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第四十一話 深層


深層へ初めて本格的に潜ると決めた朝、僕はいつもより早く目を覚ました。借りている小さな部屋の天井をしばらく見上げていた。寮のあの染みのある天井をふと思い出した。あの頃の僕は燃費最悪の不適性で届かない星をただ諦めきれずにいる子供だった。今の僕は正規の探索者で誰よりも深く潜れる力を握っている。変わったと思う。でも天井を見上げているときのこの胸の奥の疼きだけはあの頃と何一つ変わっていなかった。あそこに何があるのか。この目で見てみたい。その一点だけで僕は今日も起き上がる。




深層への入口はこれまでの坑とは明らかに様子が違った。まず場所が遠い。街から鉄道で二時間そこからさらに送迎の車で山道を四十分。人里から意図的に切り離されている。深層級の坑は国内でも数えるほどしかないのだという。到着したのは朝の早い時間だった。山の空気が冷たい。管理棟はこれまでの詰所と違って鉄筋の頑丈な建物だった。窓が少なく、要塞のように見える。


入口の脇に、石碑のようなものが立っていた。近づいて見た。名前だ。名前が刻まれていた。何十人分もの名前が。この坑で戻らなかった者たちの名だとあとで知った。名前は几帳面に彫られていた。一つ一つ、誰かが時間をかけて刻んだのだろう。その丁寧さがかえってこたえた。名前の主はみなこの坑のどこかで消えた。遺体もたぶん戻らなかった。だから残せるものが名前だけだったのだ。僕はそのいちばん新しい日付の名をしばらく見ていた。三か月前。この人もたぶん僕と同じようにあの入口をくぐったのだろう。自分の名がこの石に刻まれるとは思わずに。そして、戻らなかった。僕の名もあと少しでここに加わる。その可能性を僕は初めて実感として背負った。石碑は脅しではなかった。ただ事実だった。ここはそういう場所だという。


僕はしばらくその石に目を落としていた。これから僕が入る場所はそういう場所なのだ。管理の詰所の空気が重い。職員が僕の登録証を確かめてそれから念を押すように言った。


「単独で深層。……本当に行くんですか」


はいと僕は答える。


「無茶はしないでください。深層はこれまでの坑の延長じゃない。……戻ってこられなくなった者を、私は何人も見てきました」


その声に脅しの響きはなかった。ただ事実を告げていた。この人はたぶんあの石碑に名前が刻まれるたびに書類を書いてきたのだろう。職員は僕にいくつかの確認事項を読み上げた。入坑時刻。最大滞在予定時間。これを超過した場合、捜索は行われるが、深層においては捜索隊の到達可能範囲に限りがあること。つまり深いところで倒れれば誰も迎えには来ない。


その一文を僕は静かに聞いた。最後に緊急連絡先の確認があった。実家の番号を僕はまた書いた。書きながら母の顔が一瞬浮かんだ。この番号にいつか電話が行くかもしれない。そのときの母の顔を僕は想像しないようにした。僕は頷いて入口をくぐった。


入った瞬間分かった。ここは違う。偏差の濃さがこれまで潜ってきたどの坑とも次元が違った。立っているだけで魔力が抜けていく。その速さが滝どころではない。堰を切った洪水のようだった。僕はすぐに掌に陣を組んだ。平衡の陣。狂った定数から身体を守る。それだけでは足りなかった。物理的な圧が四方から身体を軋ませてくる。僕は身体強化の陣も重ねた。二枚。それでようやくまっすぐ立てた。まだ一歩も進んでいないのに。もう二枚の陣を要していた。深層とはそういう場所だった。



進む。道は暗く狂っていた。まっすぐ歩いているつもりでいつのまにか天と地が傾いている。いや傾いているのは僕なのか道なのか。それすら判別がつかない。浅い坑ではこういうとき身体の平衡感覚が正してくれた。でもここではその平衡感覚そのものが狂わされている。三半規管が狂った定数の影響を受けているのだ。


だから僕は視覚を信じないことにした。代わりに陣を頼りにする。平衡の陣は身体を守るだけでなく僕の内側に一つの基準を作ってくれる。その基準をまっすぐの定義にして歩く。距離の感覚も時間の感覚もあてにならない。十歩歩いたつもりで三歩しか進んでいない。あるいはその逆。狂った定数が世界を深く歪めている。浅い層でもこうしたずれはあった。でもあれは誤差と呼べる程度のものだった。ここでは誤差ではない。世界の目盛りそのものが信用できない。僕は歩数を数えるのをやめた。代わりに消耗の量で距離を測ることにした。これだけ削られたならこれだけ進んだはずだと。自分の身体を物差しにする。この深さではそれがいちばん確かな測り方だった。


