第五十七話 三人目
「一ノ瀬律、という探索者を知っている?」
冴子が不意にそう聞いた。僕は息を呑んだ。律。僕がずっと追いかけてきた、死んだ伝説。
「知っています。……収束でただ一人大成した人。もう亡くなっている。僕は彼の記録を頼りに、収束の使い方を見つけました」
冴子は少しだけ目を細めた。懐かしむような。そして悼むような目だった。
「律は、私の古い知り合いだった」
その一言に僕は驚いた。
「同じ時代を生きたの。……律も私と同じだった。あの底が見たかった。理由もなく。ただ渇いていた。……私たちは、その渇きを分かち合った数少ない同族だった」
冴子の声が遠くなった。僕はその言葉を飲み込むのに少し時間がかかった。律がこの人と同じ時代を生きていた。当たり前のことのはずなのに実感が湧かなかった。僕にとって律は記録の中の存在だった。動画の中で他人に語られるだけの伝説。
その律が、生身の人間としてこの人と言葉を交わしていた。笑ったり、苛立ったり、渇きを打ち明けたりしていた。その事実が律を急に近くした。二年間、律は僕にとって記録の中の存在だった。古い映像の中で力業だと笑われるだけの伝説。誰にも真価を見抜かれなかった男。僕だけがその記録を睨んで収束の使い方を掘り起こした。だから律は僕にとって師であり、道しるべであり、そして、遠い他人だった。
顔も声も知らない。どんな人柄だったのかも知らない。ただ到達深度という数字だけを知っていた。その律が今この人の口から生身の人間として立ち上がってくる。乱暴で計算をせず、行きたいから行くそれだけの男。その不器用な人となりが。数字の向こうに初めて血の通った像を結んだ。僕がずっと追いかけてきた背中に。初めて体温が宿った。
「どんな人、でしたか」
僕はそう聞いていた。聞いてから少し恥ずかしくなった。僕はたぶん律のことを知りたかったのだ。ずっと追いかけてきた背中のその中身を。
「乱暴な人だったわ」
冴子は少しだけ笑った。
「計算をしない。理屈も聞かない。行きたいから行く。それだけ。……危ないと言っても聞かなかった。何度も死にかけて、そのたびに量で押し切って帰ってきた。……押し切れてしまうから余計に学ばなかった」
冴子はそこで少し言葉を選ぶように間を置いた。
「押し切れてしまう人は学ばないの。学ぶ必要がないから」
その一言が二年分の問いを解いた。僕はずっと考え続けてきた。律ほどの探索者がなぜ効率に気づかなかったのか。収束の本当の使い方に。答えは単純だった。気づく必要がなかったのだ。律は桁違いの量を持っていた。集めて、焼いて、垂れ流してもなお余るほどの。だから律は量で押せた。押せてしまえば工夫は要らない。効率というけちな引き算は量のない者の苦肉の策だ。量のある者にはその苦肉がそもそも要らない。
僕が二年かけて磨いた効率。それは僕が量を持たなかったから磨けたものだった。もし僕が律のような量を持っていたら。僕もまた効率になど気づかず量で押していただろう。そして律と同じ場所で力尽きていた。持たざることが僕を別の道へ導いた。欠けていたものが僕のいちばんの武器になった。その皮肉を僕は静かに噛みしめた。その一言が僕の中で静かに繋がった。僕が二年間記録を睨みながら考え続けたこと。律がなぜ効率に気づかなかったのか。答えはそこにあった。気づく必要がなかったのだ。
「律は桁違いの魔力を持っていた。異常なほどの量を。だから彼は量で押した。集めて焼いて垂れ流しても余るほどの魔力で。……力ずくで深く潜っていった。私が慎重に少しずつ進んだのとは逆に。律は真っ直ぐ、力任せに突き進んだ」
「律は」
僕は聞いた。
「この揺らぎの恐怖を。……知っていたんですか」
冴子は静かに首を横に振った。
「たぶん、知らなかった。……いえ、正確には。知る前に力尽きたの」
彼女は揺らめく超深層を見つめた。
「律は量で行けるところまで行った。深層の加速する圧の中を、その桁違いの量で押し通そうとした。……でも量には限りがある。どれほど多くても。あの一方通行の圧はいつか必ず量を食い尽くす。律はこの境目にたどり着くその手前で。……量を使い果たして、斃れた」
僕はあの深層半ばの加速する圧を思い出した。僕でさえあそこで死にかけた。書き換えなければ死んでいた。律は書き換えを知らなかった。だから量で抗うしかなかった。そして量ではあの圧は越えられなかった。
「律は」
冴子は静かに言った。
「揺らぎの恐怖を知らないまま死んだ。……この境目にすら届かずに。だから律は"まだ自分か"という問いに悩む機会すらなかった。彼はただ量で押して押しきって。その果てで力尽きた。……ある意味で幸福だったのかもしれない。あの底なしの問いを知らずに済んだのだから」
その言葉に僕ははっとした。律は答えの出ない問いを知らなかった。まだ僕かという問い。書き換えた自分が自分なのかという問い。律は量で押したから身体を書き換える必要がなかった。書き換えなかったからその恐怖を知らずに済んだ。冴子がそれを幸福だと言うのが。僕には少し意外だった。でも考えてみればそうかもしれない。律は最後まで自分が自分であることを疑わずに済んだ。乱暴でまっすぐで迷いのないまま。力尽きた。
それはある意味で幸福な死に方だった。僕は違う。僕は書き換えるたびにまだ僕かと問い続けてきた。その問いを抱えたままここまで来た。律の知らなかった地獄を僕は知っている。どちらが幸福なのか。分からなかった。ただ僕は律のようにはなれない。問いを知ってしまった以上。知らなかった頃にはもう戻れない。
僕は律のことを思った。動画の中で力業だと笑われていた男。誰にも真価を見抜かれなかった男。その律の本当の姿が。今初めて像を結んだ。律は恐怖を知らなかった。冴子は恐怖を越えられなかった。そして僕は。恐怖を渇きで越えてきた。三人とも同じ渇きを抱えていた。
あの底が見たかった。でも欠けているものが一つずつ違った。律には効率を道として歩む理解がなかった。冴子には恐怖を越える何かがなかった。僕はその両方をたまたま持っていた。効率と渇き。それだけの違いで。律は途中で斃れ。冴子は境目に留まり。僕だけがその先へ進もうとしている。
「あなたは」
冴子が僕を見た。その目に律と自分と二人分の渇きが宿っていた。
「私たちが届かなかった場所へ行ける。……律の見られなかったものを。私の届かなかったものを。……あなたはこの目で見てくる」
その声は託す者の声だった。二人分の渇きを。時を隔てて。同じ場所ですれ違った三人目に。
三人目。
その言葉が胸に深く落ちた。律。冴子。そして僕。時代を隔てて。同じ渇きを抱えた三人。僕はずっと自分を孤独だと思ってきた。誰にもこの渇きは理解されないと。でもそうではなかった。僕の前に二人いた。同じ渇きを抱えて同じ底を目指した先達が。一人は量で押して力尽き。一人は恐怖に足を止めた。二人とも届かなかった。でも二人は確かに僕と同じものを見ていた。
僕は一人ではなかったのだ。この途方もない渇きの道の上で。僕は二人の先達のその一歩先に立っている。孤独ではあった。でも孤立ではなかった。その違いがなぜか僕を静かに強くした。




