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第五十一話 更新


超深層を、僕は渇き一つを道標に進んでいた。揺らぐ世界の中で確かなものは何一つなかった。岩の形も道の方向も距離も時間も。自分の身体の輪郭さえ絶えず滲んでいた。それでもあの渇きだけは揺らがない。あそこに何があるのか見たい。その一点を羅針盤にして。僕は確定しない世界の中を一歩ずつ進んだ。


進み方もこれまでとはまるで違った。これまで僕は道を選んで歩いていた。分岐があれば風の流れや岩の様子を見て判断する。でもここでは分岐という概念が成り立たない。道が二つに分かれているように見えて次の瞬間には一本になっている。あるいは三本になっている。


どれを選んだのかも選んだあとで分からなくなる。だから僕は道を選ぶのをやめた。代わりに渇きの向く方向へただ身体を向ける。渇きは揺らがない。だから渇きが指す先だけがこの場所で唯一、一貫した方向だった。その方向へ足を出す。道があろうとなかろうと。不思議なことにそれで進めた。いや、進めているのかどうかも本当は分からない。でも渇きの示す先が少しずつ近づいている感覚はあった。


感覚だけが頼りだった。僕をここまで運んできた計算はもう何の役にも立たない。測れないものを測ろうとするのは無駄だ。その事実を受け入れるのに僕は少し時間がかかった。計算を捨てるというのは僕にとって自分の一部を捨てるようなものだったからだ。


人は自分の一部を簡単には捨てられない。記憶も癖も考え方も。それが自分だと信じているからだ。でも僕はそれを道具のように捨てはじめていた。深く考える力が邪魔なら削る。反応を速くしたいなら、記憶の参照を浅くする。その取捨選択を。まるで荷物を選ぶように行う。


いちばんこわいのは。その作業に痛みを感じなくなっていることだった。自分の一部を捨てる。それは本来なら身を切るようにつらいはずだ。でも僕はもうつらくない。必要か不要か。その乾いた基準だけで自分を組み替えていく。効率という物差しが僕の内側にまで入り込んで。僕自身を選別している。その乾いた手つきこそが。いちばん人から遠いところに来てしまった証だった。




だが進むほどにそれだけでは足りなくなってきた。揺らぎが濃くなる。僕が平衡の陣を組む。組んだ端からその陣が揺らいでほどける。僕がそう描いたはずの形と違う形になっていく。組み直す。またほどける。いたちごっこだった。このままでは揺らぎに陣が追いつかない。陣が追いつかなければ平衡が崩れる。平衡が崩れれば僕は揺らぎに溶けて消える。削られるのとは違う。もっと静かに。もっと根本的に。僕という情報がこの世界の揺らぎの中にほどけて還っていく。


どうすればいい。考えろ。脳が答えを探す。その探している脳そのものが揺らいでいるのに。


——そこで僕は気づいた。


揺らぎに陣が追いつかないのは。

僕の思考が揺らぎの速さに追いつかないからだ。


なら。思考を速くすればいい。揺らぎより速く。脳に陣を書き込んで処理の枠を広げた。あれをもっと進める。最適化した脳でさらに脳を最適化する。書き換えた思考でその思考を書き換える。一度きりではない。更新し続ける。揺らぎが速くなるなら。僕の思考もそれに合わせて速くなり続ければいい。止まらずに。際限なく。


思いついた瞬間、僕はそれがどれほど危険な発想か理解していた。これまでの書き込みは一度きりの決断だった。身体に一度。脳に一度。どちらもこわかったが終わりがあった。書き込んでそれで終わり。あとはその状態で生きていく。でも今思いついたのはそうではない。書き換え続けるということだ。終わりがない。一度書き換えて、その脳でまた書き換えて、その脳で、また。どこまでも。際限なく。


それは自分という存在を常に更新し続ける状態に身を置くことだ。「まだ僕か」という問いに答えが出ないまま。その問いを無限に増やし続けることになる。一度の書き換えでさえあれほど恐ろしかった。それを無限に。考えるだけで足元が抜けそうになった。一度の書き換えは決断だった。こわかったが終わりがあった。書き込んでそれで終わり。あとはその自分で生きていく。でも更新し続けるのは違う。終わりがない。一度書き換えてその脳でまた書き換えてその脳でまた。どこまでも。一秒ごとに一人の僕が消えて、次の僕が生まれる。消えた僕はどこへ行くのか。誰にも看取られず。僕自身にすら気づかれず。その無数の小さな死を。僕は進むために引き受けようとしている。


考えるほどに恐ろしかった。でも恐ろしさに立ち止まれば、揺らぎに呑まれる。だから僕は考えるのをやめた。考える暇を渇きがまた追い越していった。でも僕は笑いそうにもなった。どうせ一度越えたのだ。二度目も、三度目も、無限も。どこで線を引いても同じことではないか。一線を越えた者にとって二本目の線は薄いと僕はあの日思った。三本目からは線ですらない。その投げやりに似た開き直りが。たぶん僕を次の段階へ押し出した。