魔物が出た。これまで見たどの魔物より大きく速くそして——静かだった。深層の魔物は咆哮しない。威嚇もしない。ただ音もなく殺しに来る。最初に気づいたのは風の変化だった。僕の背後の空気がわずかに動いた。振り返る。暗がりの中に輪郭があった。大きい。僕の背丈の三倍はある。なのに、足音がまったくしない。その質量が音もなく動くこと自体が、この場所の異常さを物語っていた。僕は攻めの陣を連続起動で繰り出した。平衡と身体強化を保ったまま。三つ目の陣を連続で差し込む。二枚は同時に。三枚目は時間差で繋ぐ。思考が軋む。二枚を別々に操りながら三枚目のタイミングを計る。その計算を戦いながら続ける。脳の中で三つの流れがぶつかりそうになる。ぶつかれば糸が絡む。絡めば死ぬ。だから絡ませない。僕はぎりぎりのところでその三つを回し続けた。それでもなんとか回した。攻めの陣が魔物の関節を正確に撃ち抜く。巨体が傾ぐ。止めを刺すまでに思っていたより時間がかかった。深層の魔物は頑丈だった。急所を二度撃たなければ倒れない。


魔物を退ける。だがその一戦だけで僕の魔力は平地の坑で一日潜ったのと同じだけ減っていた。数字を確かめて僕は少しだけ背筋が寒くなった。一戦で、一日分。この計算でいくと深層で戦える回数は驚くほど少ない。深層は燃費という僕のいちばんの武器を容赦なく削ってくる。それでも僕の燃費だからまだ進めた。他の誰ならこの入口でもう引き返している。いやそもそもこの一戦で魔力が尽きているだろう。深層に単独で入る者がいない理由が初日で身体に染みた。


少し進んで僕はあるものを見た。朽ちた装備の残骸だった。鋼の剣。半ばから砕けている。砕け方が奇妙だった。折れたというより、崩れた、という表現が近い。断面が鋭くない。まるで内側から脆くなって、自重でぼろりと落ちたような。拾い上げてみると手の中でまた少し粉が落ちた。狂った定数に耐えきれず崩れたのだ。金属の結合そのものがこの場所の法則に耐えられない。その脇にダンジョン産らしい黒い槍が落ちていた。それも穂先が脆く罅割れていた。鋼の剣ほどには崩れていない。でも罅の走り方を見ればあと少しで同じ末路をたどるのが分かる。持ち主はいなかった。武器を失い丸腰でどこへ行ったのか。あるいはどうなったのか。周囲を少し見回してみた。骨のようなものはなかった。でもそれは無事だったという意味ではないのかもしれない。深層では遺体さえ残らないのかもしれない。考えて僕はやめた。あの石碑の名前の一つがこの持ち主なのだろうか。そんなことをふと思った。武器は深層で死ぬ。鋼はこの深層に入るあたりで。ダンジョン産の武器でももう長くはない。



深層の探索者はいずれ丸腰になる。往きは押し通せても、帰りは何で戦うのか。その剃刀の上の計算を彼らは強いられる。予備の武器を何本担ぐか。重さは消耗に直結する。多く担げばその分早く削られる。少なければ帰り道で丸腰になる。どちらを選んでも死に近づく。深層の旅程とはそういう絶望的な引き算の連続なのだ。


——でも僕には関係のない話だ。


僕の陣は崩れない。魔力さえ保てば。僕の武器は僕の魔力そのものだから。魔力が尽きるときはどのみち僕が死ぬときだ。だから武器の寿命を命の寿命と別に勘定する必要がない。その一点だけで僕の旅程は他の探索者よりはるかに単純になる。武器を失う恐怖を僕は最初から持っていない。そのたった一つの優位がこの深層では決定的な意味を持ちはじめていた。考えてみれば奇妙な話だった。僕を不適性と呼ばせたもの。量で焼くしか能がないと世界に思わせたもの。その収束という権能<スキル>が。武器を要らなくする。武器が死ぬ深層で丸腰にならずに済むただ一つの戦い方を与えている。世界がいちばん低く見た力が。世界の誰も行けない場所への唯一の鍵だった。収束。量で焼くしか能がないと世界に思わせた権能。燃費最悪の不適性。二年間僕をいちばん下に置き続けたその力。それが深層で武器を要らなくする。武器が死ぬ場所で丸腰にならずに済むただ一つの戦い方を与えている。量のある者は量で押していつか押し切れなくなる。武器を持つ者は武器を失って丸腰になる。でも僕の武器は僕の魔力そのものだ。その皮肉を僕は暗い深層で静かに噛みしめた。嗤われ続けた二年間がこの一点のためにあったのだと。そう思うとあの惨めさすら少しだけ意味を持ちはじめた。その皮肉を僕は暗い深層で静かに噛みしめた。




