第四十八話 揺らぎ
深層のいちばん底が近づいてきた頃。これまでとは違う異様さが始まった。それは圧ではなかった。削られる感覚でもなかった。もっと根本的な何か、だった。
最初に感じたのは居心地の悪さだった。どこがとは言えない。ただ周囲が落ち着かない。視界の隅で何かが動いた気がして振り返る。何もいない。でも確かに動いた気がした。それが何度も続いた。深層に入りたての頃なら緊張のせいだと片付けただろう。でも僕はもうこの深さに慣れている。慣れているのに落ち着かない。だとすれば原因は僕ではなくこの場所にある。僕は足を止めてじっと周囲を観察した。岩。壁。道。どれもそこにある。あるはずだ。でも目を逸らしてまた戻すと。ほんの少しだけさっきと違う気がする。どこが違うのかは言えない。言えないほど微細な違い。でも確かに違う。その違和感の正体を僕はしばらく掴めなかった。
掴めたのは陣を組んだときだった。
最初に気づいたのは陣の輪郭だった。僕がいつものように平衡の陣を組む。その線と円が。ほんのわずかに。揺らいだ。組んだはずの陣が組んだ直後に少しだけ形を変えている。僕がそう描いたはずのものと微妙に違う。まるで描いた線が描いた端から勝手にぶれていくように。僕は慌てて組み直す。でも組み直した陣もまた揺らぐ。僕はそこでいくつか試してみた。まず陣を太くしてみた。太くすれば少しは崩れにくいのではないか。結果は変わらなかった。太い陣も細い陣も同じように揺らいだ。量の問題ではないのだ。
次に組む速度を上げてみた。揺らぐ前に完成させてしまえばいい。これは少しだけ効いた。速く組めばその分確定している時間が長くなる。でもそれも一時しのぎだった。完成した陣も時間が経てば結局揺らぐ。速く組むことは崩れるまでの時間を少し延ばすだけだった。
三つ目に組み直し続けるという方法を試した。揺らいだ端から組み直す。これは機能した。機能したが魔力の消費が法外だった。この方法ではいくらもたない。どの方法も根本的な解決にはならない。これは定数の狂いとは違った。定数の狂いは法則が歪んでいるだけで法則自体はそこにある。だから歪みに合わせてこちらが調整すればよかった。でもこれは。法則そのものが定まっていない。僕が陣を組む、その"根拠"となる法則が。揺らいでぶれて確定していない。調整しようにも、調整すべき相手が定まらない。だから陣も確定しない。これまで僕の武器はいつも確かさだった。
削れ方を正確に測る。陣を寸分の狂いなく組む。その確かさの積み重ねが僕をここまで運んできた。でもこの場所はその確かさを根こそぎ奪ってくる。組んだ陣が組んだ端からぶれていく。測ろうとしても、測る物差しが揺れている。僕がいちばん得意な、確かめるという営みが。ここでは原理として成立しない。
量で押す者が量を奪われるように。速さで勝る者が速さを奪われるように。確かさで生きてきた僕は、この深層の奥で、確かさそのものを奪われた。律は量を。武器使いは武器を。そして僕は確かさを。深いところはそれぞれの探索者からいちばんの拠り所を奪っていく。誰のいちばんの武器も通用しない場所。それがこの超深層だった。
超深層。
その言葉が直感として僕の中に降りてきた。誰かに教わった言葉ではない。深層という言葉があるのなら。その先にはそれを超える何かがある。そう考えたときに自然と浮かんだ言葉だった。あるいはこの場所が、僕にそう名乗ったのかもしれない。
悪夢のさらに奥。ここはもう深層ですらない。ここでは情報が揺らいでいる。世界を成り立たせている根源的な情報が。解体されるその手前で定まりきらずに揺らめいている。だから法則が揺らぐ。陣が揺らぐ。考えてみれば、これまでの深さと根本的に質が違う。深層までは法則が狂っていた。狂っていても法則はあった。だから僕はそれを測り計算し対処できた。でもここでは法則が確定していない。測ろうとしても測るための基準が揺らいでいる。計算しようにも計算の前提が定まらない。僕をここまで運んできた「測って進む」という方法が。この場所では原理的に成立しない。
量がないと嗤われた僕がこの二年生き延びてきた。そのたった一つの作法が測ることだった。削れ方を身体で測る。この深さならこれくらい。この偏差ならこれくらい。その正確な物差しが僕を生かしてきた。あの夜も。登用の審査でも。深層の底でも。いつも計算が僕を拾ってきた。でもここではその物差しが揺れている。目盛りが定まらない。測ろうとするたびに測るための基準そのものがぶれていく。僕から測るという武器を奪ったら。あとに何が残るのか。量もない。武器も要らないと切り捨てた。残っていたのは測るというその一点だけだった。
その一点すらこの超深層は奪ってくる。丸裸になった気分だった。深いところはいつもその者のいちばんの拠り所を剥ぎ取ってくる。その事実に思い当たったとき僕は初めて本当の意味で途方に暮れた。
そして——恐ろしいことに。僕の身体の輪郭までも。揺らぎはじめていた。
