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第四十四話 禁忌


指の先から自分が無くなっていく。あの感覚だった。あの夜、初めて味わった。そして二度と味わいたくないと思った、あれ。久しぶりに味わってみて思い出した。


これは痛みではない。


痛みならまだ抗える。痛みは生きている証拠だからだ。でもこれは違う。指の先が静かに僕のものでなくなっていく。触っても触られている感じがしない。自分の手を見てもそれが自分の手だという実感が薄れていく。消えていくというより。僕のものから世界のものへ返っていく感じ。薪が燃えて灰になって地面に混じっていくように。教科書にはこう書いてある。


——生物は死なない。魔力がある限りは。


裏を返せば魔力が尽きれば生物は燃やされる。命そのものが平衡のための燃料になる。その燃やされていく過程を僕は今二度目の体験として味わっていた。深層の底で僕はまたその淵に立っていた。いやあの夜よりずっと悪い。あの夜は陣を組めば劇的に消耗が抑えられた。でも今は違う。この一方通行の圧の中では陣を組んでも削られていく。平衡と身体強化だけで精一杯。その二つをいくら効率化してもこの圧には追いつかない。削られる速度が僕の抗う速度を上回っている。このままではあといくらも保たない。どれくらい保つか頭の隅で計算が勝手に答えを出す。


長くてあと数十分。短ければその半分。数十分後に僕はこの暗がりで指の先から順に消えていく。誰にも見られずに。誰にも知られずに。石碑に名前が一つ増える。深澤灯真。日付は今日。それだけが僕がここにいた証拠になる。母はあの電話を受けるのだろう。汐里は泣くだろうか。桐山先生は何を思うだろう。あの人はたぶんこう言う。だから言ったのにと。考えて僕は頭を振った。考えている暇はない。考えろと頭の隅で冷たい声がする。死ぬときのことではなく。死なない方法を。何かないのか。この加速する圧を越える何かが。



僕は膝をついたまま思考を整理した。こういうとき焦ってはいけない。焦れば思考が乱れる。思考が乱れれば答えが遠くなる。あの夜もそうだった。あの夜、僕を救ったのは焦りではなく手癖だった。隠れて磨いたあの癖が勝手に動いた。なら今回も。僕がこれまで積み上げてきたものの中に答えがあるはずだ。僕が持っているもの。収束。万能の陣。多重と立体と連続起動。そして燃費。この四つ。このうちどれかをまだ使いきっていないものがあるか。連続起動は使っている。多重も限界まで。燃費もこれ以上削れない。万能の陣は——。そこで僕の思考が止まった。万能の陣。魔法陣にできることなら何でもできる。僕はその言葉をこれまで戦い方の話だと思っていた。どんな相手にも最適な陣で応じられる。そういう意味だと。でもそれだけだろうか。魔法陣にできることの全部を僕は本当に考え尽くしただろうか。陣は外に描くもの。床に敷くか宙に組むか。誰もがそう思っている。僕もそう思ってきた。でもそれは誰が決めたのだろう。その問いが頭の中にぽつりと落ちた。落ちた瞬間身体がこわばった。思いついてしまった。思いつきたくなかったことを。




問題ははっきりしていた。魔力が足りない。いや違う。魔力の使い方が追いつかない。平衡し、身体を強化し、戦う。その三つをいちいち意識で陣を組んで賄っている。組み直すたびに無駄が生まれる。その無駄をこの圧は許してくれない。特に身体強化。この物理圧の中では身体強化を一瞬でも緩めれば押し潰される。だから絶えず組み直し続けなければならない。その組み直しに魔力を食われている。


