第四十三話 一方通行
変化は静かに、しかし決定的に始まった。深層の半ばと思しきあたり。
その日に至るまで僕は三度この付近まで来ていた。一度目はずれを確かめるために。二度目はずれの大きさを測るために。三度目は、ずれが始まる地点を絞り込むために。三度とも慎重に余裕を残して引き返した。自分でもよくやっていると思った。渇きに引かれる自分を計算する自分がきちんと御している。そう思っていた。だから四度目の今日も大丈夫だと思っていた。いつも通り測って確かめて余裕を残して帰る。その予定だった。予定は予定でしかなかった。
その日、僕はこれまででいちばん奥まで来ていた。削れ方のずれを確かめるために。どこで法則が変わるのかその境界を見極めるために。慎重に一歩ずつ。数メートル進んだだけで圧が跳ね上がった。最初は身体がそれを教えてきた。膝が重い。肩に見えない手が乗ったような。次に数字がそれを裏づけた。平衡の陣が食う魔力の量が跳ねている。それまでじわじわと開いていた削れ方のずれが。ここへ来て階段を一段踏み外したように跳ねた。平衡の陣にこれまでの倍の魔力を注ぎ込まなければ身体が削られる。僕は慌てて陣を太くした。それでなんとかしのいだ。しのいで僕はしばらくその場に立ち止まった。これが境界かと思った。
ここが法則の変わる場所。なら、ここで引き返せばいい。境界の位置は分かった。それだけでも今日の収穫としては十分だ。そう考えて、僕は念のためもう少しだけ様子を見ることにした。もう少しだけ。そのもう少しが命取りになる。あの夜もそうだったのに。しのいでまた数メートル進む。するとまた圧が跳ねた。さらに倍。僕はまた陣を太くする。そこでようやく気づいた。これは一つの境界ではない。境界が連続している。数メートルごとに階段が続いている。しかもその一段一段が前より高い。嫌な予感が確信に変わった。この圧は進むほどに増していく。しかも加速度的に。一段ごとに倍また倍と。
その領域で、僕は一度魔物に遭遇した。これまでの深層の獣とはまた様子が違った。大きさはそう変わらない。でも動きが異様に鋭い。この圧の中であれだけ滑らかに動けるということは。この魔物にとってこの圧は負荷ではないのだ。むしろこの圧の中でこそ生きられる生き物なのだろう。
僕は三枚の陣を回そうとした。守り。攻め。拘束。いつもの手順だ。だがそこで初めて破綻した。三枚が回らない。正確には回せない。平衡の陣にこれまでの何倍もの魔力を注いでいるせいで。戦闘に回せる魔力が足りないのだ。これまで僕は魔力の量に困ったことがなかった。どんな深さでも燃費で賄えてきた。でもこの圧の中では。燃費の良さすら追いつかない。
僕は拘束を諦めた。二枚に絞る。守りと攻め。それでもまだ重い。結局守りを最小限にして攻めに賭けた。一撃で急所を抜く。外せば次はない。狙いを定める。この視界すら歪む場所で。揺れる輪郭のその中心を読む。撃った。通った。魔物が崩れ落ちる。僕はその場に片膝をついた。息が上がっている。いや息ではない。身体の芯が震えていた。たった一戦。それだけで僕の魔力は四分の一近く消えていた。この深さでは戦闘は一度きりの賭けになる。二度目はたぶんない。その事実が静かに僕を締めつけた。
立ち上がって、僕はまた進んだ。いや進むというより進まざるを得なかった。立ち止まっていても、削られる。なら進んだほうがましだとそのときは思った。その判断が正しかったのかどうか。今でも分からない。歩きながら、僕は自分の来た道を思い返していた。
二年前僕は査定表の三文字にうつむいていた。あの頃の僕に今のこの光景を見せたら何と言うだろう。たぶん信じない。燃費最悪の不適性が深層の半ばを単独で歩いている。そんな話あの頃の僕なら鼻で笑っただろう。いや笑いもしないか。あの頃の僕は笑う気力もなかった。ただ屋上の隅で握り飯を一つ食べて胸の裏の熱に触れていた。あの熱が僕をここまで運んだ。得も意味もない名前のない衝動が。そして今その衝動は僕を殺そうとしている。
可笑しな話だった。僕を生かしてきたものが僕を殺す。でもたぶんそれは同じことなのだ。この熱がなければ僕はここにいない。ここにいなければ死にもしない。代わりにあの底も見られない。どちらを取るかと問われれば。答えは決まっている。決まっているから僕は進む。
しばらく進んで僕は決定的なことに気づいた。いや気づいたというより確かめようとして、確かめてしまった。
この圧は一方通行だった。
増える一方で決して緩まない。浅いほうへ戻れば圧は下がるはず——そう思って僕は一度数メートル引き返してみた。当然下がると思っていた。入ってきた道を戻るのだから。同じ場所に戻るのだから。
