第四十話 境目
深層への最初の一歩を、僕は慎重に選んだ。いきなり底を目指すような無茶はしない。あの夜一度、無知ゆえに死にかけたのだから。僕は深層のいちばん浅いところ。中層と深層のその境目に単独で潜った。誰も雇わず。誰にも頼らず。剥き出しの一人で。
境目はそれでもこれまでとは明らかに違った。入口をくぐった瞬間に、身体がそれを教えてくる。空気に粘りがあった。いや、粘っているのは、空気ではない。空間そのものがどこか歪んでいる。息を吸うたびにその粘りが喉の奥に絡んだ。空気そのものが重いのだ。いや重いのではない。空気の密度が場所によって違う。一歩進むごとにその密度が揺れる。濃いところと薄いところがまだらに入り混じっている。
そのまだらの中を歩いていると。自分の身体の輪郭が少しずつ曖昧になっていく気がした。どこまでが自分で、どこからが、この歪んだ空間なのか。その境目が溶けはじめる。これが深層のいちばん浅いところ。まだ、入口だ。なのに、これほど当たり前が崩れている。
このさらに奥に。悪夢と地獄が待っている。その言葉の意味がほんの少しだけ肌で分かりかけた気がした。まっすぐな道が視界の端でわずかに曲がって見える。目を凝らすとまっすぐに戻る。視線を外すとまた曲がる。定数の狂いがここまで来ると目にも明らかに見えるようになるのだ。
偏差の濃さが次元を越えていた。立っているだけで身体が軋む。物理的な圧が四方から押し寄せる。僕は平衡に魔力を回し身体強化に魔力を回しそして陣を組む。三つを同時に。綱渡りの綱はもう糸のように細かった。少しでも配分を誤れば。あの指の先から自分が無くなっていく感覚がすぐそこに待っている。
三つの魔力を同時に回すのは。三枚の陣を操るのと同じくらい神経を削った。平衡を緩めれば狂った定数に削られる。身体強化を緩めれば圧に押し潰される。陣を緩めれば魔物に殺される。どれ一つ緩められない。三つの皿を同時に回し続ける綱渡り。その綱の上で僕は少しずつ前へ進んだ。平衡の皿。身体強化の皿。陣の皿。その三つを同時に回す。一つでも手を止めれば皿は落ちて割れる。どれも命に直結していた。三つの皿の回る速さはそれぞれ違う。速さの違うものを同時に目で追う。その集中の張りつめ方は。これまでのどの潜行とも違っていた。一歩進むごとに汗が背中を伝う。この境目でこれなら。本物の深層はいったいどれだけの皿を僕に回させるのだろう。その問いの答えが暗がりの奥に静かに沈んでいた。でも僕は進んだ。一歩ずつ。削れ方を身体で測りながら。境目のそのまた少し奥まで。そして確信した。
その確信に至るまでに僕はその境目へ何度か通った。毎回少しずつ奥へ。毎回削れ方を測って。得られたデータは明確だった。境目までは僕の曲線がまだ使える。でもその先では曲線がはっきりと外れはじめる。外れ方の傾きがこれまでのどの層とも違っていた。急だ。しかも進むほど急になる。その傾きをそのまま延長してみた。
延長した先の数字は悪い冗談のようだった。
平衡だけで僕の魔力のほとんど全部を食う。
身体強化にも陣にも回らない。つまりその領域では僕は立っていることしかできない。立っているだけで削られ続ける。削られ続けて、いずれ、尽きる。その計算を僕は三度やり直した。三度とも同じ答えだった。ここから先——本物の深層は。今の僕の力の組み合わせではいずれ行き詰まる。身体強化を切れ切れに挟むやり方では深層の圧には抗いきれない。常に身体を強化し続けなければならない。
僕は境目で暗い深層のほうを見つめた。そこはこれまでのどの闇よりも深く静かで底知れなかった。悪夢。地獄。経験ある者たちがそう呼ぶ場所。そのさらに奥に。誰も帰ってこない、いちばん深いところがある。あの海辺の届かない星が。今はこの地の底の暗がりの奥に瞬いている。行くには一線を越えなければならない。覚醒したときのように。複数の陣を掴んだときのように。また一つ、僕は僕でなくなる恐れのその向こうへ踏み込むことになる。こわいとは思わなかった。思わないことがいちばんこわいことなのかもしれない。
