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第五十五話 久遠寺冴子


境目にその人は立っていた。深層と超深層の狭間。揺らぎが始まるその際に。


近づくにつれて僕は奇妙なことに気づいた。この場所まで、この人はどうやって来たのか。深層半ばの、あの、一方通行の圧を。


この人は越えてきたことになる。僕は書き込みなしでは、あそこを越えられなかった。ならこの人も何かをしているはずだ。書き込みか。いやそれはたぶん違う。この人の輪郭の保ち方は、僕とは質が違って見えた。僕は更新し続けることで輪郭を保っている。絶えず、書き直している。でもこの人は、ただ静かに、揺らがない。書き直している気配がまったくない。


まるで最初から、揺らがないものでできているように。その静けさが僕には少しだけ不気味だった。近づくとその姿がはっきりと見えた。あの受付の奥にいた静かな目の人。


若く見えるのに、古い空気を纏ったあの人だった。装備らしい装備は身につけていない。武器も持っていない。この深さで丸腰。僕と同じだ。揺らぎの中でその輪郭は少しも滲んでいなかった。僕と同じだ。この人も自分の輪郭を保つ術を持っている。でもその術は僕とは質が違うように感じた。僕が更新し続けることで輪郭を保っているのに対し。この人はただ静かに揺らがない。まるで長い時間をかけて揺らぐことを諦めた者のように。僕は更新し続けることで輪郭を保っていた。絶えず自分を書き直して。揺らぎよりわずかに速く。激しい綱渡りだった。でもこの人の保ち方は違った。


静かだった。


書き直している気配がまったくない。まるで最初から揺らがないものでできているように。その静けさが僕には少し不気味だった。何十年もこの境目に通い続けて。揺らぎの中で輪郭を保つ術をこの人は独自に身につけたのだろう。でもそれは進むための術ではなかった。留まるための術だった。揺らぎに溶けないように。でも揺らぎの奥へも行かないように。境目にじっと留まり続けるための。その静止の術を極めた果てに。この人は揺らぐことを忘れたのかもしれない。揺らがないことは進めることではなかった。ただその場に在り続けられるというだけだった。



「ここまで、来たのね」


その人は静かに言った。初めて聞く声だった。思っていたよりずっと柔らかく。そしてどこか遠かった。


「あなたの噂を初めて聞いたときから。……もしかしたら、と思っていた」


その人は僕をまっすぐ見た。


「もしかしたらこの子は。……私と似た人間なのではないかと」


似た人間。


その言葉に僕はあの受付での一瞬の視線を思い出した。同族を見つけたような。自分がずっと欲しかったものを他人が持っているのを見てしまったような。あの目。


「申し遅れました」


その人は静かに頭を下げた。この格上の人が。一介の探索者の僕に。名乗るという行為には格が絡む。クランは名乗ることで、看板の重みを示す。名を持たない者は、名を明かさないことでその底知れなさを保つ。


この人はずっと後者だった。受付の奥で名を明かさず、ただ静かに僕を見ていた。その人が今頭を下げて名を告げる。それは格を脱ぐ仕草だった。これまで名を必要としないほど上にいた人が。同族の前でだけその名のない鎧を脱いだ。揺らめく境目で、丸腰で向き合う二人。どちらも武器を持たず。どちらも揺らぎに輪郭を保ちながら。その対等さの中で初めてこの人は僕に名を渡した。


道具に名はいらない。名を渡すというのは僕を道具ではなく対等な誰かとして扱うということだった。


「久遠寺冴子、といいます」


久遠寺。その姓を聞いた瞬間。頭の隅で何かが静かに繋がった。常磐縁。あの値踏みの目をした後輩。彼女は言っていた。宵星とは繋がっているが宵星の人ではないと。もっと上に繋がっていると。その"上"が。この久遠寺冴子だったのだ。


「常磐さんは」


僕は聞いた。


「あなたの、なんなのですか」


冴子は少しだけ微笑んだ。


「紫の縁、でね」


紫の縁。古い由緒ある言葉だといつか本で読んだ覚えがあった。古い作品にある、血の繋がり縁を指す言葉、だったか。


紫のゆかり。


座学ではなく、図書室で暇つぶしに読んだ本だった気がする。あの頃の僕は実地の訓練から逃げるように図書室で時間を潰していた。その無駄だと思っていた時間が。今この場所で意味を持った。


そして、常磐"縁"の名。


常磐と久遠寺。どちらも、"変わらぬもの"、"永遠"、に通じる姓。常磐は常に変わらぬ緑。久遠は果てしない時間。言葉としてまったく違う。でも指しているものは同じだ。変わらないこと。終わらないこと。そしてその二つの姓を「紫の縁」という古語が繋いでいる。


僕はその符牒の意味を悟った。この人たちは繋がっている。古い血脈で。しかもその繋がりを表に出さないように姓を分けている。分けたうえで古い言葉で内側だけに印を残している。そういうことを何代にもわたって続けてきた一族。その用意周到さがこの人たちの長さを物語っていた。


そして——老いないというあの噂。


「あなたたちは」


僕は揺らめく暗闇の中で静かに問うた。


「本当に、老いないんですか」


冴子はしばらく僕を見ていた。それからゆっくりと頷いた。


「ええ」


その一言には、長い、長い、時間の重さがあった。


「私たちは、迷宮のいちばん深いところで採れるある資源で。……老いを押し返している。もう何十年も。あるいはそれ以上」


冴子の目が遠くを見た。


「でもそれは、あなたが思うような幸福ではないの。……老いないというのは。終わらないということ。ずっと同じ渇きを抱えたまま。終わることも、忘れることもできずに。……ただ、届かないものを見つめ続けること」


その言葉は静かだった。でもその静けさの底に何十年分もの疲れが沈んでいた。老いないというのは。僕が漠然と羨んでいたことだった。時間さえあれば。もっとゆっくり深く潜れると。でもこの人はその無限の時間を。祝福ではなく拷問として生きていた。終わりがあれば。人は諦めることもできる。いつか死ぬのだからと。届かなかったものも死とともに手放せる。でも終わりがなければ。諦めることすら許されない。届かないものをただ永遠に見つめ続ける。渇きが癒えることも忘れることもない。


それは報いではなく罰に近かった。僕は初めてこの人を羨むのをやめた。そして少しだけこわくなった。もし僕があの資源を手にしたら。僕もまた終わらない渇きの中に閉じ込められるのだろうかと。その言葉に僕は返す言葉がなかった。


終わりがなければ。諦めることすら許されない。ただ永遠に渇き続ける。それが久遠寺の老いない血の本当の姿だった。僕は初めてこの人を羨むのをやめた。届かないもの。その言葉に僕はあの揺らがぬ一点を思った。最奥。この人が見つめ続けてきたもの。そして届かなかったもの。冴子の渇いた目のその渇きの正体が。今静かに僕の前に開かれようとしていた。


名を明かされ。不老の実態を聞かされ。この人の終わらない渇きを知って。僕は少しだけこの人がこわくなった。この人がたどった道を僕もたどっている。深く潜り力を得てしかし渇きは癒えない。僕が欲しいのは老いない身体ではない。時間でもない。ただあの一点を見たいだけだ。見てしまえば。たとえその後に死んだとしても。僕の渇きは満たされて終わる。終われるならそれでいい。この人と僕の違いはそこかもしれなかった。この人は時間を味方にしようとして。終われなくなった。僕は時間など要らない。ただ一度見られればいい。そのたった一度のために僕は今境目に立っている。



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