もし。

身体強化の陣をいちいち組み直さなくてもよかったら。


身体がはじめから強化された状態であり続けられたら。その組み直しの無駄が丸ごと消える。その分の魔力を平衡と戦いに回せる。そうすればこの圧を越えられるかもしれない。僕は頭の中でその計算をしてみた。身体強化に食われている魔力のどれくらいが組み直しの無駄なのか。感覚では半分に近い。いや、この深さではもっとだ。組み直しの頻度が圧に比例して上がっているのだから。半分以上が無駄。その無駄が丸ごと消えたら。削られる速度と抗う速度の関係が逆転する。


生きられる。


計算はそう言っていた。でもそのためには。身体そのものに強化の陣を常時起動として書き込むしかない。自分の肉体に。じかに。収束で。技術的にはできるはずだと僕は思った。陣を魔力で組む。その魔力を身体の外ではなく内側に向ける。やることはそれだけだ。これまで掌の上に描いてきたものを。少し位置を変えるだけ。そう考えれば簡単なことのように思える。思えてしまうことが恐ろしかった。


——禁忌。


その言葉が頭の中で赤く灯った。座学の教本に赤字で書かれていた技術。いや技術ですらない。教本に書かれていたのはこういう一文だった。


——生体への直接的な術式付与はいかなる形態においてもこれを禁ずる。


付与という言葉が使われていた。外科的な処置も道具による刻印もすべて含まれる。なぜ禁じられているのか教本には書かれていなかった。書く必要がないからだ。人の身体の内側をいじる。それがどれほど恐ろしいことか誰でも分かる。偏差領域、迷宮<ダンジョン>が知られてからまだ日が浅い。その短い歴史の中で人体への術式付与を試みた者もいたのだろう。


いたとして記録には残っていない。残っていないということは。たぶんろくなことにならなかったのだ。外科手術が禁忌として禁じられているこの世界で。自分の身体の内側にじかに陣を刻むなど。誰も試みたことのない領域だった。技術が存在しないから。そして身体の内側をいじることそのものが禁じられているから。


もっとも、と僕は思う。禁じられていなくてもできる者はいない。身体の内側に精密な陣を描くには収束が要る。しかも僕のような極限まで細く撚れる収束が。そんな者はこの世界にたぶん僕しかいない。だからこの禁忌は僕のためだけに存在しているようなものだった。誰も破れない禁忌は禁忌ですらない。破れる者が一人だけ現れたとき。それは初めて本物の禁忌になる。


できないことを禁じても意味がない。石に空を飛ぶなと命じるようなものだ。でも僕が現れた。破れる者が一人現れた。その瞬間この一文は初めて生きた禁忌になる。僕のためだけに書かれていたようなその一文が。今僕に向かってまっすぐ警告を発していた。母の声が遠く蘇った。


覚醒って、こわいのよ。

一度あれをくぐった後の自分がまだちゃんと自分なのか。どこか取り返しのつかないところが変わってしまってはいないか。それがこわい。


母がいちばん恐れたその一線。僕は今そのすぐ前に立っていた。

こわいと思った。初めてはっきりとそう思った。覚醒したときも、複数の陣を掴んだときも。僕は恐れよりも熱が先に行った。でもこれは違う。なぜこれだけが違うのか。少し考えて分かった。これまでの恐怖は全部、死の恐怖だったからだ。死ぬかもしれない。痛いかもしれない。帰れないかもしれない。そういう恐怖は僕の中では驚くほど軽い。あの熱がいつもそれを飛び越えてしまう。でもこれは死の恐怖ではない。これは、僕が僕でなくなるかもしれないという恐怖だ。その二つはまったく質が違う。死ぬならまだいい。僕は僕のまま死ぬのだから。あの熱を抱えたまま、あの渇きを抱えたまま終わる。それなら納得できる。


でも僕でなくなるのは。僕が消えて、僕でない何かが、僕の顔で生き続けるのは。それは死よりも恐ろしかった。死ぬなら僕は僕のまま終わる。あの熱を抱えたまま。あの渇きを抱えたまま。僕という物語はそこで閉じる。悲しいがきれいな閉じ方だ。でも書き換えは違う。


