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第七話 合わない数字


朝、僕は誰にも見つからずに寮の部屋に戻った。点呼の三十分前だった。制服は泥だらけで右の袖が焦げていた。郷田の火だ。あのとき、思っていたより近くを掠めていたらしい。あの崩落を、郷田は誰にも言えない。言えば、自分の火が原因だと認めることになる。僕も言えない。言えば無許可の潜入が露見する。


互いの秘密が互いの口を塞いでいる。


睨み合ったままどちらも動けない。厄介な形で僕らは繋がってしまった。洗って、隠して、僕は何食わぬ顔で朝の点呼に並んだ。右手の指の先がまだ少し痺れている。昨夜、薪にされかけた場所だ。あそこから自分が無くなっていく感覚を身体ははっきりと覚えていた。指を何度も握っては開く。感覚が少しずつ戻ってくる。戻ってくるたびに、生きていると静かに思う。誰も、僕を見ていない。いつものことがこの日ばかりはありがたかった。昨日の夜、あの戸の先で起きたことを僕は誰にも言えない。言えば忍び込みが露見する。退学だ。だから黙っているしかない。黙っているのは得意だった。


郷田も黙っていた。教室で目が合っても彼はすぐに逸らす。昨日までのあのこちらの弱みを見つけた顔ではない。もっと落ち着かない顔だ。当然だった。あの崩落は郷田の火が起こした。偏差領域の中で火属性を撃つことがどれだけ無茶か彼だって知っている。知っていて頭に血が上って撃った。もし誰かが死んでいたら。もし坑の異変が露見したら。真っ先に責められるのは郷田のほうだ。だから彼も言えない。僕らは同じ秘密を別々に抱えて黙っている。


奇妙な均衡だった。互いに互いの首を絞められる。だからどちらも手を出せない。取り巻きの三人も目を合わせてこない。あの夜、彼らは逃げた。浅いほうへ。深いほうに残された僕が、生きて戻ってきたことを、彼らはどうっているのだろう。たぶん、考えないことにしているのだ。そのほうが楽だから。人は都合の悪いことを驚くほど上手に忘れられる。




一度だけ廊下で郷田と二人きりになったことがあった。彼は足を止めた。何か言いかけた。どうやって帰ったんだ、とその口が動きかけたように見えた。でも彼はそれを飲み込んだ。聞けば、自分が忍び込みと崩落を認めることになる。だから聞けない。彼は僕の脇を黙って通り過ぎた。すれ違いざま、その横顔が少しだけ青いのが分かった。強いスキルを持った査定上位の男が。僕を恐れているとまでは言わない。ただ得体の知れないものを見る目をしていた。あの深さに置き去りにされて生きて戻ってきた奴。その事実だけが彼の中で説明のつかないものとして残っているのだ。それが少しだけ可笑しかった。そして少しだけ疲れた。




問題は何も解決していなかった。あの夜、僕はほとんど何も採れなかった。いや正確には、採った分は逃げる途中でどこかに落とした。薬草も、魔石も。逃げるのに精一杯で売れる素材どころではなかった。学費の通知は机の抽斗の中でまだ僕を待っている。普通科に移れば解決する。あの熱を捨てさえすれば。考えるたびに胸の裏が静かに痛む。そしてあの戸にはもう迂闊に行けない。郷田に知られている以上次に行けばまた同じことが起きる。金を稼ぐ道は塞がった。振り出しどころか後退だ。



けれど。それ以上に僕の頭を離れないことが一つあった。僕はなぜ生きているのか。夜、消灯のあと、僕は数字を並べる。あの夜の自分の数字だ。到達したおおよその深度。そこの偏差の濃さ。残っていた魔力の量。どれも正確ではない。測る道具など持っていなかった。でも大きくは外していないはずだ。僕は自分の魔力の残量には人一倍敏感だ。いつも余らせているからだ。式に入れる。答えが出る。


——死んでいる。


どう甘く見積もっても、あの残量で、あの深さから帰る道のりはまかなえない。途中で魔力が尽きて、命が薪にされて、僕はあそこで死んでいる。計算は、そう言っている。なのに、僕はここにいる。式が間違っているのか。僕の記憶の数字が間違っているのか。


それとも——


その先を考えかけて僕はいつものように陣を組んだ。掌の上に。線を、円を、その内側にもう一つ。消費を静かに測る。やっぱり少ない。同級生の半分どころではない。もっとずっと少ない。僕は、その少なさをこれまでただの気のせいのように扱ってきた。言葉にできないから。成績にならないから。誰かに言えば笑われるから。でも、あの夜、その「少なさ」が僕の命を拾った。気のせいではなかったのだ。骨が喉の奥で動いた気がした。律の到達深度に僕はいつも引っかかっていた。合わないと。その「合わない」と今僕自身の数字が示す「合わない」がどこかで同じ形をしている気がした。まだ繋がらない。でも確かに同じ匂いがする。



僕は何度も式を組み直した。自分の記憶を疑い、深度を浅く見積もり、残量を多めに見積もり、それでも答えは変わらなかった。どう譲歩しても、僕はあの夜死んでいるはずだった。死んでいないなら、譲歩できない前提のどれかが間違っている。偏差の濃さか。削れ方の式か。

あるいは僕が「陣を組むと消費が少ない」とずっと片付けてきたあの気のせい。


気のせいと呼んで蓋をしてきたもの。蓋をしてきたのは、それが僕にとって恥ずかしいものだったからだ。人前で組めば笑われる間に合わせの杖。そのいちばん惨めなものが。もしかしたらいちばん大事なものだったのかもしれない。その蓋を開けなければならない。開けた先に何があるのか。こわいような、それでいて、灼けるような気持ちで僕は天井の染みを見上げていた。僕はその夜眠れなかった。



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