どれくらい進んだか。時間の感覚はとうに狂っていた。僕は崩れた装備のその先へ進んだ。深層の、まだ、浅いところ。それでも、これまでのどの坑よりも深い。胸の奥の疼きが静かに灼けていた。


この先に何があるのか。悪夢だ、地獄だ、と経験ある者たちが口を揃えて呼ぶその場所が。そしてそのさらに奥に。誰も帰ってこなかったいちばん深いところが。僕は暗い道のその先を見つめた。


今日はここまでだ。その日はそこで引き返した。深層のごく浅い層。半日もいなかった。それでも外に出たとき僕の魔力は半分近くまで減っていた。管理棟の職員が僕の残量を測って少しだけ目を見張った。


「……半分、残ってますね」


その声には驚きが混じっていた。


「深層から半日で戻って半分。……珍しい」


普通はもっと減るのだと職員は言った。深層に半日いて二割も残っていれば上等なのだと。僕はいつものように曖昧に頷いた。もう臆病なだけですとは言わなかった。その言い訳はここでは通じない。深層に単独で入る時点で臆病ではないからだ。管理棟の職員は深層に来る探索者を何人も見送ってきた人だった。そのうちの何人が帰ってこなかったのか。あの石碑に名前を刻む書類をこの人は何度書いたのだろう。だからこの人の無茶はしないでくださいには重みがあった。脅しでも決まり文句でもない。帰ってこなかった者たちの顔を一人ずつ思い浮かべながら言っている。その声の静かさがかえってこたえた。僕は頷いた。頷きながらこの人に本当のことは言えないなと思った。単独で深層のいちばん奥を目指しているとは。言えばこの人はたぶん必死で止める。止められても僕は行く。だったら言わないほうがこの人を苦しめずに済む。僕はいつものように曖昧に頷いて入口をくぐった。職員はそれ以上何も聞かなかった。深層に来る探索者はみな何かしら普通ではない。いちいち詮索していてはきりがないのだろう。


帰りの車の窓から僕は暮れていく山を見ていた。初日の感想は単純だった。深層は深い。これまでの延長で考えていたら確実に死ぬ。でも同時に。あの暗い道の先へ進めるという確かな手応えもあった。誰も進めない場所を僕なら進める。その事実だけがこの一日ではっきりした。次はもっと奥へ。一歩ずつ。削れ方を身体で測りながら。石碑の名前を増やさないように。でも確実にあの底へ近づいていく。僕はそう決めて目を閉じた。車が山道を下っていく。揺れの中で胸の裏の熱だけが静かに灼けていた。





それから僕は深層に通うようになった。週に二度。多いときは三度。毎回、少しずつ奥へ。やり方はいつもと同じだった。進んで、削れ方を測って、また進む。地味で退屈で時間のかかる作業。でも僕にはそれしかなかった。いやそれこそが僕の武器だった。量で押す者にはこの作業はできない。量がある者は、押せてしまうから測る必要がないのだ。測らずに押して、いつか押しきれなくなったところで終わる。律がたぶんそうだった。僕は違う。僕には量がない。だから測る。一歩ごとの削れ方を身体に刻み込んでいく。その積み重ねだけが僕を深いところへ運んでいく。




三度目の潜行で僕は簡単な図を描きはじめた。地図と言えるほどのものではない。坑の中では紙もペンもうまく機能しない。だから頭の中に描く。どこで道が分かれたか。どこに魔物の気配が濃かったか。どこで削れ方が跳ねたか。それらを記憶の中に点として置いていく。


点が増えるほど深層の輪郭が少しずつ見えてくる。この作業も誰もやらない類のものだった。深層に来る探索者はたいてい資源を採ることに必死だからだ。地図を作る余裕などない。でも僕には余裕があった。燃費という圧倒的な余裕が。その余裕を僕は記録に注いだ。いつかこの記録があの底への道になる。そう信じて。




