第四十二話 音のない獣
深層を僕は慎重に進んだ。欲張らない。一歩ごとに削れ方を身体で測る。あの夜、無知ゆえに死にかけたあの教訓を僕は忘れていない。進んで測ってまた進む。その地道な繰り返しだけが深層で生き延びる唯一の方法だった。
途中で、他の探索者の痕跡に出くわした。パーティを組んでいたらしい複数の足跡。足跡は行きと帰りの両方があった。だから彼らはたぶん無事に戻ったのだ。ほっとしている自分に少し驚いた。顔も知らない誰かの生死を僕は気にしていた。深層に来る者はみな同じ賭けをしている。その連帯のようなものがいつのまにか僕の中にも芽生えていたのかもしれない。
二年間僕は誰とも繋がれなかった。班に入れてもらえずいつも一人で潜った。誰かの生死を気にかける余裕などなかった。自分が生き延びることで精一杯だったからだ。でも深層に来て少し変わった。顔も知らない誰かの足跡が行きと帰り両方あるのを見て。ほっとしている自分がいた。この深さに来る者はみな同じ賭けをしている。同じ狂った世界を相手にしている。その言葉を交わさない連帯が。いつのまにか僕の中に芽生えていた。もっともその連帯すら。この先の超深層には持っていけない。あそこには足跡も残らない。誰も来ないのだから。連帯を感じる相手すらいなくなる。深く行くほど僕はあらゆる繋がりから切り離されていく。
またある時にも足跡があった。だがその足跡はあるところで途切れていた。正確には途切れたのではなくそこで引き返していた。引き返したのか。それとも。足跡の脇にまた崩れた武器が落ちていた。今度はダンジョン産の黒い斧。柄の半ばから粉のように崩れている。拾おうとして、指が触れた瞬間さらに崩れた。もう武器としての形すら保っていない。ここがたぶん彼らの限界だったのだ。武器が死に丸腰になり引き返すしかなかった。賢明な判断だ。深層で丸腰は死を意味する。属性のない者魔力の乏しい者は武器なしでは魔物に抗えない。属性があっても深層の魔物の外殻には生半可な出力は通らない。だから深層のこの武器が崩れるあたりが。ほとんどの探索者にとって越えられない天井だった。国が公表している深層到達記録も、たぶん、この天井の少し先までしかない。
その天井を僕は陣一つで越えていく。優越感はなかった。彼らが何年もかけて装備と経験を積み上げてたどり着いた限界。その限界の一歩手前で彼らの武器は砕ける。鋼は中層で。ダンジョン産の得物でもその一層半ほど下で。頼みの綱が狂った定数に耐えきれず粉になる。だから深層のこの深さがほとんどの探索者にとって越えられない天井だった。僕はその天井をただ通り過ぎる。積み上げたものの量では彼らのほうがはるかに上だ。訓練の年月も実戦の数も僕よりずっと多い。でも道が違った。彼らの道には天井があり僕の道にはなかった。武器を持たないというただ一つのことがここでは決定的な差になる。世界がいちばん低く見た収束という力が。武器の死ぬ深層で丸腰にならずに済むたった一つの戦い方を与えている。その皮肉を僕は暗い坑で静かに噛みしめた。むしろ少し奇妙な気分だった。彼らが装備と経験と何年もの訓練を積み重ねて到達した限界を。僕は二年前まで不適性と呼ばれていた身で通り過ぎていく。積み上げたものの量では彼らのほうがはるかに上だ。でも道が違った。彼らの道には天井があり僕の道にはなかった。ただそれだけの違いだった。その違いがここでは決定的な差になる。ただ静かな確信だけがあった。この武器を持たない戦い方こそが深層のためのたった一つの正解なのだと。そしてそれができるのは収束を持つ僕だけなのだと。
深層の魔物は独特だった。浅い層の魔物のように威嚇も咆哮もしない。ただ音もなく影のように忍び寄り殺しに来る。浅い層の魔物にはまだ輪郭があった。殻を持つもの。影のような獣。どこか輪郭は曖昧でもそこに確かにいた。でも深層の獣は違った。闇とほとんど見分けがつかない。黒い塊が黒い闇の中を音もなく滑る。気配で辛うじてそこにいると分かる。そしてその気配すら狂った定数の中では歪んで届く。近いはずのものが遠くに感じられ遠いはずのものが耳のすぐそばで動く。だから僕は探知の陣を絶やせなかった。目を信じられない場所では。掌の上の色のない輪郭だけがこの獣たちの位置を教えてくれる唯一の頼りだった。狂った定数の中で、音そのものがうまく伝わらないのだ。いやそれだけではない気がした。浅い層の魔物は威嚇をする。威嚇には意味がある。相手を退かせるためだ。退いてくれれば戦わずに済む。戦いはどんな生き物にとっても危険だからだ。でも深層の魔物は威嚇をしない。退かせる必要がないからだ。なぜならここでは獲物のほうが圧倒的に少ない。滅多に来ない獲物を逃がす理由がどこにもない。だから彼らは音もなく確実に殺しに来る。その理屈に思い当たったとき僕は少しだけ寒気がした。
僕はここでは圧倒的に珍しい餌なのだ。だから僕は探知の陣を常に薄く張っておく必要があった。平衡。身体強化。探知。この三つを保ちながら進む。魔物が来れば探知を一瞬攻めに切り替える。その切り替えのわずかな隙が命取りになりかねない。深層では一秒の判断の遅れがそのまま死に直結した。僕は何度も音のない獣と渡り合った。二枚同時と連続起動を駆使して。戦い方も少しずつ洗練されていった。深層の魔物は頑丈だ。だから正面から打ち合わない。拘束の陣を先に足元へ敷く。立体に編んだ檻で動きを一瞬縫い止める。その一瞬に攻めの陣を急所へ。この手順がいちばん魔力を食わないと分かった。効率を突き詰める。僕にできるのはいつもそれだけだ。そのたびに魔力は削られた。尋常ではない速さで。効率を突き詰めても削られる。突き詰めなければ、もっと削られる。その差だけが僕の命綱だった。
