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第四話 安い方の道


その週末、家の食卓には封の切られた封筒が置いてあった。学校からの学費の通知だ。白い封筒に学校の名前が印刷されている。中身は見なくても分かる。母はそれを片付けもせずかといって話題にもしない。ただそこにある。醤油差しのすぐ隣に。置いてあることが言葉より重い。もし母がこれを片付けていたら。僕はたぶん気づかないふりができた。でも置かれている以上気づかないふりはできない。母はたぶんそれを分かっている。


父は今日も夜勤明けで昼過ぎまで寝ていた。昼を過ぎてようやく襖が開いた。起きてきた父の顔は僕が覚えているより痩せていた。目の下の落ち窪みが影のように見える。うちは都市の外れの外れにある。あの雑踏からは電車を乗り継いでずいぶん遠い。古い集合住宅の二階。壁は薄く隣の物音がそのまま伝わってくる。台所と居間と狭い和室が二つ。その狭さの中に四人が暮らしている。台所の小さな窓から夕方の光が斜めに差し込む。母の背中の向こうで鍋が静かに湯気を立てている。その湯気の匂いを、僕は寮の六畳一間の天井を見ながら時々思い出す。温かい匂いだ。温かいのに、その温かさの真ん中に、いつも母の飲み込んだ言葉の冷たい芯が一つ埋まっている。あの都市の途方もない人の群れの、いちばん端の、いちばん目立たない一粒が、僕の家だった。工場の夜勤は身体を確実に削る。それでも父は僕の顔を見ると少しだけ笑った。


「無理はしてないか」


父は僕にそう聞く。僕のことを聞いているのに無理をしているのは明らかに父のほうだった。してないと僕は答える。嘘だった。握り飯一つの昼が続いていることも。実習でいつも一人になることも。言わない。でも本当のことを言えば父はもっと働く。それだけだ。父はそうかとだけ言って茶碗に手を伸ばした。その手の甲に細かい傷がいくつもあった。




夕方母と二人になったとき母がぽつりと言った。


「灯真。……普通科ってどうなの」


顔はこちらを見ていない。流しで皿を洗っている。水の音が言葉の隙間を埋めていく。


「あなたが決めたことに口を出す気はないの。ただ……普通科なら学費はずっと安いって聞いて。それに」


母はそこで少し言葉を切った。皿を洗う手も一瞬止まった。


「それにあなたが迷宮に潜らなくて済むなら。私はそのほうが」


その先は言わなかった。言わなくても、分かる。母は僕に潜ってほしくない。覚醒のことも、お金のことも、全部が同じ方向を指している。この人の中ではその二つはたぶん繋がっている。お金がかかるというのは、母にとっては口実に近いのかもしれない。本当はただこわいのだ。息子があの狂った場所へ行くことが。僕が諦めればこの家はずっと楽になる。母は少しだけほっとする。父は夜勤を減らせる。全部が丸く収まる。


僕があの熱を手放しさえすれば。


僕は、うん考えてみる、とだけ言った。

考える気なんてないくせに。その返事をした瞬間母の背中がほんの少しだけ緩んだのが分かった。期待させてしまったと思う。考えてみるというのは、この場を収めるための言葉だった。僕はこの家でいちばん、嘘をつくのが上手になっている。母の背中は小さかった。昔はもっと大きかった気がする。いつのまにこんなに小さくなったのだろう。流しに向かって皿を洗うその背中を僕はしばらく見ていた。肩甲骨の形が薄い服の上からうっすらと浮いている。この背中に僕は名前のない渇きの重さをそっくり載せている。この人は僕を恐れているわけではない。迷宮を恐れているのだ。僕があそこで僕でなくなることを。あるいはあそこで帰ってこなくなることを。その恐れは正しい。


現に僕は母の知らないところであの癖に

——収束で陣を組むやり方にのめり込んでいる。


みっともないと笑われるあのやり方に。母が恐れたような大それたことではないのかもしれない。掌に線と円を描いているだけだ。誰も傷つけないし何も壊さない。でも僕が人には言えない何かを抱え込みつつあるのは確かだった。母がもしあれを見たら。やっぱりと言うだろうか。それとも何も言わずにまた背中を向けるだろうか。自分がひどく身勝手なもののように思えて、味噌汁が少ししょっぱかった。




