第五十六話 どこかこわかった
冴子はゆっくりと語りはじめた。揺らめく境目で。長い、長い、時間の話を。
「私も、若い頃はあなたと同じだった」
その声は遠い記憶をたどるようだった。
「あの底が見たかった。誰も見たことのない、いちばん深いところ。……理由なんてなかった。ただ見たかった。その渇きだけで私は深く潜り続けた」
僕は黙って聞いていた。この人の言葉はまるで、僕自身の独白のようだった。同じ言葉を僕は何度も心の中で繰り返してきた。理由がない。得も意味もない。ただ見たい。その説明のつかない渇き。誰にも理解されないと思っていたものが。今目の前の人の口からそっくりそのまま出てきている。
その感覚をなんと言えばいいのか僕には分からなかった。嬉しいとは少し違う。救われたというのも違う。ただ静かに驚いていた。自分と同じ形の渇きを持つ人間がこの世に実在した。それは静かな衝撃だった。僕はずっと思ってきた。この渇きは僕だけのものだと。誰にも理解されない。得も意味もなく、ただ、見たいだけのこの飢え。母にも桐山先生にも鵜飼にも伝わらなかったこの一念。
それを抱えているのはこの世で僕だけだと。だから僕はいつも一人だった。周りに人はいても。この渇きだけは誰とも分かち合えなかった。でも今目の前の人が。僕の独白をそっくりそのまま口にしている。理由もなく。ただ見たかった。その言葉がこの人の過去の言葉でもあった。
ただ静かに驚いていた。僕は一人ではなかったのだ。この途方もない渇きを抱えていたのは。少なくとももう一人。いや、律を入れれば二人。時代を隔てて。僕と同じ光を見上げた者がいた。律は、僕よりずっと前の時代にこの渇きを抱えていた。量に恵まれながら。その量で押し進み、深層半ばで力尽きた。冴子は律と同じ時代を生きた。律を知っていた。そして律と同じ渇きを抱えながら。境目で足を止めた。
二人ともあの底を見たがっていた。僕と同じように。でも二人とも届かなかった。律は量の限界で。冴子は恐怖の壁で。その二人分の渇きが。今僕の中で静かに疼いている気がした。僕があの底を見たら。律が見たかったものを見ることになる。冴子が見たかったものを見ることになる。三人分の渇きを僕一人が背負って。いちばん深いところへ。それは重荷ではなかった。むしろ。一人ではないという静かな支えだった。時代を隔てた二人が僕の背を押している。そんな気がした。それだけのことがこんなにも僕の中を揺さぶるとは。
「私は恵まれていた。生まれつき、魔力の量も素質も人並み以上だった。……そして久遠寺の血は、迷宮の資源で老いを押し返せた。時間はいくらでもあった。だから私は何十年もかけて深く潜った。少しずつ。慎重に。……そして、ここまで来た」
冴子は揺らめく超深層のほうを見た。
「この境目までは。私も来られたの」
その一言にこの人の何十年もの後悔が滲んでいた。来られた。でもその先へは行けなかった。力が足りなかったわけではない。この人は老いない時間を持っていた。その気になればいくらでも力を磨けたはずだ。
でもと冴子は言った。そこで初めてその声が揺れた。
「ここから先へは。行けなかった」
「魔力が足りなかったんですか」
僕は聞いた。冴子は首を横に振った。
「いいえ。……魔力はあった。引き返せるだけの余力を残してなお、もう少し先へ進むこともできたはず。少なくとも試すことはできた。……でも、私は進まなかった」
その言葉に僕は少し驚いた。引き返せる魔力がありながら。行かなかった。
「なぜ」
冴子はしばらく黙っていた。言葉を探すように。あるいは探しても見つからないものを探すように。
「……分からないの」
やがて冴子はそう言った。
「自分でもうまく言えない。ただ、ね」
彼女は揺らめく超深層を見つめた。その目に恐れに似た何かがよぎった。
「この揺らぎの中に足を踏み入れたら。……私は私でいられなくなる気がしたの。溶けて、ほどけて、この揺らぎの中に還ってしまう。私が私であることが、この先では保てなくなる。……そんな気がした」
冴子の声が微かに震えた。
「明確な確信ではなかった。ただ漠然と。……どこかこわかった。この先へ行けばもう戻れない何かになってしまう気がして。その曖昧な恐怖を。……私は越えられなかった」
冴子はそこで少し笑った。自嘲の笑いだった。
