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第七十話 見ていたい、ずっと


この一点から。揺らぎを超えて確立されたこの場所から。僕にはあらゆるものが見えた。解体され、揺らめく、無数の情報が。星のように暗闇に瞬いている。その一つ一つが。目を凝らせば。世界のどこかの何かだった。


遠い地上の。僕の知っている光景も。その無数の星のどこかに。瞬いていた。その無数の光の中にふと見覚えのある瞬きを見つけた。汐里だった。妹の汐里が。あの学園の実地の坑に初めて潜っていた。覚醒の瞬間だった。あの子の中で何かがぱちんと弾けるように目覚めるのが。ここから見えた。こうして見るとそれは驚くほどあっけない光景だった。


人が一線を越える瞬間というのは。案外こんなふうに静かで小さいものなのかもしれない。汐里は驚いた顔で自分の掌を見つめていた。そしてその顔が少しだけ笑った。こわがってはいなかった。母があれほど恐れた瞬間に。あの子は笑っていた。それを見て僕は少しだけ救われた気がした。あの子のこれからはあの子のものだ。僕はただ妹が無事に最初の一歩を踏み出したことを。このいちばん遠い場所から静かに見届けた。


その瞬間を僕は自分のときのことと重ねて見ていた。僕のときもこうだったのだろうか。あのとき僕は何も感じなかった。ただ掌に熱が生まれただけだった。でも外から見ればあんなふうに何かが弾けて見えるのか。


あれが母の恐れた「一線」の正体なのか。こうして見るとそれは驚くほどあっけない光景だった。人が一線を越える瞬間というのは。案外こんなふうに静かで小さいものなのかもしれない。汐里は驚いた顔をしていた。自分の掌を見つめて。そこに灯った初めての力を。まだ名前も分からないその権能<スキル>を。確かめるように。その顔が少しだけ笑った。こわがってはいなかった。母があれほど恐れた瞬間に。あの子は笑っていた。それを見て僕は少しだけ救われた気がした。汐里のスキルが何なのか。ここからは分かった。


でもそれは。

書かない。


それは汐里のこれからの物語だ。汐里が自分の足で見つけていく道だ。僕の渇きが僕のものだったように。汐里のこれからは汐里のものだ。僕はただ。妹が無事に最初の一歩を踏み出したことを。このいちばん遠い場所から。静かに見届けた。


いつかあの子も。自分の渇きの行き先を見つけるのだろうか。兄の背中を追って。それは分からない。でも。もしそうなったとしても。それはあの子の選ぶ道だ。僕はただ。あの子のまっすぐな目が。いつまでも曇らないことを。願った。それが僕の家族に遺せる。たった一つの祈りだった。母のことも思った。あの手紙を読んだ母。息子の遺したたった数行から。何かを察して。それでも待つと決めた母。僕はその母に。この星の海を見せてあげたかった。あなたがあんなに恐れたあの狂った世界の。いちばん深いところに。こんなにも静かで美しいものがあったのだと。だからこわがらないでと。でも。それも伝えられない。母は覚醒すらしていない。この世界に母は入れない。僕が見たものは。母には永遠に届かない。届いているのに、届いていない。あの食卓の距離は。いちばん深いところまで来ても。やはり埋まらなかった。でも。それでもいいと。今は思えた。埋まらない距離を抱えたまま。僕は母を想える。それで十分だった。




僕は視線を戻した。汐里の小さな瞬きから。目の前の星の海へ。この暗いのに明るい無数の光へ。あの人たちは。律も冴子も。この源から零れ落ちたほんの搾りかすを。不老の資源を奪い合っていた。地上のあらゆる者が。このいちばん深いところの搾りかすを巡って。争い囲い渇いていた。



宵星の橘さんのあの欲の目。鉄環の鷲尾のあの獲物を見る目。常磐縁のあの値踏みの目。あの人たちが必死に握ろうとしていたもの。僕という駒。その駒が掘り出してくるはずだった資源。その資源のいちばん奥の源がここにある。


そしてその源は。誰のものでもなかった。所有できるものではないのだ。持ち帰れない。売れない。分けられない。ただ見ることしかできない。見ることしかできないものを奪い合う意味はない。だからこの場所は。あらゆる争いの外にある。でも。その源そのものは。こんなにも静かで。こんなにも美しかった。誰もそれを知らずに。搾りかすだけを追いかけていた。僕だけが。ここに立って。その源を見ている。誰にも伝えられないこの光景を。たった一人で。



人なのか。人でなくなったのか。書き換え続けた果てに僕は何になったのか。その問いは。もう僕の中になかった。この一点に立った時点で。その問いを分ける壁は。とうに壊れていた。人かそうでないか。超えたのか超えていないのか。そんな区別は。ここではもう意味を持たない。あるのはただ。僕という変わらない渇きの流れと。その渇きがついに届いた。この星の海。それだけだった。




僕は手を伸ばした。もう一度。あの夜の子供のように。星に触れる。指の先に澄んだ光が灯る。届いている。あんなにも遠かったこの光に。僕は今触れている。見えているのに届かなかったあの渇きは。もうない。見えていて。届いている。ただそれだけの。満ちた静けさが。ここにはあった。


帰るのか。帰らないのか。冴子に教えられるのか。母の待つ食卓に戻れるのか。——分からない。その先のことは。まだ何も決めていない。いや決めるという発想すら。今は湧かなかった。




決めなければならないという感覚がない。地上ではいつも何かを決めていた。どこまで潜るか。どこで引き返すか。何を採り、何を捨てるか。誰にどこまで話すか。決断の連続だった。決断とは時間の中でするものだ。この先どうなるかを見越して今選ぶ。でもここではその「この先」がどうなっているのか。僕にはもう分からない。時間がどう流れているのかも。流れているのかどうかも。だから決めようがない。決めようがないことを僕は静かに受け入れていた。



ただ。今は。この景色の中にいたかった。あの海辺の夜からずっと追いかけてきた。この届かない星の。そのいちばん奥の源に。ようやくたどり着いた僕は。もう少しだけ。いや。できることなら。この星の海を。この暗いのに明るい無数の光を。見ていたかった。この景色を見ていたい、ずっと。




渇きはもう僕を急かさなかった。


初めて渇きが静かに凪いだ場所で。僕はただそれを見ていた。



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