第五話 淵の手前
消灯のあと、僕は寮を抜け出した。寮監の見回りは十時と深夜二時。その間の時間なら動ける。誰にも見られないように、非常階段を降りて、裏の植え込みを抜けた。夜の敷地は静かだった。昼間は生徒であふれている校舎も、この時間はただの黒い塊にしか見えない。訓練坑の裏手蔦の陰。錆びた戸を押すと、いつものように軋みながら開いた。その音が夜の中ではやけに大きく響く。僕はしばらく息を止めた。
誰も来ない。
中は暗い。昼に来るときとは暗さの質が違う気がした。昼は戸の隙間から少しだけ光が入る。でも、今は外も暗い。入口から完全な闇が続いている。偏差領域の中では灯りの魔法も長くは保たない。電池式の灯りはそもそも動かない。だから、探索者は灯りにも魔力を割かなければならない。僕は掌に、間に合わせの陣を組み最小限の光を灯した。消費を極限まで抑えて。足元が辛うじて見える程度の光。これでいい。明るくすればそれだけ魔力が減る。
いつもの練習の深さを少しだけ越える。いつもは入口からせいぜい数十歩のところで練習している。今日は、その、先へ。浅いところにも質のいい薬草はある。偏差領域にだけ生える、あの淡く光る葉だ。薬効のあるものは市場でそれなりの値がつく。小さな魔石も、運がよければ。魔石は、坑の壁の窪みや、水の湧くところに稀に転がっている。誰にも迷惑をかけずに、少しだけ。自分にそう言い聞かせながら、
僕は奥へ進んだ。実際、採取そのものはうまくいった。薬草をいくつか。小さな魔石を二つ。どれもたいした量ではない。でも売れば、学費の何分の一かにはなるはずだった。こんなふうに、少しずつ。少しずつ、続けていけば。僕は、その計算をしながら、また一歩奥へ進んだ。その一歩がまずかった、と後で思う。欲を出したつもりはなかった。ただ、あともう少しだけ、という気持ちが。いつのまにか、僕をいつもより深くへ運んでいた。
どれくらい進んだか。背後で戸の軋む音がした。
あの聞き慣れた音。僕は身体を固くした。振り返る。光がいくつか。灯りの魔法だ。僕の乏しい灯りとは違う遠慮のない明るさ。郷田と取り巻きが三人。
「やっぱりここだったか」
郷田が笑っている。その笑い方に僕はこの一週間ずっと見張られていたのだと悟った。あの日、戸の前で沈黙したことが逆に答えになっていたのだ。掌の上に火。見せつけるための火ではない。今度は本物だった。大きさが違う。
「不適性がこっそり小遣い稼ぎか。いい度胸だ。……見逃してほしけりゃ、採ったもん全部置いてけよ」
僕は後ずさる。置いていけば、済むのだろうか。済まない、と直感が言う。この男は一度得た弱みを一度で使い切ったりしない。次も、その次も来る。僕が採ったものをずっと巻き上げ続ける。あるいは飽きたら教官に告げ口する。どちらにしても、僕は終わりだ。ここで揉めれば音がする。音がすれば教官が来る。来れば僕は退学だ。郷田もそれを分かって笑っている。自分は言い逃れができるが、僕にはできない。その非対称をこの男は正確に理解している。
だから僕は逃げるしかなかった。奥へ。浅いところから深いところへ。
背後で郷田が何か叫んだ。待てとか逃げるなとか。言葉はうまく聞き取れなかった。偏差領域の中では音も少し歪む。定数が狂えば音の伝わり方も狂う。だから坑の中で遠くの声はあてにならない。
僕はただ走った。
息が上がる。
走ればそれだけ魔力を食う。
分かっていても足を止められなかった。
息が喉で鳴る。足の裏が岩を蹴るたびに痺れる。背後の火の熱が遠のいたり近づいたりする。偏差のせいで距離の感覚が狂っているのだ。前へ。暗いほうへ。理性は浅いほうへ逃げろと言うのに、足は深いほうへ向かう。この坑は奥で道が枝分かれしている。どこへ続いているのか、僕は知らない。知らないまま、暗いほうへ暗いほうへと足が向いた。まるで何かに引かれるように。浅いほうへ逃げれば、郷田たちと鉢合わせる。だから深いほうへというのは、理屈としては正しい。でも、それだけではなかった気がする。いちばん深いところが見たいとあの熱が言う。こんなときに。こんなときにまでその声は消えてくれない。命が危ないというのに。この熱はいつも僕の理性より少しだけ先に行く。
走る。
