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第四十七話 遠い食卓


深層のさらに奥へ進むほど、世界は静かになっていった。魔物の気配すらまばらになる。ここまで来られる生き物がそもそも少ないのだ。最初のうちはその静けさが不気味だった。でも慣れると、それはある種の安らぎに変わった。


誰もいない。何もいない。ただ暗闇と圧と僕だけがある。考えてみれば僕はずっとこういう場所を探していたのかもしれない。誰の目もなく。誰の物差しも届かず。演技も言い訳も要らない場所。教室でも食卓でも僕はいつも何かを隠していた。ここでは隠すものが何もない。


隠す相手がいないからだ。僕はたった一人で加速する圧の中を歩いていた。書き込まれた身体強化が圧に抗い。拡張された脳が三枚の陣を涼しく回す。その絶大な力の中で。僕は奇妙なほど孤独だった。いや、孤独という言葉も少し違う。孤独というのは誰かがいてほしいのにいない状態のことだ。でも僕は誰かにいてほしいとは思っていない。誰かがいたらこの深さではその人が死ぬだけだ。だからこれは孤独ではなく。ただの単独だった。


この深さに誰かがいたら。その人はただ死ぬだけだ。守れるとは思わない。二人ぶんの命をこの一方通行の圧の中で賄えるほど僕にも余裕はない。だから僕は望んで一人で来ている。誰も連れてこない。誰にも頼らない。それは寂しさとは違う。選んだ単独だ。でも選んだはずのその単独の中で。時々胸の奥がしんと冷える。そのしんとしたところに。家の食卓の温かさが落ちてくる。選んで一人になった僕の中にまだ誰かの温もりを恋しがる小さな部分が残っている。その部分だけが深層の底で僕をかろうじて人間に繋ぎ止めていた。




ふと潜行の前に家から届いた報せを思い出した。汐里の合格通知だった。あの学校のダイバー科。僕がかつて、燃費最悪の不適性と呼ばれた場所。妹がそこに入ることになった。合格通知のあの薄い一枚を。母はたぶん何度も読み返したのだろう。嬉しさと恐れを同じ手で握りしめながら。


二年前、あの学校の査定表は僕に不適性と刻んだ。その同じ学校が今度は妹に合格と告げる。僕がいちばん惨めな二年間を過ごした場所。上履きを隠され、肩をぶつけられ、いないものとして扱われた、あの冷たい場所へ。汐里がまっすぐな目で飛び込んでいく。


止めるべきなのか。あそこがどれだけ冷たいか僕は知っている。でもあの子には僕のような隠すべき核がない。あの子はただまっすぐに憧れて入っていく。そのまっすぐさを。僕は曇らせたくなかった。だから何も言わずただ学費を出す。それが兄として僕にできるたった一つのことだった。母から短い連絡があった。汐里が跳び上がって喜んでいたと。でも母の声には喜びと同じだけの不安が滲んでいた。


あの日、僕は家に帰った。合格祝いだった。食卓にはいつもより少しだけ多いおかずが並んでいた。父もその日は休みを取っていた。夜勤が減って父の顔色は以前よりずいぶん良くなっている。僕の仕送りがこの家に確かに届いている。その一点だけは素直に嬉しかった。汐里はずっと喋っていた。どの科目が難しかったとか面接で何を聞かれたとか。その声を聞きながら僕は味噌汁を飲んだ。変わらない味だった。母だけがときどき僕のほうを見ていた。何か言いたそうに。


でも結局何も言わなかった。娘まであの世界へ。母がいちばん恐れた道へ。その学費は僕の仕送りで賄われる。僕がこの子の道を開いた。開いてしまった。母は僕を責めなかった。責めるどころか、ありがとうと言った。その一言がいちばん応えた。責められたほうがまだ楽だった。なぜ娘まであの道へと。そう詰られたら、僕はうつむいて耐えればよかった。でも母はありがとうと言った。娘の学費を賄えることに。この家の暮らしが楽になったことに。


その感謝が僕の胸をいちばん深く抉った。母は恐れている。娘まであの狂った世界へ行くことを。いちばん恐れながらその道を開いた僕に感謝する。恐れと感謝を同じ言葉に込めて。そのねじれた優しさを僕はどう受け止めていいか分からなかった。支えることで縛る。その環がまた一つ締まった音がした。僕は味噌汁の椀をしばらく置けなかった。考えると胸の奥が少し痛んだ。でもそれはこの深層の底で思い出すには。あまりに遠い光景だった。


遠いと僕は思う。家の食卓が。母の味噌汁が。汐里のまっすぐな目が。あんなにも温かかったものが。今はまるで他人の記憶のように遠い。距離のせいではない。電車と車で半日もあれば帰れる。時間のせいでもない。この前帰ったのはほんの数週間前だ。なのに、遠い。


たぶん、深さのせいだ。この場所とあの食卓は同じ世界にあるはずなのに。あまりに性質が違いすぎる。あそこでは法則がまっすぐだ。醤油差しは醤油差しのままで揺らがない。味噌汁はいつも同じ味がする。母はいつも母だ。父の茶碗はいつも同じ場所にある。その当たり前の確かさが。


