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第五十八話 教えてくれないか


冴子はしばらく揺らめく超深層を見つめていた。


そのはるか奥にある揺らがぬ一点を。自分がついに届かなかった場所を。


「あなたを引き上げたのは私」


その一言でこれまでのいくつもの符牒が繋がった。学外の坑で僕を待っていた常磐縁。鷲尾を名前だけで退かせたあの"後ろ"。役所の壁が消えていったあの円滑さ。飛び級卒業のあまりになめらかな道。その全部の糸の先が。この人の手に握られていた。顔のない命令が階段を降りてきたそのいちばん上の段に。この人がいた。僕が盤の外へ逃げられたのも。二つのクランの綱引きから掬い上げられたのも。全部この人の手のひらの上でのことだった。利用されていたのか。守られていたのか。その区別がずっとつかなかった。でも今この人の口からその動機が語られようとしている。


僕は静かに次の言葉を待った。やがて彼女は静かに言った。


「常磐縁を通して。あなたの数字に目をつけて。宵星の綱引きから鉄環の手からあなたを掬い上げた。飛び級卒業の道も私が均した」


僕は頷いた。薄々分かっていたことだった。


「なぜそこまでしてくれたんですか」


「最初は」


冴子は少しだけ言い淀んだ。


「最初はあなたを囲い込むつもりだったのかもしれない。……有用な戦力として。私たちの事業のために。宵星や鉄環と同じように」


でもと彼女は続けた。


「あなたを見ているうちに。……違うと思った。この子は囲い込むべき駒じゃない。この子は……私が生涯かけて届きたくて、届けなかった場所へ。……行ける子、なんだと」


冴子の声が震えた。


「いつ、そう思ったんですか」


冴子は少し考えてから答えた。


「あなたが灰縄を助けたと聞いたとき」


その答えは意外だった。僕はてっきり複数陣のことだと思っていた。あるいは深いところへ単独で潜れること。そういう力の話だと。でもこの人が見ていたのはそこではなかった。



「複数陣のことではなかったんですか」

「それも驚いたわ。でもそれだけなら優秀な探索者で済んだ」


冴子は僕を見た。


「あなたは自分の秘密を晒してまで他人を助けた。……あなたにとってあの秘密がどれほど大事なものだったか。私には分かる。それをあっさり捨てて見ず知らずの人を助けた」


その声には静かな確信があった。


「そのとき、思ったの。この子はたぶん力のために力を求めていない。何かもっと別のもののために進んでいる。……そういう子でなければあの底には行けない」


僕は何も言えなかった。あのとき僕はそんな高尚なことは考えていなかった。ただ目の前で人が薪になるのが嫌だった。それだけだ。あのとき、僕は二年かけて隠してきた核をあっさり晒した。目の前で人が薪になろうとしていた。あの夜の僕のように。それを見過ごせなかった。ただそれだけのことだった。高尚な理由なんてなかった。でもこの人はそこに何かを見たのだという。力のために力を求める者ではないと。もっと別のもののために進んでいると。僕は少し居心地が悪かった。買いかぶりだと思った。僕はそんなに立派な人間ではない。でも同時に思った。この人は僕のいちばん奥のところを見ている。力ではなく。その力を何のために使うかという向きを。意外な答えだった。


「だから私はあなたを囲い込む手を放した。代わりに。……あなたをそこへ送り出す手になることにした。私が行けなかった場所へ。あなたを行かせるために」


その言葉に僕はあの境目で感じた託す者の声を思った。この人は僕を囲うのではなく。送り出そうとしていた。自分の叶わなかった渇きを。僕に託して。託すというのは重いことだった。自分の渇きを他人に預ける。その他人が叶えてくれる保証はどこにもない。叶えたとして、それを自分が知れる保証もない。冴子はその全部を承知の上で僕に託した。僕が戻らないかもしれないこと。戻っても言葉にできないかもしれないこと。その二重の断念を抱えたまま。それでも託さずにはいられなかった。自分ではもう行けないからだ。行けない者が行ける者に託す。それは諦めであると同時に。最後の希望でもあった。自分の渇きが自分の代では叶わなくても。誰かの中でいつか叶うかもしれない。その細い糸に。この人は何十年分もの渇きを結びつけた。その糸の先が僕だった。重かった。でもその重さを。僕は断れなかった。


「一つだけ」


冴子は僕をまっすぐ見た。その目にこれまで見たことのない切実さがあった。値踏みでも渇きでもない。もっと人間らしい何か。


「もし、あなたが。……あの底を見て、戻ってこられたら」


彼女の声は微かに掠れていた。


「戻ったら。……あなたが見たものを、私に、教えてくれないか」


その問いは命令でも取引でもなかった。願いだった。生涯届かなかった者の。自分の代わりにそこへ行く者への。精一杯の願い。もし自分が見られないなら。せめて見た者から聞きたい。あそこに何があったのかを。その切実な願いを僕は断れなかった。


「……はい」


僕は答えた。


「戻れたら。……必ず」


冴子はほっとしたように微笑んだ。その微笑みがなぜか僕の胸に小さな棘のように残った。嘘をついたわけではない。戻れたら教える。僕は本気でそう思った。でもその約束が果たせるものなのか。僕には分からなかった。あの揺らぎを超えた一点で見るもの。それが言葉になるものなのか。誰かに伝えられるものなのか。もしそれが言葉にならないものだったら。僕は戻れたとしてもこの人に何も渡せない。最も理解してくれるこの人に。最も伝えたいこの人に。何も伝えられないまま。この人はまた渇いたまま残される。その可能性が棘のように刺さっていた。


でも僕はそれを口には出さなかった。伝えられるかもしれない。伝えられないかもしれない。揺らぎの中ではその未来もまた確定していなかった。だからせめて確定するまでは。この人に希望を残しておきたかった。それが僕にできる精一杯の優しさだった。嘘をついたわけではない。戻れたら教えると僕は本気で思った。でも。誰もそこへ行ったことがないのだから。


僕はその果たせるか分からない約束を胸にしまった。同族のたった一つの願いとして。しまいながら僕は小さな痛みを感じていた。この人の願いはたぶん叶わない。戻れるかどうか以前に。あの揺らぎを超えた一点で見るものが。言葉になるのかどうか。もしそれが言葉にならないものだったら。僕は戻れたとしても。この人に何も伝えられない。最も理解してくれるこの人に。最も伝えたいこの人に。何も伝えられないまま。この人はまた渇いたまま残される。それはあまりに酷な結末だった。でも僕はそれを口には出さなかった。まだ分からないのだから。伝えられるかもしれない。伝えられないかもしれない。揺らぎの中でその未来もまた。確定していなかった。


送り出す手になる。冴子のその言葉の重さを。僕は別れてから量りはじめていた。送り出すというのは。自分は行かないということだ。自分が見たいものを他人に託して。自分は境目に残る。その諦めと託しの両方を抱えた手。もし僕があの底を諦めなければならなくなったとき。自分の代わりに誰かを送り出せるだろうか。たぶん、できない。見たいものは自分で見たい。誰かに託すくらいなら僕は最後まであがくだろう。でも冴子は託した。その静かな強さが。別れてからじわじわと僕の胸に染みてきた。あの人は僕よりずっとこわい思いをしているのかもしれない。届かないことを受け入れてなお渇きを抱え続ける。その終わらない渇きを。



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