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第四十九話 誰も見ぬ場所


深層と超深層の境目に僕は立っていた。振り返ると来た道が暗く続いていた。


ここに立つまでに季節が一つ変わっていた。


僕はこの世界の誰よりも深いところを歩いた。もっともそれを知る者は誰もいない。記録には残らない。深層のどこまで行ったかを正確に測る手段がそもそもないからだ。管理棟の記録に残るのは入坑時刻と退坑時刻と持ち帰った資源だけ。


だから公式には、僕はただの少し優秀な探索者にすぎない。それでいい。いやそれがいい。記録に残らないから僕は自由でいられる。もし僕の到達深度が正確に記録されていたら。宵星も鉄環も放っておかなかっただろう。あの遠い人ももっと早く動いていたかもしれない。記録されないことが僕を守っていた。


でも深層のどこまで行ったかを測る手段はそもそもない。管理棟の記録に残るのは入坑と退坑の時刻。そして持ち帰った資源の量だけ。だから公式には僕は少し優秀なだけの正規の探索者にすぎない。その記録されなさが。僕を盤上の駒に戻さずにいてくれた。誰にも測られない。誰にも正しくは知られない。二年間値のなさに苦しんだ僕が。今は正しく測られないことに守られている。そのあべこべを。僕は境目の暗がりで静かに噛みしめた。




あの加速する圧の一方通行の罠を。僕は越えてきた。書き換える前の僕なら確実に死んでいたあの領域を。身体に脳にじかに陣を書き込むことで。母がいちばん恐れた一線を二本も越えることで。僕はここまで来た。誰の助けもなく。誰にも見られず。完全に一人で。


思えばここまでの道のりは"自分をやめ続ける"道のりだったと僕は思う。覚醒したときも。収束の真形を掴んだときも。複数の陣を束ねたときも。そして身体と脳を書き換えたときも。そのたびに僕はそれまでの自分を越えてきた。越えるというのは。それまでの自分でいることをやめるということでもある。僕は成長したのではないのかもしれない。ただ何度も僕でなくなり続けて。その果てにここにいる。覚醒したときも。収束の真形を掴んだときも。多重を束ねたときも。身体と脳を書き換えたときも。そのたびに僕はそれまでの自分を越えてきた。


越えるというのはそれまでの自分でいることをやめるということでもある。だから僕は成長したのではないのかもしれない。ただ何度もそれまでの僕を脱ぎ捨てて。その脱ぎ捨ての果てにここにいる。自然な成長なら変わったことに気づかないまま変われる。気づかないから連続していると信じられる。子供が大人になるように。


でも僕は違った。書き換えた瞬間をはっきりと覚えている。覚えているから断絶が見えてしまう。知ってしまったことは知らなかったことにはできない。連続していると信じられない。その代償を僕はこれからずっと払い続けるのだろう。


力を得た代償を。

自分が連続した一人の自分だともう無邪気には信じられないという、代償を。


それが成長とどう違うのか。僕にはもううまく分からなかった。考えてみれば成長というのも似たようなものかもしれない。子供が大人になる。そのとき子供だった自分はどこへ行くのだろう。消えるのか。中に残っているのか。誰もその問いを真剣には問わない。問わなくても生きていけるからだ。でも僕は問わずにいられなかった。僕の場合は変化が速すぎた。自然な成長なら変わったことに気づかないまま変われる。気づかないから連続していると信じられる。知ってしまったことは知らなかったことにはできない。その代償を僕はこれからずっと払い続けるのだろう。





超深層は律ですら届かなかった領域だった。あの異常な魔力量を持っていた律。量で押し押し押しきって。効率を無意識にかすりながら。それでも深層のどこかで力尽きた。律はたぶんこの超深層の揺らぎまでは。あるいはその手前の加速する圧の中で。量が尽きたのだ。律は量で行けるところまで行った。でも量ではこの一線は越えられなかった。


なぜならこの一線を越えるには。自分の身体を、脳を、書き換えるという。量とはまったく別の恐怖を越えなければならないからだ。律はその恐怖を知らなかったのか。知っていて越えられなかったのか。それはもう、分からない。でも確かなことが一つ。律が越えられなかったその一線を。僕は越えた。量の足りない不適性と呼ばれた僕が。効率と恐怖を越える覚悟だけで。死んだ伝説が届かなかった場所に立っている。かすった男のその一歩先に。僕はいまいた。


不思議な感慨だった。律を僕はずっと追いかけてきた。燃費最悪の不適性と呼ばれていた頃。律の記録だけが収束が無価値ではないという唯一の証拠だった。あの白髪の男が動画の中で力業だと語ったあの男。誰もその真価を見抜けなかったあの男。その律がたどり着いた深さを。僕は越えた。でも勝ったとは思わなかった。


