↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
50/71

第五十話 超深層


一歩踏み出した。深層と超深層の境目を越えて。

その一歩を僕ははっきりと覚えている。覚えているというより、忘れられない。境目には線が引かれているわけではない。看板も標識も何もない。ただそこから先の空気が明らかに違っていた。


境目の手前に立って僕はしばらくその先を見ていた。揺らめいている。何がとは言えない。


空間そのものが水面のように揺れている。


あそこへ入れば僕の輪郭もあんなふうに揺れるのだろう。冷たいものが背筋を伝った。こわいと初めて素直に思った。禁忌を越えたときですら僕はこわいと思う前に手を動かしていた。でも今は違う。しっかりとこわい。その恐怖を僕はしばらく味わった。


味わってそれから足を前に出した。恐怖が消えたからではない。恐怖はそのままそこにあった。ただ渇きがその恐怖よりほんの少しだけ大きかった。それだけの差だった。たぶんその差が人と人を分けるのだ。恐怖がなかったわけではない。むしろはっきりとあった。禁忌を越えたときですら、僕はこわいと思う前に手を動かしていた。でもこの境目の前ではしっかりとこわかった。その恐怖を僕は消そうとはしなかった。消えないものを消そうとしても無駄だ。ただその恐怖の隣に。


あの渇きを置いた。


あそこに何があるのか見たい。その渇きが恐怖よりほんの少しだけ重かった。天秤がわずかに渇きのほうへ傾いた。そのわずかな傾きが僕の足を前へ出させた。たぶんここで足を止める者と踏み出す者を分けるのは。力の量でも勇気の大きさでもないのだ。ただ恐怖と渇きのどちらがほんの少しだけ重いか。その紙一重の差だけが。境目のこちら側と向こう側を分けている。その瞬間、世界が変わった。いや"変わった"という言葉すら正しくない。変わるというのは変わる前と変わった後があるということだ。でもここにはその確かな"前後"がなかった。


超深層は確定していない世界だった。


目の前の光景が絶えず揺らいでいた。岩がそこにある。そう思った次の瞬間その岩は少し違う形になっている。いや最初からその形だったのかもしれない。どちらが本当なのか決まらない。記憶を頼りにしようとして無駄だと気づいた。僕の記憶の中でもその岩は揺らいでいる。さっき見た形を思い出そうとすると複数の形が同時に浮かぶ。どれがさっき見たものなのか。決まらない。揺らぎは目の前だけでなく記憶の中にまで及んでいた。距離も方向も確定しない。僕が一歩進む。その一歩が一メートルだったのか十メートルだったのか。あるいは進んでいないのか。確かめる基準そのものが揺らいでいるから。何一つ確定できない。歩くという行為すら成立しているのか怪しかった。足を前に出す。その足が地面を踏む。でもその地面がさっきと同じ地面なのか。僕が前へ進んだのかそれとも世界のほうが僕の周りで入れ替わったのか。区別がつかない。


これが、情報が揺らぐということだった。


世界を成り立たせる根源の情報が。ここではまだ定まりきっていない。確定するその手前で。あらゆる可能性が重なり合ったまま揺らめいている。座学でこんな話を聞いた覚えがあった。偏差領域の理論のいちばん端のほう。まだ仮説の域を出ないと前置きされた話だ。


——迷宮の深部では、物理定数が狂うのではなくそもそも定まっていないのではないか。


当時その仮説を聞いたとき僕は意味が分からなかった。定数が定まっていない。それがどういう状態なのか。狂っているならまだ分かる。あるべき正しい値からずれているということだ。でも定まっていないとは。正しい値そのものが決まっていないということだ。どちらにずれているかも言えない。基準がないのだから。


講義ではまだ仮説の域を出ないと前置きされていた。誰も確かめた者がいなかったからだ。確かめるにはそこへ行くしかない。そしてそこへ行った者は誰も帰ってこなかった。だから仮説のまま放置されていた。今僕はその仮説のまっただ中に立っている。定まっていないという言葉の意味を。理解ではなく体験として味わっている。ここでは何かがそうであるということが成り立たない。そうであるかもしれないが無数に重なっているだけだ。


