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第四十六話 書き換えた手で


脳に陣を書き込んでから、世界の見え方が変わった。いや、見え方ではない。処理のされ方が変わった。これまで二枚までしか同時に操れなかった陣が。今は三枚をはっきりと別々の意識で動かせた。右手に一枚。左手に一枚。そして、これまで意識の手が二本しかなくて届かなかった三枚目。その三枚目を、僕は新しく生えたような三本目の意識で動かしていた。


その感覚は腕が三本に増えたのとはまるで違った。もっと内側の話だった。これまで僕の意識は一本の川だった。その川を右と左に二つに分けて注いでいた。二つに分けるのが精一杯だった。それが三枚目でいつも破綻した。でも脳に陣を書き込んでから。川を分けるその分岐点そのものが増えた。二又だったものが三又になった。だから三本目の流れを無理なく別に注げる。


でもその拡張された頭で僕はいつも同じことを考えてしまう。この涼しく三枚を回している頭は。本当に僕の頭なのかと。力が上がるほどその問いも鋭くなった。その感覚をどう言えばいいのか僕にはうまく言葉にできない。もっと、言うなら。これまで僕の意識は一本の川のようなものだった。分岐も、正しくはない。その川を二つに分けて右と左に注いでいた。でも今は川が三本になっている。いや、川が三本というよりーー。


脳の処理の枠が押し広げられていた。思考の速度も上がっていた。同じ一秒の中で以前より多くのことを考えられる。時間が間延びしたように感じる瞬間すらあった。魔物が飛びかかってくるその動きが以前よりゆっくり見える。


速くなったのは魔物ではなく僕の側だ。三枚の同時複合。あの思考の壁が越えられていた。守り攻め拘束を同時に別々に。深層の音のない獣たちを僕は以前とは比較にならない精度で捌いた。一体を拘束し、一体の攻撃を受け、三体目を撃つ。それが同時にできる。


灰縄が五人がかりでやっていたことを。僕は一人で、しかも彼らより速くやっていた。力の実感は圧倒的だった。二か月前の僕がこの深さで必死に踏みとどまっていたのが嘘のようだった。


その力を僕は誰にも見せられない。見せたところで理解されない。いや理解される前に恐れられるだろう。自分の身体と脳に陣を書き込んだ男。それを聞いて平気でいられる人間がどこにいる。禁忌を破ったという以前に。そんなことをする人間のその内側を。みんなこわがるはずだ。僕自身がこわがっているのだから。だからこの力は深層の底でだけ使う。地上ではこれまで通り。少しだけ変わった正規の探索者として振る舞う。


演技はもう身体に染みついていた。これまでの間、学校で練習してきたのだから。あの頃は燃費を隠すための演技だった。今は書き換えたことを隠すための演技だ。隠すものが増えるたびに。僕と世界のあいだの距離が少しずつ広がっていく。


僕は燃費を隠してきた。次に多重を隠した。そして今、身体と脳を書き換えたことを隠している。隠すものが一つ増えるたびに。僕は世界から一枚ずつ遠ざかる。本当のことを話せる相手が一人もいない。母にも。桐山先生にも。鵜飼にも。誰にも。話せば理解される前に恐れられる。自分の身体と脳に陣を刻んだ男。それを聞いて平気でいられる者などいない。僕自身がこわがっているのだから。だから僕は深層の底でだけ本当の力を使う。地上では少しだけ変わった正規の探索者を演じる。昔は弱く見せるための演技だった。今はまともに見せるための演技だ。どちらも本当の自分を隠すための同じ嘘だった。



そして身体は常時強化されている。加速する圧に、僕自身が抗い続ける必要がなくなった。書き込まれた陣が勝手に抗っている。その分浮いた魔力と拡張された思考で。僕はあの一方通行の圧の中を進めるようになっていた。数メートルごとに圧が跳ね上がるあの領域を。


書き換える前の僕ならあそこで確実に死んでいた。書き換えた僕は生きて進んでいる。あの日、僕は加速する圧の領域を生きて抜けた。そしてそのまま浅い層まで戻った。帰り道は地獄だった。一方通行の圧は帰りにも変わらず僕を削り続けた。でも書き込まれた身体強化のおかげで平衡と陣に魔力を回せた。管理棟に着いたとき僕の魔力はほとんど残っていなかった。職員が慌てて駆け寄ってきた。


「大丈夫ですか!……どこまで行ったんです」


僕は答えなかった。答えられなかったというほうが正しい。深層半ばのあの領域まで行って生きて戻った。そう言ったところで信じてもらえない。信じてもらえたとして次に来るのはなぜという問いだ。だから僕はいつものように曖昧に笑ってその場を離れた。石碑の前を通り過ぎるときふと足を止めた。名前が刻まれている。あの領域で消えた者たちの名だろうか。僕の名もあと少しでそこに加わるところだった。加わらなかったのは僕が禁忌を越えたからだ。誰も知らない。僕が何をして生きて帰ってきたのかを。力は確かに手に入った。その絶大な力を僕は握っていた。




