思い知った。でもそれでも進む。その身勝手さごと抱いて。静かに待ち続けること。その姿を想うと。揺らめく暗闇の中で僕の胸のいちばん柔らかいところが静かに疼いた。
でもと僕は思う。僕をここまで運んできたのは。半分はこの名前のない渇き。そしてもう半分は。あの遠い食卓の温かさだった。母の待つ姿が。汐里のまっすぐな目が。書き換えられた僕のそれでも変わらない渇きのすぐ隣に。確かな重さで在り続けている。だから僕は進める。家族からいちばん遠い場所へ。家族を想いながら。そのねじれを抱いたまま。僕は揺らがぬ一点へと進み続けた。いよいよ最奥への最後の道行きが。始まろうとしていた。