「情けない話でしょう。何十年もかけてここまで来て。……最後の一歩を、こわいというだけで踏み出せなかった。しかもその"こわい"が何なのかも説明できない」
僕は首を横に振った。
「説明できないから、こわいんだと思います」
自分でも思いがけない言葉が出た。言った瞬間それが真実だと分かった。僕が書き換えのたびに抱いてきた恐怖。冴子が境目で足を止めた恐怖。その二つは同じ形をしていた。
名前のない、輪郭のない、恐怖。魔物なら姿がある。姿があれば倒し方を考えられる。圧なら大きさがある。大きさがあれば耐え方を計算できる。でも自分が自分でなくなるかもしれないという恐怖には。姿も大きさもない。何をどうすれば防げるのか。誰にも分からない。
分からないものには身構えようがない。だからいちばんこわい。その恐怖の形を僕は身体と脳を書き換えるたびに味わってきた。だからこの人の恐怖も言葉にできた。同じものを抱えている者にしか言葉にできない恐怖だった。
「説明できるものは対処できます。魔物なら倒し方を考えられる。圧ならどう耐えるか計算できる。……でも自分が自分でなくなるかもしれないというのは。何をどうすれば防げるのか誰にも分からない。分からないものはこわい」
冴子は僕をじっと見た。
「あなたはそれを知っているのね」
「知っています」
僕は答えた。
「僕もそれがいちばんこわいので」
まだ自分か。僕が身体と脳を書き換えるたびに抱いたあの問い。この人も同じ淵の前に立ったのだ。でもこの人は越えられなかった。その曖昧な恐怖を。
「あなたは」
冴子はじっと僕を見た。
「その揺らぎの中を進んできた。……こわくなかったの?」
「こわかったです」
僕は正直に答えた。
「今も、こわい。……身体を、脳を、書き換えるたびに思います。この僕はまだ僕なのかと。答えは出ません。永遠に出ない」
「なのに、なぜ進めるの」
冴子の声には切実な問いがあった。自分が越えられなかったものを。この子はなぜ越えられるのか。その答えを彼女は長い時間探し続けてきたのだ。僕は少し考えて。それから答えた。
「たぶん、僕にはこわがっている暇がなかったんです」
瞳は揺れない。
「渇きがいつも恐れより先に行ってしまうから。……こわいと思う前に見たいが勝ってしまう。それだけのことなんだと思います」
足りなかったのは力ではなく。渇きが恐怖を超えるそのわずかな差だった。この人の恐怖はこの人の渇きよりほんの少しだけ大きかった。だから境目で足が止まった。揺らぎの中で、自分が自分でなくなる。その輪郭のない恐怖に。この人は足をすくませた。それを弱さと責めることは僕にはできなかった。僕だって書き換えるたびに同じ恐怖に震えた。ただ僕の渇きがその恐怖よりほんの少しだけ大きかった。それだけの違い。紙一重の差だった。その差がこの人を境目に残し。僕をその先へ行かせようとしている。
冴子はしばらく僕を見つめて。それからふっと力なく微笑んだ。
「……そう。それが私とあなたの違いなのね」
その微笑みには羨望と諦めと。そしてほんの少しの安堵が混じっていた。なぜ安堵なのか。僕には少し分かる気がした。この人はずっと自分を責めてきたのだ。なぜあのとき進まなかったのか。なぜあの曖昧な恐怖に負けたのか。もっと勇気があれば。自分もあの底を見られたのではないか。
その後悔を。何十年も。でも僕の話を聞いて。この人は知ったのだ。勇気の問題ではなかったと。僕は勇敢だったから進めたのではない。ただ渇きが恐怖より強かった。それだけの違い。この人にも渇きはあった。でもこの人の恐怖はその渇きよりほんの少しだけ大きかった。
それはこの人の弱さではない。ただの渇きと恐怖の大きさの順番の問題だった。その事実がこの人を長年の後悔から。ほんの少しだけ解き放ったのかもしれない。もっと勇気があれば。自分もあの底を見られたのではないか。その後悔を何十年も。老いない身体で癒えることも忘れることもできずに。抱え続けてきた。でも僕の話を聞いて。この人は知ったのだ。勇どちらがほんの少し重いか。その紙一重の差が。二人の運命を分けた。その事実は後悔を消しはしない。でも後悔の刃先を。ほんの少しだけ鈍らせた。あなたのせいではなかったと。僕の存在がそう告げていた。




