↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/71

第三十九話 剥き出し


卒業した。二年の学年末。僕は正規の探索者になった。学校という隠れ蓑を脱いだ。寮を出て僕は街に小さな部屋を借りた。六畳一間。寮の部屋と広さはほとんど変わらない。違うのは点呼がないことと、消灯がないことだけだった。天井に染みはなかった。その染みのない天井を見上げていると、少しだけ落ち着かなかった。二年間、僕はあの雨漏りの染みを見て目を覚ました。少し歪んだ楕円の端が薄く滲んだあの染み。毎朝いちばん最初に目に入るものだった。それがなくなった。


新しい部屋の天井はのっぺりと白い。汚れも傷もない。その何もなさがかえって僕を落ち着かなくさせた。染みは貧しさのしるしだった。でも同時に僕がそこにいるというしるしでもあった。毎朝あの染みを見てああ今日も始まるのかと思った。拠り所のような染みだった。その拠り所を僕は置いて出てきた。剥き出しになるというのは。守るものを失うことだけではなかった。こういうささやかな拠り所を一つずつ手放していくことでもあった。二年間あの染みを見て起きていたのだ。もう平日を寮で過ごすことも。週末だけ家に帰ることもなくなった。その気になればいつでも家に帰れる。でも同時に、僕はどこの誰でもなくなった。学生でもなく。どこかのクランの社員でもない。ただの一人の正規の探索者。剥き出しの一人だ。


剥き出しになるというのは思っていたより重かった。学生のうちは僕を学校が曖昧に守っていた。校則が、教官が、緩衝材になっていた。でも今は違う。宵星の橘さんは卒業と同時に少し引いた。学生でなくなった僕を簡単には囲えなくなったのだ。鉄環の鷲尾はまだ諦めていない。でもあの常磐縁の"後ろ"を警戒して露骨には動けずにいる。僕は二つの手のどちらにも属さないまま。その危うい隙間を一人で歩いていた。守るものが何もない。でも縛るものも何もない。


その剥き出しの自由が。僕にはむしろ性に合っていた。守るものがない。でも縛るものもない。学生という曖昧な立場を脱いだ。どこかのクランの色にも染まらなかった。僕はただ一人の探索者<ダイバー>だ。誰の物差しにも合わせなくていい。そこそこの落ちこぼれを演じなくていい。自分の見ているずっと下だけを見て進める。


二年間、僕は誰かの物差しの中で自分の値を偽り続けてきた。いちばん下のふりをして本当の力を隠して。その偽りのいちばん外側の皮が卒業と共に剥がれた。剥がれた下から出てきたのは寒さではなかった。自由だった。誰にも測られない自由。誰にも合わせない自由。その自由を僕は生まれて初めて手にしていた。思えば僕はずっと一人だった。教室でも。家の食卓でも。誰かといても僕の見ている場所はいつもみんなのずっと下だった。だから剥き出しの一人になったところで。僕の孤独は何も変わらない。教室でいないものとして扱われたときも。家の食卓で言葉を飲み込んだときも。僕はいつも一人だった。誰かと同じ部屋にいても。誰かと同じ食卓を囲んでいても。僕の見ている場所だけはいつもみんなのずっと下だった。その見ている場所の違いが。僕をいつも静かな孤独の中に置いた。だから正規の探索者になって本当に一人になっても。僕の中身は何も変わらなかった。


変わったのはその孤独をもう隠さなくてよくなったこと。そこそこの落ちこぼれを演じなくてよくなったこと。制服というみんなと同じ皮を脱げたこと。それは寂しさというより。ずっと窮屈だった服をようやく脱いだような。解放に近かった。




正規の探索者になって潜れる坑の偏差級がまた上がった。収入も桁が変わった。僕は毎月まとまった額を家に送った。正規の探索者の稼ぎは学生の登用とは比べものにならなかった。潜れる坑の偏差級が上がれば持ち帰る資源の値も跳ね上がる。カウンターに置かれる札束の厚みが月ごとに増していく。その額を僕はほとんど家に送った。


自分の暮らしには六畳一間と坑へ通う金があれば十分だった。欲しいものがなかったのだ。僕の欲しいものは金では買えない。あの底はいくら積んでも売っていない。だから金は家族のほうへ流した。父の夜勤が消える。母の家計簿の皺が伸びる。汐里の学費が心配なくなる。僕の稼いだ金があの狭い集合住宅の暮らしを少しずつ楽にしていく。その手応えだけが名前のない渇きとは別に確かな重さで僕の手に残った。届いているのに届いていない。金はこんなにも届くのに。僕自身は月に一度短く帰るだけの遠い存在になっていた。