でも。進みながら僕はずっとあの問いに囚われていた。囚われているという表現も少し違う。問いはいつもそこにあった。朝目を覚ましたとき。食事をしているとき。誰かと話しているとき。その全部の背後に薄い膜のようにその問いが張りついている。激しい苦痛ではない。もっと静かでもっとしつこい。ふとした瞬間に思い出す。


——今これを考えている僕は誰だろう。


そして答えが出ないまま日常に戻る。その繰り返し。この力を握っている手は。書き換える前の僕の手と同じ手なのか。この圧を越えて感動しているこの心は。あの海辺で星に胸を打たれたあの子供と同じ心なのか。答えは出ない。永遠に出ない。そして恐ろしいことに。その問いは進むほどに深く潜るほどに重くなっていった。


なぜなら僕はこの先も書き換え続けるからだ。もっと深い圧に抗うために。もっと複雑な陣を操るために。身体を、脳を、繰り返し最適化し再構築していく。一度書き換えるごとに僕は"連続した同じ自分"からまた一歩遠ざかるのかもしれない。


あるいはそもそもそんな連続性など最初から幻だったのかもしれない。書き換えるほどその問いは鋭くなる。僕は力を得るたびに自分が誰なのか分からなくなっていく。これが母の恐れた道の本当の姿だった。力と引き換えに何かを失うのではない。


力を得ながら"自分であること"の確かさだけが静かに崩れていく。


皮肉な話だった。普通人は力を失うことを恐れる。弱くなること。できたことができなくなること。でも僕の恐怖は逆だった。力を得れば得るほど。強くなればなるほど。僕は僕であることから遠ざかっていく。深く潜るための力が。僕を僕でなくしていく。普通人は力を失うことを恐れる。弱くなること。できたことができなくなること。老いて衰えていつか何もできなくなること。それが人のいちばん身近な恐怖だ。


あの底を見たいと願ったその僕が。力を得るたびに少しずつ薄れていく。もし底にたどり着いたとき。そこに立っているのがもう僕でなかったら。それはたどり着いたと言えるのだろうか。見たいと願った僕がそこにいないなら。その景色はいったい誰が見たことになるのだろう。


その問いはあまりに恐ろしくて。僕はいつも途中で考えるのをやめた。あの底に近づくほど。その底を見たいと願った"僕"は薄れていく。崩れているのか。それとも崩れていると思っているだけなのか。それすら分からない。






それでも僕は進んだ。一つだけ確かなものがあったからだ。それに気づいたのは書き換えてからしばらく経ったある日のことだった。いつものように坑へ向かう電車の中で。窓の外をぼんやり眺めていた。そのときふと胸の裏が疼いた。いつものあの熱だ。あそこに何があるのか見たい。その一念がいつも通りの強さでそこにあった。


はっとした。


いつも通りだったのだ。身体を書き換えても。脳を書き換えても。この熱の強さも質も向きも。何一つ、変わっていない。もし僕が別の何かに入れ替わっていたなら。この熱も変質しているはずではないか。あるいは消えているはずではないか。でも消えていない。六つの夜砂浜で灼けたときと、まったく同じ形でそこにある。書き換えても、書き換えても。あの胸の奥の灼けるような渇きだけは。少しも変わらなかった。あそこに何があるのか見たい。その一点だけは。どれだけ身体を脳を書き換えても。揺らがなかった。だとしたら。僕が僕であることの証は身体でも脳でも記憶でもないのかもしれない。


この渇き。


それだけが僕の変わらない芯なのかもしれない。その考えはまだ確信には遠かった。でもその微かな手がかりだけを頼りに。僕は書き換えた手で書き換えた脳で。深層のさらに奥へと進んでいった。恐怖を抱えたまま。




振り返ってみれば僕の力は三度形を変えている。


一度目はあの夜。収束でじかに陣を組むという真形を掴んだ。あれで僕は燃費という武器を手に入れた。


二度目は灰縄の救援。収束を細く撚り束ねて多重に立体に。あれで僕は複雑な状況を一人で捌けるようになった。


そして三度目がこの書き込みだ。身体と脳にじかに常時起動の陣を編み込む。あれで僕は深層半ばの圧を越えた。



どれも極限に追い詰められて初めて掴んだものだった。安全な場所ではたぶん一つも掴めなかった。あの夜の枯渇死の淵。灰縄の救援の底。そして深層半ばの一方通行の圧の中。僕の力はいつもいちばん死に近い場所で次の形を現した。安全な訓練場では決して降りてこなかった。追い詰められてあと一歩で消えるというところで。初めて扉が開く。それが僕の力の性質だった。言い換えれば。僕はこれから先も死にかけるたびに強くなる。あるいは死にかけなければ強くなれない。


その事実はあまり慰めにはならなかった。次に死にかけたときまた答えが見つかる保証はどこにもない。三度うまくいった。四度目もうまくいくとは限らない。そのときはそこで終わるだけだ。石碑に名前が一つ増えるだけ。


そう思えるようになったのが書き換えたせいなのかもともとの僕なのか。その区別ももうつかなかった。それが僕の力の性質なのだろう。


でもと僕は思う。うまくいかなかったときのことを考えても仕方がない。そのときはそこで終わるだけだ。石碑に名前が増えるだけ。それだけのことだ。



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