その重なりの中で。僕はたった一つ揺らがないものを探していた。当時は意味が分からなかった。定数が定まっていないというのがどういう状態なのか。想像もつかなかった。今なら分かる。いや分かるというのは正しくない。体験しているというだけだ。理解はまだしていない。ここでは何かが「そうである」ということが成り立たない。「そうであるかもしれない」が無数に重なっているだけだ。だから何一つ確定できない。


そしてその揺らぎは。僕の内側にも及んできた。自分が今何を考えているのか。その思考すら揺らぎはじめる。


僕はあの底を見たい——そう思う。

その次の瞬間いや僕は家に帰りたいのだ——という思いが重なる。


どちらが本当の僕の思いなのか。決まらない。最初は迷いだと思った。人は迷うものだ。行きたいと思いながら帰りたいとも思う。そんなことは珍しくない。でもこれは迷いとは違った。迷いなら二つの思いは僕の中に並んで存在する。僕がその二つを抱えている。でもここでは違う。


どちらが僕の思いなのかが確定しない。抱えている僕のほうが定まっていないのだ。思っている主体が揺らいでいる。だからどちらの思いも僕のものであり僕のものでない。揺らぎが僕の自己の輪郭だけでなく。僕の意思そのものを溶かしにくる。


これが第四の壁だった。


削られるのでも。押し潰されるのでもない。僕が僕であることそのものが。この揺らぎの中で確定できなくなる。あの身体と脳を書き換えたときのあの問い。「まだ僕か」。その問いがここでは答えを出せないまま。僕という存在を内側から揺さぶり、ほどいていく。


このままでは僕は。削られて死ぬのではなく。削られて死ぬならまだ分かる。僕という塊が小さくなってやがて尽きる。尽きるその瞬間まで僕は僕だ。でも溶けるのは違う。僕と僕でないものの境がなくなる。どこまでが僕でどこからが世界なのか分からなくなる。僕という区切りがなかったことになる。死は終わりだ。でも溶けるのは終わりですらない。終わる主体そのものが消えるのだから。僕がいたという事実さえ、揺らぎの中にほどけていく。石碑に名前が刻まれることもない。名前を刻むべき僕という区切りがそもそもなかったことになるのだから。それは僕がこれまで恐れてきたあらゆる恐怖のいちばん奥にあるものだった。死よりも僕でなくなることよりもさらに深い。いたという痕跡ごと世界に還ってしまうこと。"揺らぎに溶けて"いなくなる。書き換えた自分すらこの揺らぎの前では輪郭を保てない。


僕は必死にしがみつくものを探した。身体は揺らぐ。脳も揺らぐ。思考も、記憶も、意思も、揺らぐ。何を頼りにすれば僕は僕でいられるのか。名前を思い浮かべてみた。深澤灯真。その名前も揺らいだ。音の並びが意味を失っていく。名前は他人がつけた記号だ。記号は揺らぎに弱い。記憶を辿ってみた。母の顔。汐里の声。桐山先生の半分ない耳。どれも浮かぶ。


浮かぶが、それが僕の記憶なのか揺らぎが見せている像なのか。確信が持てない。記憶も結局情報だ。情報である以上ここでは揺らぐ。身体でも、脳でも、名前でも、記憶でもない。僕を僕たらしめるものが、何か他にあるのか。その絶望的な問いの底で。


ふと。

あの渇きだけが。

揺らいでいなかった。


あそこに何があるのか見たい。その一点だけは。どんなに揺らめく世界の中でも。どんなに思考が、意思が、溶けかけても。少しもぶれずにそこにあった。揺らぎから生じておきながら。揺らぎに呑まれないたった一つの確定した点。その事実に僕ははっとした。なぜ渇きだけが揺らがないのか。考えて一つの答えが浮かんだ。揺らぐのは情報だ。形あるもの、内容のあるものは揺らぐ。身体には形がある。脳にも形がある。記憶にも内容がある。名前にも音の並びという形がある。だから全部、揺らぐ。