生活は単純になった。朝起きる。坑へ行く。潜る。帰る。資源を換金する。その繰り返し。学校にいた頃のような余計な人付き合いは何もない。誰にも演技をしなくていい。誰にも値踏みされない。ただ坑と僕だけ。その単純さが心地よかった。朝起きる。坑へ行く。潜る。帰る。資源を換金する。その繰り返しだけで一日が過ぎていく。学校にいた頃のような演技も値踏みも気疲れもない。ただ坑と僕だけ。坑は僕に嘘を求めない。辛そうな顔も余分な消耗もいらない。うまく組めばいい陣をうまく組む。わざと下手に組む必要ももうない。そのまっすぐさが心地よかった。僕は隠すために力を削って生きてきた。演技のためにいちばん得意なことをわざと下手にやってみせた。それがなくなった。この剥き出しの単純さの中で。僕はようやく自分の力を削らずにまっすぐ使えるようになった。その解放が坑へ向かう朝の足取りを少しだけ軽くした。


もっとも、完全に一人というわけでもなかった。同じ坑に通っていれば顔なじみはできる。灰縄の鵜飼とは時々会った。会えば短い言葉を交わす。


「まだ、一人でやってんのか」

「はい」

「……そうか」


それ以上は言わない。あの日僕が助けたことをこの人は忘れていない。忘れていないからそれ以上口出しをしない。その距離の取り方が僕にはありがたかった。まだ一人でやってんのか。鵜飼は会うたびそれだけを聞いた。はいと僕は答える。そうかと鵜飼は頷く。それ以上は言わない。一人は脆いとあの人は以前言った。その考えを変えてはいないのだろう。でもあの日その脆いはずの一人に五人の命を拾われた。だからあの人はそれ以上口出しをしない。自分の言葉と目の前の事実とを無理に噛み合わせようとせず。ただ僕の生き方を認めるでも、否定するでもなく、そこに置いておく。その不器用な距離が。剥き出しの僕の周りで数少ない押しつけがましくない温度だった。値踏みでも憐れみでもなく。ただ一人の探索者を一人の探索者として認める目。それを僕はこの無口な男から初めてまっすぐに向けられていた。




母から時々短い連絡が来た。汐里が勉強を頑張っていると。父が久しぶりに休みを取れたと。そのささやかな報告が。剥き出しの僕のたった一つの温かい錘だった。剥き出しになってどこの誰でもなくなった僕を。その短い連絡だけがこの世界に繋ぎ止めていた。錘がなければ僕はたぶんどこまでも深くへ流されていく。浮かび上がる理由をなくして。でもこの錘があるから、僕は坑の底からまた浮かび上がってくる。仕送りをするために。母の連絡に返すために。汐里の受験を支えるために。名前のない渇きが僕を下へ引っぱるなら。この名前のある錘が僕を上へ繋ぎ止める。その二つの力の危うい釣り合いの上で。僕は剥き出しの一人として坑と家とを往復していた。どちらが欠けても僕はたぶん僕でなくなる。





そしていよいよ。僕の視界に本物の深層が入ってきた。これまで潜ってきたのは表層から中層まで。そのさらに下。武器が崩壊し、経験ある探索者が悪夢だ、地獄だ、と呼ぶあの深層。


誰も帰ってこないいちばん深いところへ続くその入口。正規の探索者になった僕はようやくその手前まで来た。これまでの坑とは格が違う。噂で聞くだけでも深層の話は他の層とは明らかに毛色が違っていた。浅い層の話は、どこの魔物が強い、どこの資源が高いという具体的な話だ。でも深層の話は違う。誰も具体的なことを語らない。語れないというほうが正しいのかもしれない。ただ悪夢だった、地獄だったと。言葉にならない何かを押し殺すように。その語りえなさが。かえって深層の底知れなさを際立たせていた。


語る者の目が遠くなる。言葉が途切れる。ただ悪夢だった地獄だったと。そのたった二つの言葉に押し込めてそれ以上は語らない。語れないのだ。言葉にできないということは。人の理解の枠の外にあるということだ。枠の外にあるものは身構えようがない。どんな魔物がどんな地形がと想像しても。その想像の全部がたぶん的を外している。その想像の届かなさこそが。深層のいちばんこわいところだった。深層はこれまでの延長ではない。それはもう分かっていた。三枚の陣の思考の壁。平衡と陣と身体強化を同時に賄う魔力配分の壁。そしてそのどれもが、僕に今よりずっと細く、ずっと速い収束を求めてくるだろう。今の細さ、今の速さでは、たぶんまるで足りない。そのまだ形にならない一手が暗がりの奥にあるのは感じていた。深層はたぶんそのすべてを僕に要求してくる。


でも僕は怯まなかった。むしろ胸の奥のあの名前のない熱が。その底知れない暗さを前にして。静かに灼けていた。あそこに何があるのか。この目で見てみたい。海辺で届かない星を見上げたあの日から。僕の渇きは何一つ変わっていなかった。ただその渇きの行き先だけが。今ようやく本物の深さを映しはじめていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。