だが。圧は下がらなかった。いや。正確には下がったがそれはほんのわずかだった。僕はもう一度数メートル戻った。それでもわずかにしか下がらない。三度目に戻ったとき僕は指先が冷たくなるのを感じた。進むときに、倍、倍、と跳ね上がった圧が。戻るときにはほんの少ししか下がらない。まるで片側だけが切り立った崖のように。登るのは一瞬。降りるのは遅々として進まない。その非対称。これが深層半ばの悪夢の本当の質だった。なぜそんなことが起きるのか。僕には分からなかった。
物理の法則としてこんな非対称はあり得ない。行きと帰りで道の性質が変わるなど。でもここは物理の法則が狂っている場所だ。いや、それだけでは説明がつかない。狂っているだけなら狂ったなりの対称性はあるはずだ。これはもっと根本的に何かが違う。
一つ思いついた考えがあった。もし、この圧が場所に紐づいているのではなく。深く入ったという事実そのものに紐づいているとしたら。場所に紐づく圧なら話は単純だ。濃いところから薄いところへ戻れば圧も下がる。当たり前の対称だ。でもこの領域の圧はそうではなかった。戻っても下がらない。まるで圧が僕の今いる場所ではなく僕がこれまでどこまで行ったかを覚えているように。深く入るほど、その記憶が重くなる。そしてその記憶は戻っても消えない。一歩深く踏み込んだ瞬間に、その一歩ぶんの重さが永久に僕に貼りつく。剥がす方法はない。浅いほうへ戻ることはその記憶を消すことにはならないのだ。
馬鹿げた考えだと自分でも思った。場所ではなく履歴が負荷を決める。そんな物理は聞いたことがない。でもこの領域は物理の通じない場所だ。そしてその考えだけがこの片側だけ切り立った崖のような非対称をきれいに説明した。つまり圧は僕が今どこにいるかではなく。僕がどこまで行ったかで決まるとしたら。それならこの非対称は説明がつく。戻っても僕が「そこまで行った」という事実は消えない。だから圧も消えない。そしてその考えはなぜか奇妙にしっくり来た。しっくり来てそして恐ろしかった。もしそれが正しいなら。僕は一歩でも深く入った時点でその一歩ぶんの負債を永久に背負う。返済の手段はない。ただ身体で思い知らされた。
この領域は"進んだぶんだけ戻れる"という当たり前の対称性を持っていない。
行きは坂を転げ落ちるように圧が増し。帰りはその坂を砂の上を這うようにしか戻れない。一歩深く入るごとに。帰り道は、一歩ぶんではなく、その何倍もの距離に化ける。だからこの領域では。"どこまで行けるか"ではなく。"どこで引き返せば帰れるか"の見極めが。文字通り生死を分ける。
そして僕はその見極めを。渇きに引かれて誤った。もう少しだけと三度思った。その三度が致命的だった。進むも退くもこの圧の中では絶えず削られ続ける。しかも退いても、削られる量はほとんど減らない。逃げ場がない。立ち止まれば、削られる。退いても、ほとんど減らない。進めば圧が加速する。どこにも安全な方向がない。これまで僕はいつもいちばん損の少ない一手を選んで生きてきた。量がないぶん、けちにけちにいちばん賢い引き算を積み重ねて。でもこの領域には賢い一手がなかった。どの手も損だ。どの方向へ動いても削られる。選べるのはどれだけ速く損をするかだけ。その中でいちばんあの底に近づける方向。それがたまたま前だった。だから僕は進んだ。賢いからではない。どうせ削られるなら見たいもののあるほうへ。その投げやりにも似た一念だけが僕の足を前へ出させていた。時間そのものが僕を削る罠だった。
背筋が冷たくなった。僕は初めて深層で本当の恐怖を覚えた。これは魔物の恐怖ではない。偏差の濃さの恐怖でもない。構造そのものの恐怖だ。そして僕は理解した。なぜ深層を経験した者たちがあれを「悪夢」と呼ぶのかを。彼らはこの非対称に気づいたのだ。気づいて引き返してそしてうまく説明できなかった。説明しようとすればこうなる。
——進むと圧が跳ね上がるが、戻っても圧は下がらない。
言葉にすればそれだけのことだ。でもその一文がどれほどの恐怖を含んでいるか。実際にその場に立った者にしか分からない。立っていない者にはただの奇妙な現象にしか聞こえない。進むと圧が上がる。まあそうだろうと。戻っても下がらない。ふうん変な場所だなと。その程度に聞こえる。
でもその一文の中に閉じ込められているのは。一歩踏み込むごとに帰り道が何倍にも伸びていくという絶望だ。どこまで行けるかではなくどこで引き返せば帰れるかが生死を分ける。しかもその引き返し点は進むほどに後ろへ遠ざかる。だから深層を経験した者たちはその恐怖を言葉にできなかった。言葉にすればただの奇妙な現象になってしまう。伝わらない。
