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第六話 なぜ生きている


陣を組む。最後の一つを。線を、引く。円を、描く。その内側に、もう一つ。ほとんど魔力は残っていない。残りかすの、そのまた残りかすだ。こんなもので何が変わるわけでもない。


分かっている。分かっていて、それでも手が勝手に動いた。癖というのはこういうときに出るものらしい。二年の間、隠れて何百回、何千回と繰り返してきた動きだ。考える前に、指がその形を覚えている。いつもの恥ずかしい間に合わせを暗闇の中で僕は描いた。放つためではなく。焼くためでも射抜くためでもなく。ただ集めるために。


変化は静かに来た。指の先のしびれが止まった。薪みたいに減っていくはずの感覚が途中で留まった。身体を包む魔力の抜けていく音が——遠くなった。止まったわけではない。でも緩んだ。あり得ないほど緩んだ。いつも練習で感じていた「少し緩む」とはまるで違った。桁が違う。濃い偏差の中でこそ、この差ははっきりと出るのだ。浅いところでは、たいした違いに見えなかったものが。深いところでは、生死を分けるほどの差になっている。残りかすしかないはずの魔力で、僕はまだ生きている。


なぜだ。

分からない。

まるで分からない。


掌の上の色のない輪郭が、いつもよりずっと静かに澄んでいる。濃い偏差の中でその澄み方は、浅いところとは比べものにならなかった。まるで狂いの濃いところほど、この陣は水を得るように効く。揺らぎが濃いほど、僕の手が確かになる。そのあべこべの感覚を、このとき僕はまだ言葉にできなかった。


膝をついたまま、僕は自分の掌の陣を見つめる。


いつもの陣だ。


いつもの消費の少ない間に合わせの陣。その「少ない」が今桁を一つ飛び越えている気がした。でも確かめる余裕はない。考えるのはあとだ。


生きているうちにここを出なければ。


僕は崩落した壁に手をやる。塞がっている。押しても引いても動かない。来た道はもう戻れない。別の道を。陣を保ったまま、僕は慎重に立ち上がる。立てた。さっきまで指の先から消えていくだけだった身体が、今は言うことを聞く。膝も足首も動く。あの死にかけていた感覚が嘘のようだった。壁を伝って横へ。崩れた岩のあいだに細い隙間がある。人一人がやっと通れるほどの。その先に空気の流れを感じた。わずかだが、確かに風がある。風があるということは、どこかに繋がっている。浅いほうへ繋がっている。僕はその隙間に身体をねじ込んだ。




岩の匂いがした。湿った鉱物の匂い。肩が擦れる。制服の袖がどこかで裂けた。構わずに進む。狂った定数の中では時間の感覚も少しおかしくなる。一歩がやけに長い。次の一歩がやけに短い。距離が伸びたり縮んだりする。教本には深いところほどこうした感覚のずれが大きくなると書いてあった。実感するのは初めてだった。僕はそれに惑わされないように陣だけを頼りにした。掌の上の線と円とその内側のもう一つ。消すわけにはいかない。消せばまたあの、指の先から自分が無くなっていく感覚が戻ってくる。保っている限り、僕の魔力は信じられないほど減らない。減らないことがこわかった。こんなことは教わっていない。どの教本にも書いていない。燃費最悪の、不適性が、残りかすの魔力で、深いところを生きて進んでいる。あり得ない。あり得ないことが、今、この身体で起きている。自分の身体が自分の知らない理屈で動いている。それは助かったという安心よりも先に。ただ不気味だった。母の声が暗闇の奥で蘇る。覚醒したあとの自分がまだちゃんと自分なのかと。


僕は今まさに自分の知らない理屈で生き延びている。


これは母が恐れたことなのだろうか。でも、胸の裏の熱は変わらずそこにある。あの海のあの星の届かない光。それだけは崩落の前も後も同じ場所で灼けている。だからたぶん僕はまだ僕だ。そう暗闇の中で自分に言い聞かせた。考えるな、と自分に言い聞かせる。考えるのは外に出てからだ。今はただ陣を保て。線を。円を。その内側にもう一つ。それだけを繰り返す。




どれくらいかけて進んだか。覚えていない。途中で何度か道を選んだ気がする。風の来るほうへ。空気の少しでも軽いほうへ。陣を絶やさないことだけを考えていた。消すとまた抜けていくのが分かるからだ。保っている限り僕の魔力は信じられないほど保つ。やがて蔦の匂いがした。鉱物の匂いに混じって、青いものの匂いが、微かに届いた。あの錆びた戸の匂いだ。最後の数歩はほとんど這うようだった。僕は戸を押した。軋みながら開く。外は白みかけていた。夜が終わろうとしている。冷たい空気が頬に触れた。その瞬間、張り詰めていたものが切れて、僕はその場に崩れ落ちた。仰向けに倒れる。蔦の葉が頬に触れた。空が見える。星はもうほとんど消えていた。一つだけ白い空に残っている。僕はそれを見ている。生きている。死ぬはずだった。どう計算してもあの残量であの深さから帰れるはずがなかった。


なのに、生きている。


嬉しさはなかった。あるのは、ただ大きな、分からなさだけだった。僕はいったい何をしたんだ。残りかすの魔力で、あの深さから帰ってきた。式は、僕が死んだと言っている。現実は、僕がこうして空を見ていると言っている。どちらかが間違っている。式が間違っているのか。それとも、僕がこれまで信じてきた収束という力の意味が間違っているのか。考えようとすると、頭の芯がぼんやりと痺れた。疲れていた。骨の髄まで疲れていた。指先にはまだあの薄れていく感覚の記憶が残っている。答えは出ない。出ないまま朝が来る。白い星が一つ朝の中に溶けていくのを僕はただ見ていた。綺麗だとこんなときでも思った。その場違いな一言だけが確かに僕のものだった。



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