でも渇きには形がない。


あそこへ行きたいというただの向き。向きには形がない。形あるものは揺らぐ。身体には形がある。脳にも形がある。記憶にも内容がある。名前にも音の並びという形がある。だからこの超深層ではその全部が揺らいで溶けていく。でも向きには形がない。あそこを見たいというただ一つの指し示す方向。それは大きさも輪郭も持たない。持たないから揺らがせようがない。揺らぎは形あるものをぶれさせる働きだからだ。形のないものには手が届かない。


だから渇きだけが無傷で残る。その理屈に気づいたとき。僕は皮肉なことを思った。僕を僕たらしめているものが、形を持たないなら。僕という存在は身体でも脳でも記憶でもなかったのだ。このたった一つの向き。それだけが僕の変わらない芯だった。書き換えても、書き換えても揺らがなかったのは。それが形を持たなかったからだ。母が恐れた問いへの答えの片鱗が。皮肉にもこのいちばん自分が溶けかける場所で見えはじめていた。


形がないものを揺らがせることはできない。揺らぎは形あるものをぶれさせる働きだからだ。だから渇きだけが無傷で残る。それは理屈として通っている気がした。通っていてそして奇妙だった。僕を僕たらしめているものが、形を持たないなら。僕という存在はいったい何なのだろう。これまで僕は、身体が、脳が、記憶が、僕を僕たらしめていると思っていた。


だからそれらを書き換えるたびに恐れた。まだ僕かと。でも違ったのかもしれない。身体も脳も記憶も。揺らぎの前では輪郭を保てない。揺らいで溶けていく。でもこの渇きだけは揺らがない。だとしたら。僕を僕たらしめているのは。身体でも脳でも記憶でもなかった。このあそこを見たいというたった一つの渇き。それだけが僕の変わらない芯だった。身体や脳をいくら書き換えても。この渇きが変わらないかぎり。僕は僕だった。その確信が。揺らめく世界の底で初めてはっきりと僕の中に灯った。


僕はその渇きにしがみついた。それだけを頼りに。揺らめく世界の中でかろうじて"僕"という輪郭を保った。そしてその渇きが指し示す方向へ。一歩また一歩と進みはじめた。揺らぎを渇き一つで越えていく。身体は揺らぐ。脳も揺らぐ。記憶も名前も意思も揺らぐ。その揺らぐものの全部を手放して。僕はたった一つ揺らがない渇きだけにしがみついた。あそこに何があるのか見たい。その一点だけを羅針盤にして。揺らめく世界の中で僕はかろうじて僕という輪郭を保った。保つというより。この渇きが僕という輪郭を内側から支えていた。形あるものが全部溶けても。この形のない向きだけが僕を僕として繋ぎ止める。それは心細い綱だった。でもこれまでのどの綱よりも切れなかった。なぜならそれは揺らぎからは触れられない場所にあったからだ。僕はその渇きを握りしめて。揺らめく超深層の暗がりのほうへ。一歩を踏み出した。その先にいよいよ。いちばん深いところがあの届かない星が。揺らめきながら瞬いていた。




どこか遠い高いところで。あの大きな手が。静かに動きはじめた気配があった。僕が超深層に確かに足を踏み入れたこと。揺らぎの中を進みはじめたこと。それがあの人に伝わったのだ。もう疑いようがなかった。あの人がずっと待っていた者。自分が届けなかった場所へ届く者。それが現れたことが。やがてあの人は僕の前に現れるだろう。名前と意図を携えて。でもそれはまだ少し先の話だった。今は。僕は超深層の揺らぎの中に立っている。誰もたどり着かなかった場所に。たった一人で。渇き一つを道標に。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。