風呂上がりに汐里が僕の部屋を覗きにきた。髪をタオルで拭きながら勝手に僕の机の椅子に座る。


「お兄ちゃん、迷宮ってさ、どんなとこ?」


無邪気にそう聞く。母の恐れをこの子は何も知らない。あの夜、母が僕に言ったこともたぶん知らない。暗いよ、と僕は答える。


「暗くて、静かで、法則が壊れてる。長くいると魔力が減って、減りきると死ぬ」


「こわ。……でも、ちょっといいな」


汐里は笑った。こわいと言いながら目が少しだけ輝いている。この子はたぶん、そういう子だ。


「お兄ちゃんが見てるものって、私には見えないんでしょ。ずるいなあ」


その一言がなぜか胸に刺さった。ずるいか。そうかもしれない。僕だけがあの熱を持っている。誰にも分けられず誰にも見せられない熱を。この子は僕が何かを見ていることをたぶんなんとなく感じ取っている。感じ取っていて、それが自分には見えないことを素直に羨ましがっている。その素直さがまぶしくて少しだけ痛かった。いつかこの子にあの深いところの景色を見せてやれる日が来るだろうか。見せてやれたらどんなにいいだろう。来ない、とどこかで冷たい声がする。量の足りない不適性がいちばん深いところ。笑うところだ。汐里はしばらく僕の部屋で喋ってそれからおやすみと言って出ていった。その足音が廊下の奥へ消えていく。僕はしばらく閉まった扉を見ていた。





寮に戻って僕は数字と向き合っていた。律の記録ではない。自分の口座の残高だ。入学のときに両親が作ってくれた口座。入っているのは小遣いと去年の夏に短期でやった手伝いの分だけ。どう計算しても次の学費には足りない。足りないというより桁が違う。この差を埋める方法を僕はずっと考えていた。普通科に移れば解決する。解決して僕はあの熱を捨てる。それだけはどうしてもできなかった。できない理由をうまく説明できないのがいちばんつらい。得も意味もない。ただ見たいだけだ。その「だけ」のために家族に無理をさせている。もしこの熱に名前がついていたら。夢とか目標とかそういう立派な名前が。それならまだ家族に説明ができた。こういう夢があってそのために頑張っているのだと。立派な夢のためなら親は無理をしてくれるものだ。現にこの学校にはそういう子がたくさんいる。特級を目指す子。家業を継ぐために級を取りに来た子。みんな自分の道を言葉で説明できる。


でも僕のこれはそうじゃない。

ただ見たい。

それだけの名前のない衝動だ。


立派でもなんでもない。説明のしようがないものに僕は家族の生活を天秤にかけている。最低だと思う。思っても手放せない。手放せないから最低なのだ。僕はしばらく天井の染みを見ていた。あの雨漏りの跡は今日も同じ形をしている。方法は一つだけ思いついていた。思いついたのは実はずっと前だ。ずっと前に思いついてずっと見ないふりをしていた。


敷地の裏のあの古い戸。管理されていないあの坑。浅いところにも売れる素材はある。薬草の質のいいもの。小さな魔石。学校の実習で採れるものとは質が違う。実習用の坑は生徒が採りやすいように浅いところで整備されている。でもあの古い戸の先は整備されていない。整備されていないということは手つかずだということでもある。生徒が校外の実迷宮に入るには級が要る。級を取るには実地の成績が要る。僕にはどちらもない。でもあの戸の先なら誰の許可も要らない。見つかれば退学だ。学校の管理外の坑に無許可で入った。それだけで十分な理由になる。分かっている。分かっていて、僕はもう行くことを考えている。浅いところで、少しだけ。誰にも迷惑をかけずに、少しだけ。自分にそう言い聞かせながら、僕はあの熱が静かに頷くのを感じていた。その頷きが金のためなのか、それとも別のもののためなのか。僕にはもう区別がつかなかった。いちばん深いところが見たい、とそれは言う。まだそこには届かないのに。



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