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第三話 隠し戸


座学の時間は、僕の、数少ない息のできる場所だ。


ここでは誰も僕を憐れまない。


紙とペンの前では、権能の相性も、魔力の量も、関係がないからだ。

紙の上の世界には燃費も査定もない。あるのは式と答えだけだ。式は、量の多い者にも、少ない者にも、同じ顔を向けてくれる。だから僕は座学の時間だけ息ができた。教室の乾いた電卓の音の中で、僕は初めて他の誰とも対等になれる。その対等さが、皮肉にもいちばん僕を慰めた。


その日の課題は魔力経済の演習だった。

与えられた偏差の坑を与えられた保有量でどこまで安全に往復できるか。削れ方の式に数字を入れて、帰りの分を残して限界の深度を出す。探索者にとって、これがいちばん基本の計算だ。この計算を間違えれば人は死ぬ。だから学校は一年生のうちから何度もこれをやらせる。


みんな電卓を叩いている。教室に乾いた打鍵の音が満ちる。僕は途中で手が止まった。配られた式が少し粗いのだ。浅いところでは合う。実際浅い坑の記録と照らせばこの式はよく合う。でも深くなると、実際の削れ方からわずかにずれていく。僕は以前からそれに気づいていた。訓練坑のいちばん奥まで行ったときの自分の消耗とこの式が出す予測が微妙に違う。違いはごくわずかだ。誰も気にしないくらい、わずかな。でも確かにずれている。そのずれを補正して解くと教科書の想定よりほんの少しだけ深くまで行ける。

僕はそう書いて出した。補正の理屈も余白に書き添えて。


返ってきた答案には赤で三角がついていた。


「深澤、勝手に式をいじるな。習ったとおりに解け」


教官はそう言って次へ行った。目も合わせなかった。合っているとは思う。でも、合っていると証明するには深いところの本物のデータが要る。そんなもの僕は持っていない。この学校の誰も持っていない。深いところで自分の消耗を測ってきた者だけがそれを持てる。だから僕の答えはただの落書きになる。誰かがふっと笑ったのが聞こえた。不適性が賢しらに式をいじったと。それでいい。言葉にできないものは成績にならない。


もう慣れた。慣れたと思うたびに少しだけ胸の奥が冷える。慣れるというのは諦めることとどこが違うのだろう。考えかけて僕はやめた。考えても答えの出ないことが僕の周りには多すぎる。




放課後、僕は敷地の奥へ行く。訓練坑の並ぶその裏手だ。部活に向かう生徒の声が遠ざかっていく。この学校にも一応部活はある。この学校はあの桁外れの都市から電車で一時間半のところにある。都会のほうはいつ行っても人で溢れている。途方もない数の人間が、途方もない速さで行き交っている。その中にはたぶん僕には想像もつかないような人間も混じっている。特級の探索者も名前も知らない誰かもみんなあの雑踏の中に紛れている。学校はその喧騒からわざと切り離すように山際に建てられている。全寮制で平日は外とほとんど繋がっていない。武装した市民を育てる場所だからだ。都市の賑わいはここには届かない。届くのは、電車の窓越しに遠ざかっていく灯りだけだ。実戦形式の模擬戦だとか、資源鑑定の研究会だとか。僕はどこにも入っていない。入れてもらえなかったというのが正確なところだ。


僕には一人になれる場所が要る。この収束で陣を組む癖を人目を気にせず磨ける場所が。みっともないやり方だと笑われながら練習するのはもううんざりだった。寮の部屋では狭すぎるし坑の入口はどこも管理されている。半年前、偶然に見つけた場所があった。あの日も僕は一人で敷地の隅を歩いていた。行き場がなくて、ただ、歩いていただけだ。訓練坑の裏、古い擁壁の陰。蔦に覆われた、忘れられたような窪みの奥に鉄の戸がある。


最初はただの配管の点検口かと思った。錆びついて鍵も壊れている。押すと軋みながら開く。その音が思いのほか大きくて僕はしばらく身を固くした。戸の表面はざらついていて触れると赤茶けた錆が指の腹に粉になって残る。蝶番は雨と時間で半分崩れかけている。押すたびに金属が金属を擦る鈍い悲鳴を上げる。その音を僕はいつのまにか体温のように覚えてしまった。誰も来なかった。