だから彼らは言葉を諦めた。代わりにこう言った。悪夢だと。それは語彙の貧しさではなく。言葉にできないものをなんとか渡そうとした精一杯の表現だった。でもその一文がどれほどの恐怖を含んでいるか。実際にその場に立った者にしか分からない。立っていない者にはただの奇妙な現象にしか聞こえない。
あの酒の席の男の遠い目を僕は思い出した。あの人はたぶんここに来たのだ。来て気づいて、生きて帰った。帰って、そしてうまく言えないまま、深層を悪夢と呼び続けた。僕は今その悪夢のまっただ中にいる。この領域では留まることすら許されない。立ち止まれば削られる。退いても削られる。進めば圧が加速する。どうあがいても魔力は減っていく。そして魔力が尽きれば。あの指の先から自分が無くなっていくあの死が待っている。
僕は必死に計算した。今の残量。削れ方の加速する曲線。どこまで進めてどこで引き返せば生きて帰れるか。三度計算した。あの夜と同じだ。あの夜も僕は三度計算した。そして三度とも同じ答えが出た。だが計算は無情な答えを返してきた。——もう遅い。この圧の非対称の中ではたとえ今引き返しても。浅い層にたどり着く前に僕の魔力は尽きる。進みすぎた。
この加速する圧の罠の中に。深く入り込みすぎた。あの夜と同じだった。利益に目が眩んだわけではない。でも渇きに引かれて。気づけば帰れないところまで来ていた。違うのはあのときは無知だったということだ。僕は何も知らずに走って逃げて気づけば深すぎるところにいた。でも今回は違う。僕は知っていた。削れ方のずれに、気づいていた。法則が変わるかもしれないと予測していた。引き返すのが賢いと判断してすらいた。その上で進んだ。あの夜よりもたちが悪い。知っていてなお渇きに負けたのだから。こうなることを僕はどこかで予感していた気もする。深いところへ来るほど渇いている僕が計算する僕を追い越していく。その果てがこれだ。自嘲する気力もなかった。
平衡にこれまでの何倍もの魔力を注ぐ。身体強化にも。その二つだけでもう僕の魔力は恐ろしい速さで蒸発していく。陣を組んで戦う余力も危うい。三分割が破綻しかけていた。平衡し身体を強化しそのうえで戦う。その三つを同時に賄うだけの魔力の余裕がもうない。どれか一つでも緩めればそこから削られて死ぬ。僕は追い詰められていた。完全に一人で。誰もいない深層の底で。
それでも僕は頭の一部を使って観察を続けていた。こういうときに観察をやめられないのが僕の性分だった。死にかけながら僕はこの圧の性質を測っていた。どのくらいの間隔で跳ねるか。跳ねる幅はどう変化するか。戻るときどれだけしか下がらないか。その数字を頭の中に刻んでいく。もし生きて帰れたら。この数字は次に来る誰かの命を救うかもしれない。
いや次に来る誰かなどいない。ここまで来られる者が僕以外にいないのだから。だとしたらこの数字は僕自身のためだ。次に僕がここへ来るときのため。次があるという前提で僕は測っていた。それは希望というより癖に近かった。測ることでしかこの世界と向き合えない。
それが僕という人間のいちばん根っこにある形だった。量を持たない僕がこの二年生き延びるために身につけた唯一の作法。だから死にかけていてもやめられない。やめたら僕はたぶんそこで本当に終わる。測ることをやめた瞬間に。僕は僕でなくなる。そんな気がしていた。
それでも僕はまだ諦めていなかった。何か方法があるはずだ。これまでもそうだった。枯渇死の淵でも。灰縄の救援でも。いつも行き詰まったその先に答えがあった。だから考える。
平衡をもっと効率化できないか。試した。もう限界まで効率化されている。これ以上削る無駄がどこにもない。身体強化を切ってみるか。試した。三秒で膝が折れた。この圧の中で身体強化なしでは立っていることすらできない。陣を細くして消費を抑えるか。試した。細くすれば効きが落ちる。効きが落ちれば削られる量が増える。差し引きで損だ。どの方向にも道がない。僕が持っている手札を全部並べて確かめた。燃費。万能の陣。多重と立体と連続起動。その全部がこの圧の前では足りない。
初めてだった。自分の力がこんなにも通じないのは。あの夜の枯渇死の淵が。より深く、より逃げ場のない形で、もう一度口を開けて僕を待っていた。指の先の感覚が。また薄れはじめた。その感覚を僕は二度と味わいたくないと思っていた。なのにまたここにいる。しかもあのときよりずっと深いところで。可笑しかった。可笑しくてその可笑しさの底で。僕はまだ諦めていなかった。