僕の物語は続く。続くのにその続きを歩くのが僕なのか分からない。同じ顔で同じ記憶で同じ渇きを語りながら。中身だけが入れ替わっているかもしれない。その入れ替わりを誰も気づかない。僕自身すら気づかない。完璧なすり替え。それは殺人よりも静かで完全な消滅だった。死体すら残らない。残るのは僕の顔をした僕でないかもしれない何か。その可能性を否定する手立てがどこにもない。だから、こわい。死ぬことよりずっと。


なぜならそのとき僕の渇きはどうなるのか。僕の渇きを僕でない何かが引き継いで。僕の代わりにあの底へ行ってしまうのだとしたら。僕はいったい何のためにここまで来たのだろう。自分の内側を自分の魔力で書き換える。それをした後の自分がまだ僕なのか。確かめる術はない。書き換えてしまえば、書き換える前の自分はもういないのだから。比べる相手がいない。母の恐れは正しかった。こんなにも、正しかった。


母は迷宮に潜ったことなど一度もない。覚醒すらしていない。なのにこの書き換えのいちばん恐ろしい核心を。あの人は言葉だけで正確に言い当てていた。なぜあの人にそれが分かったのだろう。取り返しのつかないところが変わってはいないかと。たぶん母は母なりに想像したのだ。息子があの狂った場所へ行く。その狂いが息子の内側に入り込む。入り込んで何かが変わってしまう。変わったかどうかは外からは分からない。だからこわい。その想像は素朴でそして恐ろしいほど正確だった。


専門知識も経験もない人が。ただ息子を心配するという一点だけで。この世界のいちばん深いところにある問題にたどり着いていた。愛情というものは時々どんな理論よりもまっすぐに核心を射抜く。母の恐れはそういう種類の正しさだった。


もし代償があれば。痛みでも、失われる記憶でも、何でもいい。それがあればまだよかった。


"これだけ失ったがこれは残った"と数えられる。


でも代償が何もないなら。僕は失ったものが何一つないまま。それでも"別の何か"になっているかもしれない。完璧に同じ姿で。完璧に同じ記憶で。中身だけが入れ替わっているかもしれない。その可能性を否定する手立てが。どこにもない。



でも。


指の先の感覚はもうほとんどなかった。迷っている時間はなかった。書き換えなければここで死ぬ。書き換えれば、生きられるかもしれない。ただし書き換えた後の自分がまだ僕であるという保証はどこにもないまま。死ぬか。僕でなくなるかもしれない生を選ぶか。二つに一つだった。考えてみればおかしな選択だ。普通なら迷う理由がない。死ぬよりは生きたほうがいい。誰でもそう答える。でも僕にはそれが単純ではなかった。もし書き換えた後の僕が僕でないなら。僕はここで死ぬのと変わらない。僕という存在はここで終わって。その先を歩くのは僕の記憶を持った別の何かだ。その何かがあの底にたどり着いたとして。それは僕がたどり着いたことになるのか。母が恐れたのはまさにこれだった。あの人は迷宮の入口のいちばん手前で。僕が今深層の底で直面している問いを。言い当てていた。そして僕の中のあの熱は。


こんなときでも。

迷わなかった。


見たい。あの底を。まだ見ていない。ここで死ぬわけにはいかない。たとえその先の自分が僕でなくなるとしても。見るまでは。その一念があらゆる理屈を押しのけた。考えてみればこの熱はいつもそうだった。覚醒したときも。枯渇死の淵で手が勝手に動いたときも。灰縄を助けに走ったときも。この熱は僕の判断をいつも追い越していく。だからたぶんこれは僕の判断ですらないのだ。僕はただこの熱に従っている。従っているというより引きずられている。それが僕という人間のいちばん根っこの形だった。僕は目を閉じた。残りわずかな魔力をこれまでにないほど、細く、細く、収束させる。その細い糸の先を。自分の身体の内側へ。向けた。



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