異変に気づいたのは深層に入って二か月経った頃だったか。僕の消耗の"読み"が狂いはじめた。これまで僕は削れ方の曲線を身体で正確に把握してきた。この深さならこれくらい。この偏差ならこれくらい。その計算が僕の生還を支えてきた。でも深層のあるあたりから。その計算が少しずつ合わなくなってきた。
同じように進んでいるつもりなのに。削られる量がじわじわと予測を上回りはじめる。わずかなずれ。でもそのずれが進むほどに開いていく。まるでこの先で何か根本的なものが変わろうとしているように。僕は足を止めた。立ち止まって僕はこれまでの削れ方のデータを頭の中で並べ直した。浅い層からここまで。偏差の濃さと削れ方はきれいな曲線を描いてきた。濃くなるほど削れる。当たり前の比例だ。
でもこの深層半ばへ近づくにつれ。その曲線が比例を外れはじめている。濃さ以上に削れる。まるで深さそのものが別の何かを上乗せしてくるように。これはただの偏差の濃さの問題ではない。もっと質の違う何かが。この先で待っている。僕はその場でしばらく考え込んだ。可能性はいくつか思いついた。
一つ。僕の測り方がそもそも間違っている。でもこれは考えにくかった。浅い層では同じ測り方で正確に合っていたからだ。
二つ。深層のこのあたりに特殊な地形や資源の影響がある。これも違う気がした。場所を変えても同じずれが出る。
三つ。深さそのものに応じて削れ方の法則が変質していく。これがいちばんしっくり来た。しっくり来ていちばん恐ろしかった。法則が変わるなら僕の計算はある地点から先で丸ごと無効になる。計算が無効になるということは。どこで引き返せば帰れるかが分からなくなるということだ。
これまで僕を生かしてきたのはその計算だった。あの夜も。登用の審査でも。深層のここまでも。全部計算が僕を拾ってきた。その計算が通用しない領域。そこは僕にとっていちばん危険な場所になる。燃費という武器を持ちながらその武器の目盛りが読めなくなるのだから。嫌な予感がした。あの律の記録の残差に初めて気づいたときの。喉の奥に小さな骨が引っかかったようなあの感覚。この削れ方のずれのその先に。何かこれまでの理屈では説明のつかないものが待っている。僕は暗い深層のその奥を見つめた。引き返すなら今のうちかもしれない。まだ余力はある。いやと僕は頭の中で計算をやり直す。余力は十分にある。今なら確実に帰れる。この先へ進めばその確実さが崩れる。法則の変わる領域ではどこが引き返し点なのか分からないのだから。
賢い判断は明白だった。一度戻る。情報を整理する。削れ方のずれをもっと丁寧に測り直して変質の仕方を掴む。その上で次の潜行で慎重に踏み込む。それが正しい。これまでの僕ならたぶんそうした。一歩ずつを旨としてきたのだから。でも。その日の僕はなぜか足を止めなかった。
理由はうまく説明できない。あそこに何があるのか。この目で見てみたい。その渇きがいつものように恐れよりも先に行ってしまう。いや恐れだけではなかった。賢さよりも先に行ってしまったのだ。これまで僕を生かしてきたのは慎重さだった。削れ方を測り、計算し、余裕を残して引き返す。その規律を僕は一度も破らずに来た。破れば死ぬと知っていたからだ。
でもこの日その規律すら渇きは追い越した。あそこに何があるのか見たい。その一念が賢さの手綱を振り切った。恐れを追い越すのはこれまでもあった。でも賢さを追い越したのは初めてだった。賢さは恐れとは違う。恐れは感情だ。熱で飛び越えられる。でも賢さは僕のいちばんの武器だった。その武器を僕自身の渇きが押しのけた。危ないなと頭のどこかで冷たい声がした。その声を聞きながら。僕はまた一歩踏み出していた。
危ないな、と頭のどこかで冷たい声がした。僕の中には二つの僕がいる。計算する僕と渇いている僕。これまでその二人はうまく噛み合っていた。計算する僕が道を測る。渇いている僕がその道を前へ引く。測って引く。引いてまた測る。その二人三脚で僕は深いところまで来た。でも深く潜るほどその均衡が崩れはじめた。渇いている僕のほうが少しずつ大きくなっていく。計算する僕が危ないと囁いても。渇いている僕が見たいとそれを押しのける。これまでは計算する僕が辛うじて手綱を握っていた。でもその手綱が深さに比例して緩んでいく。いつか渇いている僕が計算する僕を完全に振り切る日が来る。その日僕はたぶんいちばん危ういところへ迷わず踏み込む。それがあの底へ辿り着く道なのか。それともあの石碑に名を刻む道なのか。まだ僕には分からなかった。これまでは計算する僕が渇いている僕を辛うじて御していた。でも深いところへ来るほど。渇いている僕のほうが強くなっていく。それがどこへ向かうのか。僕はまだ知らなかった。僕はまた一歩踏み出した。その一歩が悪夢の本当の入口だったことを。僕はまだ知らなかった。