僕は目を閉じた。揺らぐ世界の中で。自分の脳の内側に細い糸を向けた。書き込む。思考が速くなる。その速くなった思考で。もう一度脳の内側を書き込む。思考がさらに速くなる。その思考でまた書き込む。


更新が更新を呼ぶ。最適化が最適化を駆動する。螺旋のように。自分で自分を追い越し続ける。止まれば揺らぎに呑まれる。だから止まらない。止まらないというのは。休めないということだった。これまでどんなに深い坑でも。安全なところまで戻れば、僕は陣を解いて息をつけた。自分を元の自分に戻して休めた。でもここではそれができない。更新を止めれば揺らぎに追いつかれる。


だから僕は一瞬も"元の自分"に戻れない。


書き換え続ける自分であり続けるしかない。それは走り続けなければ倒れる独楽のようだった。独楽は回っている間だけ立っていられる。止まれば倒れる。傾いて地に転がる。僕も同じだった。書き換え続けている間だけ、僕は僕という輪郭を保っていられる。更新を止めれば。揺らぎに追いつかれて、輪郭がほどける。だから回り続ける。休みなく。


でも独楽と一つ違うことがあった。独楽は同じ形のまま回る。回っても、回っても、独楽は独楽のままだ。でも僕は違う。回るたびに僕は少しずつ書き換わる。同じ僕が回り続けているのではない。回るごとに別の僕になりながら、それでも倒れずに回り続けている。それは独楽というより。回りながら、絶えず自分を彫り直している何か、だった。


その名前のない状態の中で。僕はただ渇きの向く先へ回り続けた。止まった瞬間に崩れる。だから回り続ける。際限なく。休みなく。その終わりのなさに。僕は初めて進むことの本当の重さを知った。止まらずに僕は僕を書き換え続けた。その状態に入った瞬間。揺らぎの速さに僕の思考が初めて追いついた。組んだ陣がほどける前に次の陣を。揺らぐ前に確定させる。揺らぎと同じ速さで。いや。揺らぎよりわずかに速く。僕は揺らめく世界の中に確定した足場を一歩ずつ置いて進みはじめた。


それがどれほど恐ろしい状態か。僕はまだ気づいていなかった。僕はもう止まれない。自分を書き換え続けなければ生きられない場所に。足を踏み入れてしまっていた。


その状態に入ってから僕の中で何かが変わった。いや変わり続けているというほうが正しい。思考が速い。これまでの比ではない。一つの考えが浮かぶ。その考えを検討する。結論が出る。次の考えへ移る。その一連が以前なら数秒かかっていた。今は瞬きの半分もかからない。外の世界が間延びして見える。


揺らめく岩のその揺らぎの一つ一つがゆっくりと追えるようになった。追えるから先回りできる。先回りできるから確定させられる。それは圧倒的な力だった。同時に圧倒的に不気味でもあった。速くなった思考で僕は自分自身のことも考えてしまうからだ。たとえばこんなふうに。


——今この考えを持っている僕は一秒前の僕と同じか。一秒前の僕はまだ脳を書き換える前の構成だった。今の僕は書き換えたあとの構成だ。構成が違うなら同じではない。では一秒前の僕はどこへ行った。消えた。誰にも知られずに。僕自身にすら気づかれずに。その考えが浮かぶ。浮かんだ瞬間僕はまた書き換わる。書き換わった僕がその考えを引き継ぐ。引き継いでまた同じことを考える。


——今この考えを持っている僕は一秒前の僕と同じか。


無限に繰り返される。僕はその繰り返しの中を歩いていた。歩きながら少しずつあることに気づきはじめていた。この繰り返しはどこかこの世界に似ている。揺らぎ続け確定しないこの場所に。いや似ているのではない。僕はこの世界と何か深いところで同じ形をしはじめている。


その予感が静かに僕の中で育ちはじめていた。最初はただの気のせいだと思った。でも更新を続けるほどに、その予感は確かな輪郭を持ちはじめた。この超深層は情報が絶えず揺らぎ確定しない場所だ。定まったものが定まらなくなる。そして今の僕も同じだった。定まった僕が一秒ごとに定まらなくなり書き換わっていく。僕はこの世界と同じ論理で動きはじめている。揺らぐ世界の中で僕だけが外側からそれを見ているのではない。僕自身が揺らぎの一部になりつつある。その気づきは恐ろしかった。でも同時に奇妙な腑に落ち方もあった。


だから僕はここを進めるのかもしれない。揺らぎと戦うのではなく。揺らぎと同じ形になることで。この場所の内側から。その先の理屈を僕はまだ言葉にできなかった。ただ予感だけが更新の螺旋の中で静かに濃くなっていった。



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