その先は坑だった。


管理されていない古い入口だ。引率つきの訓練坑とどうやら根元で繋がっている。実際少し歩くと見覚えのある道に出た。こんな戸が残っているのはたぶん造ったときの名残だ。学校が拡張されるうちに使われなくなり忘れられた。書類の上ではたぶんもう存在していない。浅いところにいる限り危険はない。偏差も小さいし、魔物も出ない。僕はここで一人陣を組む練習をしている。掌の上で指の先で。何度も何度も。同じ陣を百回でも二百回でも組む。線を引く速さを少しでも上げる。円の歪みを少しでも減らす。内側の輪を少しでも正確に。その地味な繰り返しだけが僕にできる唯一の練習だった。うまく組めた日は魔力の抜け方が少しだけ緩くなる。なぜかは分からない。精密に組むほど効きが良くなるというのは感覚では分かる。でもなぜ効きが良くなるのかは分からない。教本にも書いていない。誰もこんな使い方をしないからだ。分からないまま、僕はこの癖を磨いている。誰にも見せず、誰にも言わず。母の声が時々蘇る。覚醒したあとの自分がまだちゃんと自分なのかと。僕は変わっているのだろうか。鏡を見ても分からない。顔は同じだ。声も同じだ。記憶もたぶん繋がっている。でも、母が言ったのはそういうことではなかった気がする。もっと内側の目に見えないところの話だ。目に見えないなら確かめようがない。確かめようがないものをどうやってこわがらずにいればいいのだろう。ただあの熱だけは変わらずにそこにある。六つの夜海辺で灼けたあの熱。それが、僕が僕であるたった一つの証のような気がした。




戸を閉めて振り返ったときそこに人がいた。心臓が一つ大きく鳴った。郷田だった。同学年でいちばん分かりやすく強い男だ。火属性。出力が高く査定はいつも上位で取り巻きも多い。どうして、こんなところに。考えるより先に、僕は戸の前から一歩離れていた。離れたことで、かえって、そこに何かがあると教えてしまった気がした。


「なあ、そこ何があるんだ」


郷田は僕の背後の戸を顎でしゃくる。僕は何もと答える。声が少しだけ掠れた。


「不適性が放課後にこそこそ何してんのかと思ってな」


郷田が近づく。掌の上に小さな火が生まれた。見せつけるための火だ。熱が頬に届く。この男はいつもこうだ。言葉より先に力を見せる。


「お前さ、まだダイバー科にいる意味あんの?金の無駄だろ。親泣いてんじゃねえの」


図星はなぜかいちばん的確なところに刺さる。郷田はそれを知っていて言っている。この男が賢いのか、それともこういうことにだけ勘が働くのか。たぶん後者だ。僕は黙っている。黙っているのがいちばん早く終わる。言い返せば火に油を注ぐ。泣けばもっと喜ばせる。黙って時間が過ぎるのを待つ。この二年で僕が身につけた唯一の処世術だった。


「なあ、答えろよ。その戸の先、何があるんだ」


郷田がもう一歩近づく。掌の火が少し大きくなった。偏差領域でもないここではそれはただの脅しだ。外で属性を使うのは、本当は校則違反でもある。でも、脅しでも火は熱い。頬の皮膚がひりつく。


「言えねえのか。……ってことはやっぱ何かあるんだな」


僕は答えない。答えればこの場所を失う。僕の、たった一つの、一人になれる場所を。あの戸の向こうでしか、僕は練習ができない。あそこを取り上げられたら僕は本当にどこにも行けなくなる。


郷田は僕の沈黙をしばらく面白そうに眺めていた。こういう男は相手が困る顔を何より好む。殴るよりそのほうが彼には楽しいのだ。僕が何も言わないと分かると彼はつまらなそうに鼻を鳴らした。


「まあいいや。その戸、俺も気になるし」

郷田は火を消して笑った。その笑い方が嫌だった。悪意そのものよりもこちらの大事なものを見つけたという顔だった。いつでも壊せるものを見つけたという顔だ。




彼が去ったあと僕はしばらく戸の前から動けなかった。夕方の風が蔦を鳴らしている。この場所を知られた。僕のたった一つの一人になれる場所を。いつかあの男はここへ来るだろう。取り巻きを連れて面白半分に。そのとき僕はどうすればいいのか。考えても答えは出なかった。胸の裏の熱はこんなときでも消えない。いちばん深いところが見たいとそれは言う。場違いなその声が今日はやけに遠く聞こえた。



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