普通ならこわいはずだった。経験ある者がみな悪夢だ地獄だと呼ぶ場所。その入口にたった一人で立っている。しかもその先へ行くには母がいちばん恐れた一線を越えなければならない。こわくて当然のはずだった。なのに、僕の胸には恐れが湧かなかった。湧いたのは疼きだった。
あの底に何があるのか。この目で見てみたい。
その渇きが恐れを先回りして灼いていた。こわくないことがこわい。覚醒したときも。枯渇の淵で真形を掴んだときも。僕は恐れるべき場所で恐れずに踏み込んできた。その恐れのなさこそが。母がいちばん恐れたものだったのかもしれない。取り返しのつかないところが変わってはいないか。母のあの問いが。境目の暗がりの奥で静かに蘇った。でもあの熱はもうその問いのずっと先に行っていた。でもあの熱はもう先に行っていた。いつものように。覚醒したときも母の取り返しのつかないところがという問いを僕は胸の裏の熱で追い越した。枯渇の淵で真形を掴んだときもこわいという理性をあの熱が先に追い越していた。今も同じだ。母の問いも、桐山先生の死ぬな、も。全部大事に胸にしまってある。しまってあるのにあの熱だけはその全部を追い越してもう暗がりの奥を見つめている。六つの僕が砂浜で届かない星に手を伸ばしたあの瞬間から。あの熱はいつも僕の理性の一歩先を歩いてきた。理性が危ないと囁くより先にあの熱が行こうと灼ける。その順番だけは二年経っても力を得ても何一つ変わらなかった。
境目から引き返す道すがら僕はふとあの遠い人のことを思った。老いないと噂される静かな目の人。あの人もたぶんこの境目までは来たのだろう。あるいはもっと深くまで。そして一線の手前で引き返したのだ。あの人の渇いた目はそう語っていた。届きたくて、届けなかった者の目。あの人もたぶんこの境目までは来た。あるいはもっと深くまで。
引き返して、あれだけの力と時間を手にしながら。それでも渇きだけは癒えずに残った。届かなかったものはどれだけ他のものを手に入れても埋まらない。僕はそれを知っている。貧しさの中でどれだけ他の子に羨まれるものがなくても。あの届かない星だけがずっと僕の胸を灼いていた。あの人の渇きもたぶん同じだ。
老いない身体も、大きな手も、名を必要としない格も。その全部をもってしても埋まらないただ一つの渇き。あの底に届かなかったという渇き。僕はあの人が越えられなかった一線を越えるつもりでいる。だからあの人は僕を見ている。自分の渇きのその先を託せる者として。僕はあの人が越えられなかった一線を。越えるつもりでいる。だからあの人は僕を引き上げた。自分の代わりにそこへ行ける者として。もしそれが本当なら。あの人は僕を道具として見ているのではないのかもしれない。
宵星のように。鉄環のように。便利な戦力として囲うためではなく。自分がどうしても届けなかった場所へ届く者を。ただ見たいのかもしれない。その渇きを僕は少しだけ分かる気がした。僕もあの底を見たいのだから。それは囲い込む手ではなく。送り出す手だ。もしそうなら。あの人と僕はいつか向き合うことになる。同じ渇きを抱えた者どうしとして。
でもそれはまだずっと先だ。今はこの境目の暗がりの奥を見つめることしかできない。同じ渇きを抱えた者どうし。いつかあの人と僕は向き合うことになる。その渇きの正体を確かめるために。でもそれはまだ先だ。今は。僕は境目に立っている。中層と深層の。これまでとこれからの。その境目に。一歩踏み出せば。本物の深層が始まる。僕は静かに息を吐いた。そしてその一歩をいつか踏み出すために。境目の暗がりの奥を僕はじっと見つめた。そこはこれまでのどの闇より深く静かで底知れなかった。悪夢。地獄。経験ある者たちがそう呼ぶ場所。そのさらに奥に。誰も帰ってこないいちばん深いところがある。あの海辺の夜砂浜から見上げた黒い水平線のずっと下に瞬いていた星。その星が今はこの地の底の暗がりの奥に瞬いている。位置は変わった。でもその光の届かなさはあの夜と同じだった。六つの僕が砂に膝をついて見上げたもの。それに今僕は手を伸ばそうとしている。まだ遠い。途方もなく遠い。でもあの夜より確かに一歩近い。僕は境目に立って静かに息を吸った。そして吐いた。その一歩を踏み出す日はもうそう遠くない。まず越えるべき一線の名前を。心の中でそっと確かめた。