五度目の潜行で初めて他の探索者とすれ違った。三人組だった。全員が武装している。でもその武器はどれも罅が入っていた。彼らは僕を見て驚いた顔をした。こんな深さに丸腰の若造が一人でいる。その光景が彼らには理解できなかったのだろう。


「おいあんた」


一人が声をかけてきた。


「装備は?……まさかそれだけで来たのか」


僕は頷いた。男は絶句した。それからこう言った。


「悪いことは言わん。引き返せ。ここから先は武器がなきゃ死ぬ」


その忠告は正しかった。彼らにとっては。でも僕には当てはまらない。僕は礼を言ってそれ以上は何も言わなかった。彼らはしばらく僕を見ていたがやがて自分たちの道を戻っていった。その背中を僕は見送った。彼らの武器はたぶんあと数回の潜行で砕ける。そうしたら彼らはこの深さから退かなければならない。深層はそういう場所だ。誰にとってもいつか天井が来る。僕以外には。




週末になると僕は家に帰った。深層に潜っていることは話していない。母にはいつも通り探索者の仕事をしているとだけ。仕送りの額は増えていた。深層の資源はこれまでとは桁が違う値がつく。一度の潜行で以前の何度分にもなった。母はその額を見て心配そうな顔をした。


「そんなに、稼げるものなの」

「うん。……級が上がったから」


嘘ではなかった。本当のことも言っていない。この家で僕は相変わらずいちばん嘘の上手な人間だった。深層の資源はこれまでのどの層のものとも違った。拾い上げた核は小さいのにずしりと重い。その中に濃い魔力が詰まっている。浅い層の資源が水たまりの水なら。深層の核は凍りついた鉄の塊のようだった。密度がまるで違う。買取所の職員がそれを計るたびに機械の針が振り切れそうになった。浅い階層ではあり得ない濃度。その一つで以前の何十回分もの潜行に匹敵する値がついた。これだけの濃さの魔力をもしうまく引き出せたら。いったい何ができるのだろう。その問いは僕の手には余った。僕はただそれを換金して家に送る。濃い核の使い道のその底知れなさだけをぼんやりと感じながら。



汐里は受験勉強の話をたくさんしてくれた。試験まであと数か月。模試の点数のこと、苦手な科目のこと、志望理由書に何を書いたか。その全部が、僕には遠い昔のことのように聞こえた。あの学校で僕がうつむいていたのはほんの二年前なのに。


もしあの子が受かれば。一年の後期には初回入場がある。僕のときと同じだ。あの子があの一線をくぐる日がそう遠くないところにある。母はその話題になると静かに席を立った。台所へ行ってしばらく戻ってこなかった。この人の恐れは何一つ和らいでいない。むしろ二人目の子供が同じ道を行こうとしている今その恐れは倍になっているのだろう。僕は何も言えなかった。言えるはずがなかった。僕は母が恐れた一線をとっくに越えて。これからもっと越えていこうとしているのだから。





深層に通いはじめて二か月が過ぎた頃。僕の進みは少しずつ鈍りはじめた。理由ははっきりしていた。削れ方が想定より速い。浅い層から積み上げた曲線を深層まで延ばして僕は進める距離を予測していた。その予測が少しずつ外れはじめている。外れ方はいつも同じ方向だった。予測より削られる。最初は誤差の範囲だと思った。でも潜行を重ねるほどそのずれは大きくなっていく。僕は記録を何度も見直した。測り方を疑った。自分の体調を疑った。その日の坑の状態を疑った。どれも原因ではなかった。残る答えは一つ。


深層のどこかから、削れ方の法則そのものが変わりはじめている。


これまでの曲線が通用しなくなる領域がこの先にある。その予感はあの律の残差に気づいたときとよく似ていた。喉の奥に小さな骨が引っかかったような感覚。説明のつかない何かがそこにある。説明がつかないなら確かめるしかない。僕はそう考えた。いつもそうしてきたように。でも今回だけは。確かめること自体が命を賭けることになるかもしれない。そんな予感もあった。それでも行くのだろうなと自分で思った。あの熱はいつも僕の理性より少しだけ先に行く。僕は暗い深層のその奥を見つめた。まだ序の口だと直感が告げていた。本当の悪夢はまだ始まってすらいない。



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