第五十九話 境目に残る人
別れの時が来ていた。言葉を交わすほどに。揺らぎの中で輪郭を保つのにも魔力が要る。冴子の老いを押し返す力にも限りがある。彼女はこれ以上長くはこの境目に留まれない。そして僕は。この先の揺らぎの中へ。最奥へ。進まなければならない。
「あなたはここに残るんですね」
僕は聞いた。
「ええ」
冴子は静かに頷いた。
「私はこの境目が限界。……ここから先へは行けない。何十年かけても越えられなかったこの一線。それはこれからも越えられない。私はここで。……あなたを見送る」
見送る。
その言葉に僕はこの人のこれからを思った。僕がこの先の揺らぎの中へ消えたあと。この人はこの境目に残る。一人で。そして待つのだ。僕が戻ってくるかどうかを。戻れば教えてもらえる。戻らなければ。永遠に分からないまま。この人はまたあの渇きを抱えたまま。終わることも、忘れることも、できずに。この境目に。いや地上に戻って。ただ待ち続けるのだ。
自分が届かなかった場所を見た者の帰りを。その姿を想うと。僕は胸が痛んだ。最も理解してくれる人が。最も遠くに残される。それは残酷な対称だった。この世界で僕をいちばん理解してくれる人。僕の渇きを自分のものとして分かってくれる唯一の人。その人が。僕がいちばん見せたいものを。いちばん見られない場所に残される。理解する者ほど、遠くに置かれる。それは母の食卓ともどこか似ていた。母は僕をいちばん近くで育てた。なのに、僕の見ている世界には母は入れない。いちばん近くにいていちばん遠い。
冴子も同じだった。僕の渇きをいちばん深く理解してくれる。自分のものとして分かってくれる。なのに、その人は最奥には来られない。僕がいちばん見せたいものを。いちばん見せられない場所に残される。思えば僕の人生はずっとその形をしていた。いちばん分かち合いたい相手といちばん深いところで分かち合えない。桐山先生にも本当のことは言えなかった。鵜飼とも肝心のところは交わせなかった。届く相手には渇きが伝わらない。渇きが伝わる相手にはその先を見せられない。そのすれ違いを。僕はこの渇きを抱えたときからずっと宿命のように背負ってきた。そしてたぶんこの先も。いちばん深い場所はいつもたった一人で見ることになる。
僕はいつも。いちばん分かち合いたい相手と。いちばん深いところで分かち合えない。それがこの渇きを抱えた者の。宿命なのかもしれなかった。
「あなたは」
冴子がふと言った。
「家族がいるのね」
僕は少し驚いた。
「常磐縁が調べていた。……お母さんとお父さん。そして妹さん。妹さんはあの学園に入ったのでしょう」
「……はい」
「あなたはその人たちに。……この旅のことを話したの?」
僕は首を横に振った。話していなかった。最奥へ向かうことを。帰らないかもしれないこの旅のことを。母にはいつものように深いところへ潜るとだけ伝えてきた。仕送りはしばらく分をまとめて送ってきた。もし戻れなかったときのために。
「話せなかったんです」
僕は正直に言った。
「母は覚醒を恐れていました。僕が僕でなくなることを。……その母に、僕が身体も、脳も、書き換えて、帰らないかもしれない場所へ行くなんて。……言えるはずがない」
冴子は静かに頷いた。
「……そうね。言えないわね」
その声には深い理解があった。届いているのに届いていない。僕と家族のあの距離。この人もたぶん長い時間の中で。誰かとその距離を抱えてきたのだろう。
「行きなさい」
冴子は言った。その声は送り出す者の声だった。
「あなたの渇きはもう先に行っている。……あなたはそれを追いかければいい。私のことも家族のことも。……全部置いて。あなたはただ見たいものを見に行きなさい」
僕は頷いた。そして揺らめく超深層のその奥を見た。揺らがぬ一点が遠く瞬いていた。振り返る。境目に静かに佇む冴子。この人はここに残る。証人として。僕があの底へ消えていくのを。見届けるただ一人の証人として。
「……ありがとうございました」
僕は頭を下げた。言うべきことはたくさんあった気がする。この人が僕を宵星と鉄環の綱引きから掬い上げてくれたこと。飛び級卒業の道を均してくれたこと。そして今この境目まで来て律の話を聞かせてくれたこと。その全部に対して僕は何かを返すべきだった。でも言葉が出てこなかった。結局、口から出たのは、ありがとうございましたの一言だけ。
僕はそういう人間だ。いちばん大事なところでいつも言葉が足りない。母にあの熱を打ち明けられなかった夜も。桐山先生のまっすぐな案じに、嘘でしか応えられなかったときも。鵜飼の恩に着るという礼を、ただ受け取ることしかできなかったときも。僕はいつも肝心の言葉を飲み込んできた。言葉にすれば伝わるのに。その言葉がいつも喉の手前で詰まる。この人にも同じだった。掬い上げてくれたこと。道を均してくれたこと。律の話を聞かせてくれたこと。その全部に僕は何かを返すべきだった。でも返せたのは一言だけ。情けなかった。
でもこの人はたぶんそういう不器用さも分かってくれる。同族だから。言葉が足りない者どうし。足りない言葉のその先にあるものを。この人なら読み取ってくれる。そう思えたことだけが。救いだった。いちばん大事なところでいつも言葉が足りない。母にも。桐山先生にも。そしてこの人にも。冴子はそれでも静かに頷いてくれた。
そして、背を向けた。揺らがぬ一点のほうへ。あの届かない星のほうへ。一歩を踏み出した。背後で冴子が何か小さく呟いたのが聞こえた。風のような声で。
——気をつけてと。あるいは。
——羨ましいと。
その二つはまるで違う言葉だった。気をつけては、送り出す者の言葉。羨ましいは、残される者の言葉。前者ならこの人は僕を案じている。後者ならこの人は僕を羨んでいる。でもたぶんその両方だったのだ。案じながら羨む。送り出しながら置いていかれる。その二つの想いが同時にこの人の中にあった。揺らぎの中でどちらか一つに確定しなかったのは。この場所の性質のせいだけではなかったのかもしれない。この人の想いそのものが二つのあいだで揺れていた。だから風のようなその声は。どちらとも決まらないまま僕の背に届いた。確定しないまま。
それでよかった。どちらか一つに決めてしまえば。もう一つがこぼれ落ちてしまう。二つとも抱えたまま。僕は暗がりの奥へ歩いた。どちらだったのか。揺らぎの中でそれは確定しなかった。振り返らなかった。振り返ればたぶん足が止まる。あの人の顔をもう一度見てしまえば。僕は何か言わなくてはいけない気になってしまう。言えば約束が増える。果たせるか分からない約束は一つで十分だった。
僕は揺らめく暗闇の奥へ歩き続けた。背後の気配が少しずつ遠くなる。やがて感じられなくなった。それでいい。その人は境目に残る。僕はその先へ行く。それだけのことだった。それだけのことだった。でもそのそれだけがいちばん難しかった。届く相手には渇きが伝わらない。渇きが伝わる相手にはその先を見せられない。そのすれ違いの中で。それでも僕は行く。誰にも伝えられない場所へ。たった一人で。
冴子に別れを告げたとき。僕は初めてはっきりと悟った。この道は分かち合えない。いちばん分かち合いたい人とすら。だからせめて。僕が見たものが。この人の渇きの何かの慰めになればいい。伝えられなくても。僕があそこに届いたというその事実だけでも。この人の終わらない渇きを。ほんの少しだけ和らげられれば。そう願いながら。僕は境目に背を向けた。