背中で火が膨らむのが分かった。振り返らなくても熱で分かる。偏差領域の中で火属性を撃つのは正気じゃない。狂った定数の中では、炎は思ったとおりに広がらない。膨らむべきときに縮み、縮むべきときに爆ぜる。だから学校でも、坑内での属性の使用は厳しく制限されている。郷田はそれを忘れたのか。あるいは頭に血が上ってどうでもよくなったのか。郷田の火は坑の壁を舐め天井の古い岩を焼いた。鈍い音がして背後で何かが崩れる。
最初は小さな音だった。石がいくつか落ちる音。
その音が坑の壁に幾重にも反響する。狂った定数のせいで反響の仕方までどこか歪んでいた。近くの音が遠く聞こえ遠い音が耳のすぐそばで爆ぜる。その音がすぐに地鳴りのような音に変わった。振り返る余裕はなかった。僕はただ深いほうへ走った。背中に土埃の風がどっと吹きつけた。
崩落が僕と郷田たちのあいだを断ち切っていた。誰かの遠い悲鳴。それきり光は後ろから消えた。しばらくして音が収まった。僕は荒い息のまま振り返る。崩れた岩が道を完全に塞いでいた。振り返っても、もう戻れない。岩は大きい。僕の力ではどうにもならない。郷田たちの光は、崩落の向こう側だ。彼らは無事だろうか。分からない。分かったところで、今の僕にはどうにもならない。たぶん郷田たちは逃げたのだろう。浅いほうへ。戸の外へ。崩落を起こしてしまった以上、彼らも露見を恐れるはずだ。誰にも言えない。僕のことも言えない。言えば自分の火が原因だと認めることになるからだ。残されたのは僕だけだった。深いほうに一人。
息を整えて僕は気づく。走りすぎた。ここはいつもの練習の深さをとうに越えている。どこまで来たのか自分でも分からない。偏差が濃い。空気の重さがまるで違う。立っているだけで身体を包む魔力が音を立てて抜けていくのが分かる。実際には音などしない。でもそう感じるほど速い。掌の陣で必死に抜けを緩める。いつもより丁寧に。いつもより精密に。それでも追いつかない。逃げるために、走るために、魔力を使いすぎた。残りが少ない。僕はその場に立ち尽くして頭の中で計算をした。
現在の残量。
この深さの削れ方。
外までのおおよその距離。
答えはすぐに出た。
帰るには深すぎる。
崩落で来た道は塞がれている。別の道を探すには魔力が要る。その魔力がない。計算が頭の中で冷たく答えを出す。
——足りない。
どう組んでもどう節約しても外までは届かない。僕はもう一度計算をやり直した。三度やり直した。答えは変わらなかった。数字は優しくない。
指の先がしびれてきた。痛みではない。感覚が薄くなっていく。指先を擦り合わせてみる。触れているという感覚が遠い。自分の指が自分のものではないみたいだ。桐山先生の言葉が耳の奥で蘇る。自分の身体が薪みたいに減っていくのが分かるんだ、と。指の先から自分が無くなっていくと。ああ、これかと思う。これがそれか。魔力の余りが尽きて、狂いを打ち消すものがなくなって、命そのものが燃やされ始める。生物は死なない、と教科書は言う。魔力がある限りは。裏を返せば、魔力が尽きれば生物はあっけなく死ぬ。僕の魔力はもうほとんどない。
膝が床につく。立っていられなかった。あの夜の砂浜みたいに冷たい床だった。暗闇の中で僕はぼんやりと思う。結局いちばん深いところは見られなかったなと。あの熱はこんなところで消えるのか。届かない光のその足元にも辿り着けないまま。学校の裏の名前もない古い坑で。誰にも知られずに。母はどう思うだろう。やっぱりと思うだろうか。父の夜勤は無駄になる。汐里は泣くだろうか。考えると少しだけ申し訳なかった。でも後悔は不思議となかった。視界の端で薄れていく光がちりちりと散る。僕の灯した乏しい灯りが消えかけているのだ。その光にも色はない。僕が組んだ間に合わせの陣が最後の魔力を少しずつ手放している。無色の熱の揺らぎが、粒になって、暗闇にほどけていく。その散っていく光の粒が。まるであの星みたいに。
——ああ。こんなときに。
こんなときに、僕はまだあれを綺麗だと思っている。どうしようもないと思った。この熱は最後の最後まで、僕をこういうふうにしかさせてくれない。右手がひとりでに動いた。考えたわけではない。助かろうと思ったわけでもない。ただ、動いた。残りかすのような魔力を指先が集めていく。放つためじゃない。焼くためでも射抜くためでもない。ただ集める。最後に一つだけ。いつもの恥ずかしい間に合わせの——