その揺らぎの中で僕は一度何かと出くわした。魔物と呼んでいいのか分からなかった。深層の獣なら黒い塊として輪郭があった。でもこれは違った。揺らめく空間のある一点だけが他より少しだけ濃く揺れている。それが生き物なのか。それとも揺らぎがたまたまそういう形に寄り集まっただけなのか。区別がつかなかった。近づくとその濃い揺らぎがこちらへ向きを変えた気がした。意思があるように。でもその気がした、す、らこの場所ではあてにならない。僕は身構えた。もしそれが意思を持って僕を殺しに来るなら。この深さまで来られる何かだ。その戦闘力はたぶん僕と同じくらいあるかもしれない。でもそれはこちらへ来ずやがて揺らぎの中にほどけて消えた。最初からいなかったのか。僕が退けたのか。それとも僕がそういう像を勝手に見たのか。何一つ確かめられないまま。僕はただ背筋の冷たさだけを抱えて進んだ。
自分の手を見る。書き換えたこの手を。その輪郭が。ほんのわずかに滲んでいた。最初は目の疲れかと思った。瞬きをしてもう一度見た。やはり滲んでいる。手の縁が暗がりに溶けかけている。いや、暗がりが手のほうへ染み出してきている。どちらが正しいのか分からない。
どちらでも同じことだった。どこまでが僕の手で。どこからが周りの揺らぎなのか。その境が曖昧になっている。削られているのとは違う。削られるならまだ境ははっきりしている。削られるというのは僕という塊が少しずつ小さくなることだ。小さくなっても僕は僕のままだ。でもこれは。僕と僕でないものの境が。溶けはじめている。小さくなるのではなく輪郭がなくなっていく。これは、死とはまた別の何かだった。死ぬならまだいい。死んだ僕は僕として死ぬのだから。
でも溶けるのは。僕が僕でなくなってこの場所に還ることだ。僕という区切りがなかったことになる。それはたぶん僕がいちばん恐れていたことのいちばん完全な形だった。僕は思わずその手を握りしめた。拳を作る。その握るという明確な動作で。自分の輪郭を確かめようとした。握れた。まだ僕の手は僕の意思で動く。でもその"僕の意思"すら。この揺らぎの中ではどこまでが僕のもので。どこからが周囲の揺らぎの気まぐれなのか。確信が持てなかった。握ろうと思ったから握ったのか。揺らぎがたまたま握る形に定まったのを。僕が後から"握ろうと思った"と意味づけたのか。その二つの区別すら。もうつかなかった。背筋が凍った。あの身体と脳を書き換えたときに抱いたあの問い。
まだ僕かというあの問いが。
今、外部の環境として僕に牙を剥いていた。内側で抱えていた恐怖が。この超深層では世界そのものの性質として僕を溶かしにくる。これまでまだ僕かという問いは僕の内側にあった。書き換えるたびに自分で自分に突きつける問いだった。だから目を逸らすこともできた。考えないという逃げ方があった。でもここでは違う。その問いが僕の外に環境として満ちている。
目を逸らしても逃げられない。輪郭が溶けてくる。僕と僕でないものの境が曖昧になる。内側で抱えていた恐怖が外の世界の物理として僕を包囲する。逃げ場がどこにもない。内側からも外側からも。同じ問いが僕を挟み撃ちにする。まだ僕かと。その問いから逃れる方法はたった一つ。その問いに答えを見つけることだけだった。でもその答えはまだ僕には見えていなかった。僕は思わず後ずさりそうになった。でも後ずさっても圧はほとんど緩まない。あの一方通行の罠はここでも生きている。進むしかない。この自己の輪郭が揺らぐ場所を。進むしか。
僕は暗い揺らめく世界のその奥を見つめた。これまで誰もたどり着けなかった場所。悪夢のさらに奥。地獄のその底。律ですら届かなかった深さ。その揺らぎのいちばん奥に。誰も帰ってこなかったあの場所が。いちばん深いところがある。そして僕はたぶん。その超深層に足を踏み入れられる最初の一人になりつつあった。書き換えた身体で。書き換えた脳で。溶けかけた輪郭で。それでも進める。まだ進める。その事実だけが。この恐ろしい場所で僕を支える唯一の確かさだった。
その日は揺らぎのごく入口で引き返した。引き返すと決めるまでにしばらくかかった。この先へ行けば、たぶん、戻れない。そう感じたからだ。根拠のある判断ではなかった。根拠を作るための測定がそもそも成立しないのだから。ただ感覚としてそう思った。これまで僕は感覚ではなく、計算で判断してきた。計算が使えなくなった今残っているのは感覚だけだ。
その感覚に命を預けるのはひどく心細かった。帰り道、僕はずっと考えていた。この先へどうやって進めばいいのか。測れない場所をどうやって歩けばいいのか。答えは出なかった。
でも進まないという選択肢はなかった。あの奥に僕がずっと見たかったものがある。それだけは確かなのだから。管理棟に戻ったとき職員が僕を見て少し変な顔をした。
「……顔色、悪いですよ」
そうですかと僕は答えた。鏡を見ていないから分からない。でもたぶん悪いのだろう。あの場所で輪郭が溶けかけた。その感覚は身体のどこかにまだ残っている。帰りの車で僕は自分の手を何度も見た。輪郭ははっきりしている。地上では当たり前のことだ。その当たり前が。ひどくありがたいものに思えた。地上では手の輪郭ははっきりしている。当たり前だ。でもその当たり前があの揺らぎの中では崩れる。輪郭が溶ける。自分と世界の境が曖昧になる。
その恐怖を味わったあとでは。手の縁がくっきりと闇と区切られていることが。奇跡のように思えた。僕は帰りの車の中で何度も自分の手を握った。握れる。僕の意思で動く。その確かさがたまらなくありがたかった。地上のまっすぐな法則。醤油差しが醤油差しのままであるその確かさ。あの揺らぎを知った今それがどれほど貴いものか分かった。でも僕はまたあそこへ行く。その確かさを手放して。揺らぎのいちばん奥へ。