深層の底から見ると奇跡のように思えた。


揺らがない世界。書き換えなくても生きていける世界。自分が自分であることを疑わずにいられる世界。僕はその世界の住人だった。ほんの二年前まで。でももう戻れない気がしていた。身体では戻れる。週末にはあの食卓に座っている。でもそこに座っている僕は。もうあの食卓の住人ではないのだ。記憶はある。鮮明にある。でもそれを懐かしいと感じるその感じ方が。書き換える前と同じなのか分からない。温かいと頭では思う。でもその温かさが胸に届いているのか。届いているふりをしているだけなのか。その境がいちばん曖昧だった。




試したことがある。合格祝いのあの食卓で。僕は意識的に母の顔をじっと見た。この人を、僕は愛しているだろうか。そう自分に問いかけながら。答えはすぐに返ってきた。愛している。当たり前だと。その答えの速さがかえって僕を不安にさせた。あまりに滑らかに答えが出た。まるでそう答えるようにできているみたいに。書き換えた脳が、書き換える前と同じように感情を処理しているという保証はどこにもない。似た出力を返しているだけかもしれない。外から見れば同じだ。内から見ても同じに感じる。でもそれは同じであることの証明にはならない。


僕は家族をまだ愛しているのだろうか。愛していると思う。でもその"思う"こと自体が書き換えられた脳の出力なのだとしたら。——やめようと僕は思考を断ち切った。この問いに答えはない。考えるほど足元が崩れる。そして考えている間も母は僕に味噌汁をよそってくれる。その現実だけが確かだった。





それでも一つだけ確かなことがあった。僕がこの恐ろしい道を進み続けられるのは。半分はあの底を見たいという名前のない渇きのため。そしてもう半分は。あの遠い食卓の温かさのためだった。届いているか分からない。でも僕は彼らのために稼ぎ続けたいと思っている。


その"思っている"が本物か偽物か分からなくても。その願いに突き動かされて僕はここまで来た。だとしたら。本物か偽物かという問いはもしかしたら。どうでもいいのかもしれない。


願いが僕を動かしているなら。その願いは確かに僕のものだ。書き換えられていようがいまいが。家族を愛しているかどうか。その気持ちが本物か偽物か。それは証明できない。書き換えた脳が似た出力を返しているだけかもしれない。外から見ても内から見ても同じに感じる。でもそれは同じであることの証明にはならない。僕はその問いに答えを出せずにいた。




でもある日、気づいた。問いの立て方が間違っていたのかもしれないと。気持ちが本物かを問うのではなく。その気持ちが、何を生んだかを見ればいい。僕の家族を想う気持ちは。本物かどうかは分からない。でもそれは確かに僕に稼がせた。仕送りをさせ、汐里の道を開かせた。父の夜勤を消し、母の家計簿の皺を伸ばした。その結果は証明できる。現にそこにある。


だとしたら、気持ちの中身が何であれ。その気持ちが生んだものが確かに家族を楽にしたなら。それでいい。それで僕は僕だったことにしよう。中身の本物さは問わない。願いが生んだものを信じる。


その微かな理屈だけを僕は暗い底で握りしめた。僕はその微かな理屈を暗い底でそっと握りしめた。


願いが僕を動かす。その願いが書き換えられた脳から出ているとしても。現にそれは僕をここまで運んできた。この家族からいちばん遠い深層の底まで。家族を想う気持ちが本物かどうかは証明できない。でもその気持ちが僕に稼がせ、仕送りをさせ、汐里の道を開かせた。それは証明できる。結果は確かにそこにある。だとしたら。気持ちの本物さを問うのはやめよう。僕は僕の願いが生み出したものを信じることにした。中身が何であれ。その願いが母を少しでも楽にしたなら。汐里のまっすぐな目を曇らせずにいられたなら。それでいい。それで僕は僕だったことにしよう。そしてまた一歩進んだ。家族からいちばん遠い場所へ。家族のために。そのねじれを抱えたまま。





汐里はそろそろ覚醒の頃だ。僕のときと同じような時期に初回入場がある。あの子はあの一線をくぐる。くぐったあとあの子は変わるだろうか。母が恐れたように。僕は変わっただろうか。


問うても答えは出ない。でももし、あの子が覚醒したあとで。変わってしまったかもしれないと、怯えることがあったら。僕はこう言ってやりたかった。変わったかどうかは誰にも分からない。でもお前がまだ同じものを好きでいるなら。同じことに笑って同じことに怒るなら。それで十分だと。好きなものの向き。それが変わっていないなら。お前はまだお前だと。


それは、僕がこの深層の底で命がけで掴みかけている答えのいちばん易しい形だった。でもたぶん僕はそれを言えない。あの子の初めての潜航の日に。僕はもっと深いところにいる。顔も見せずに。仕送りだけを送って。兄としてそれがどうなのか。


考えて僕はまた思考を断ち切った。どうなのだろうと考えたところで。僕は進むことをやめないのだから。だったら考えるだけ無駄だ。無駄だと分かっていてそれでも考えてしまう。その往復だけが。深層の底を歩く僕のたった一つの人間らしい部分だった。



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