むしろ律と初めて肩を並べたような。


同じ渇きを抱えた者どうしが。時を隔てて。同じ暗がりですれ違ったような。そんな静かな感慨だった。律もたぶん。あの底を見たかったのだ。量で押し切れると信じて。その一歩手前で力尽きた。僕は律が見られなかったものを。この目で見てくる。それは律への弔いのようにも思えた。同時に少しだけ寂しくもあった。


律を追いかけている間、僕は一人ではなかった。あの記録の中に同じ渇きを抱えた男がいたからだ。誰にも理解されなくても律だけはたぶん分かってくれる。


そう思うことで僕は二年間の孤独をしのいでいた。でもその律を越えてしまった。越えてしまえばもう追いかける背中はない。


これから先は本当に誰もいない道だ。これから先は道しるべも先例も警告も何もない道だ。


どこが危ないか。どこで引き返すべきか。全部自分の身体で一から確かめるしかない。その心細さは思っていたよりずっと大きかった。力を得るほどに僕は一人になっていく。深く潜るほど隣に誰もいなくなる。それはたぶんこの道の逃れようのない必然だった。道しるべも先例も警告も何もない。全部自分で判断する。その心細さは思っていたよりずっと大きかった。力を得るほどに僕は一人になっていく。それはたぶんこの道の必然だった。



その超深層の入口で。僕はふと背後に視線のようなものを感じた。誰もいない。いるはずがない。ここは誰もたどり着けない場所だ。でも。遠く地上のほうから。いや地上ですらないのかもしれない。どこか遠い高いところから。何か大きなものが僕のこの到達を。静かに見つめはじめた気配があった。あの遠い人の。老いないと噂される静かな目の。あの渇いた目の持ち主が。僕がここまで来たことを。超深層に届こうとしていることを。どこかで知った。


そんな気がした。根拠はない。でも確信に近かった。僕がこの一線を越えたことは。誰にも見られていない。でも"越えられる者"が現れたことだけは。あの人には伝わったのだ。あの人がずっと待っていた者が。自分の代わりにあの底へ行ける者が。ついに現れたと。僕はその気配に背を向けて。揺らめく超深層の暗がりのほうへ。向き直った。あの人のことはいつか向き合うことになる。でも今は。目の前のこの誰も見たことのない場所を。見たかった。


その渇きだけが揺らぐ世界の中で。少しも揺らがずに僕を前へ引いていた。


超深層に本格的に踏み込むと決めるまでに、僕はしばらく時間をかけた。その間何度か境目まで通って揺らぎの性質を観察した。観察と言っても測れないのだからできることは限られている。ただ、身体で慣れる。


揺らぎの中に少しずついて輪郭が溶ける感覚に身体を馴染ませる。馴染むという言い方が正しいのかは分からない。あの感覚に馴染めるものなのか。でも繰り返すうちに少なくとも恐慌は起こさなくなった。輪郭が滲んでも慌てない。慌てれば集中が乱れて余計に危ない。その程度の耐性はついた。


その間に僕は身の回りのことも片付けていった。借りている部屋の家賃を半年分前払いした。仕送りも、まとまった額を前もって送った。もし、戻れなかったときのために。遺書のようなものは書かなかった。書けば、それは、覚悟の表明になる。覚悟を言葉にしてしまえば僕はたぶん迷う。迷いたくなかった。だから、書かない。代わりに僕は静かに身辺を片付けた。言葉にしなければ、それはただの用心深さで済む。覚悟ではなく。僕は覚悟という重いものを背負わずに身軽なままあの奥へ行きたかった。背負えば、迷う。


迷えばあの恐怖と渇きの天秤が、恐怖のほうへ傾いてしまう。だから僕は何も背負わずただ渇きだけを道連れに。超深層の境目に立った。


母には深いところへしばらく潜るとだけ伝えた。連絡が途切れるかもしれないとも。母は何も聞かなかった。ただ電話の向こうで少し黙ってからこう言った。


「……気をつけてね」


いつもと同じ言葉だった。でもその声にはいつもと違う何かがあった。気をつけてね。そのありふれた言葉を母は電話の向こうで少し黙ってから言った。その黙った間に。たぶんたくさんのことが詰まっていた。


行かないでと言いたかったのかもしれない。でも母はそれを言わなかった。言っても僕が行くことを知っているからだ。言えば僕を困らせるだけだ。だから母は行かないでを飲み込んで。代わりに気をつけてねとだけ言った。いつもと同じ言葉にいつもと違う重さを込めて。


この人はたぶん察している。僕がこれまでとは違う場所へ行こうとしていることを。連絡が途切れるかもしれないという言葉の本当の意味を。察していてそれでも聞かない。


その優しさが電話を切ったあといちばん長く胸に残った。電話を切ったあと僕はしばらく動けなかった。それでも僕は行くのだ。あの奥に僕がずっと見たかったものがある。それを見るために僕はここまで来た。全部をそのために使ってきた。二年間の惨めさも。母の恐れも。汐里の未来も。禁忌を越えたあの夜も。その全部を僕はあの一点のために使った。だとしたら。行かないという選択はもうないのだ。



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