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第三十八話 半分ない耳


卒業の前日だった。僕は桐山先生を訪ねた。実技棟の教官室。夕方で、他の教官はもういなかった。窓から赤い光が差し込んでいる。その赤い光が部屋の埃を静かに照らしていた。書類の山も、古い槍も、みんな赤く染まっている。二年間、この部屋で桐山先生は何人の生徒を坑へ送り出してきたのだろう。送り出してそのうちの何人が帰ってこなかったのだろう。この部屋の赤い光の中には、たぶんそういう帰ってこなかった生徒たちの影も沈んでいる。


半分ない耳のこの人は。その影の一つ一つをたぶん覚えている。だからこの人は僕にも死ぬなと言う。この赤い光の部屋から送り出す最後の生徒に。もう二度と帰ってこない影を増やさないために。僕はその赤い光の中で深く頭を下げた。


部屋の隅に古い槍が無造作に立てかけてあった。先生が現役の頃に使っていたものだろうか。柄は握りの部分だけ色が深く変わっていた。何年も同じ手が握り続けた跡だ。穂先は丁寧に手入れされているのに、どこか古い傷が幾筋も残っている。受け止めてきた一撃の記録だろう。その槍を先生は教官になった今も捨てずにそばに置いている。深いところで半分の耳を失った人だ。その代償を払ってなお。この人は坑の底で過ごした日々を手放せずにいる。あの槍はたぶんこの人にとって後悔と誇りの両方だった。行って生きて帰った証。そしてそれ以上は行けなかった証。僕はその槍を見ながら。この人の頑張れ死ぬなという言葉の重さを少しだけ深く量った。先生は一人で書類を片付けていた。


「……深澤か」


先生は顔を上げて僕を見た。


「聞いたぞ。飛び級だそうだな。……たいしたもんだ」


その声には祝福とそれから複雑な何かが混じっていた。


「一言ご挨拶をと思って」


僕がそう言うと先生は椅子を勧めた。僕は座った。しばらく沈黙があった。先生は書類を置いてそれからゆっくりと口を開いた。


「俺はな、深澤。……お前に諦めろと言った」


覚えていた。入学して間もない頃。普通科に移れと。探索が、ダイバーだけが人生じゃないと。


「あれは、本心だった。お前の素材はいい。だが収束は、量で殴る奴のための権能<スキル>だ。お前の量じゃ殴りきれん。……そう思った。だから別の道をと」


先生は半分ない右の耳のほうに少しだけ手をやった。


「だが俺は見抜けなかった。お前の本当の値打ちを。……お前が収束をあんなふうに使えるなんて、俺には想像もつかなかった。複数の陣を同時になんてな。俺の長い探索者暮らしでも聞いたことがない」


先生は僕をまっすぐ見た。


「俺はお前を見誤ってた。……すまなかったな」


僕は首を振った。


「先生の忠告は間違ってません」


本心だった。


「先生は、経験からいちばん正しいことを言ってくれた。……ただ僕の権能<スキル>が教科書に載ってなかっただけです」


先生は少しだけ笑った。困ったようなあのいつもの顔だった。


「そう言ってくれると救われるがな」


しばらく沈黙があった。窓の外で鳥が鳴いた。


「一つ、聞いていいか」


先生が言った。


「お前、あのとき……一年の終わりごろだ。ずいぶん様子が変わった時期があった。俺はてっきり、諦めがついたのかと思った。実技をこなすだけになって大人しくなったからな」


覚えていた。あの夜の直後だ。真形を掴んで隠すと決めた頃。


「あれは何があったんだ」


僕は答えられなかった。言えるはずがなかった。あの夜のことを話せば忍び込みも崩落も全部話すことになる。この人は教官だ。聞けば立場上見過ごせない。


「……いろいろ考えることがあって」


僕はそう答えた。先生はしばらく僕を見て。それから追及しなかった。


「そうか」


それだけ言った。その一言に僕はひどく救われた。そうかと桐山先生はそれだけ言った。それ以上は追及しなかった。僕があの夜のことを話せないとたぶん分かっていて。その話せなさごと受け止めて。そうかと頷いた。その短い一言に二年分の何かがこもっていた。


この人は最初から最後まで僕をまっとうに扱ってくれた。いちばん下の査定表のいちばん端にいた僕を。諦めろと言ったときも、頑張れと言ったときも。いつも一人の人間として案じてくれた。その案じに、僕は嘘でしか応えられなかった。でもこのそうかの一言で。その嘘ごと許された気がした。届いているのに届いていない。でも今日だけはその距離の半分くらいは越えられた気がした。この人はたぶん僕が何かを隠していることを知っている。知っていて聞かないでいてくれる。母と同じだ。僕の周りにはそういう人が何人かいる。知っていて聞かない。察していて追及しない。母がそうだった。僕が何かを抱えていることを母はたぶんずっと知っている。知っていて問い詰めない。問い詰めれば僕が困ることを分かっているからだ。


桐山先生も同じだった。あの夜の変化に気づいていながら。それ以上は聞かないでいてくれた。その聞かない優しさに僕はいつも報いられずにいる。報いるには本当のことを話すしかない。でも本当のことを話せばその人を困らせる。だから僕はその優しさを黙って受け取ることしかできない。届いているのに届いていない。その距離を僕はいちばん近しい人たちとの間にこそいちばん深く抱えていた。優しさに嘘で応える。それが核を抱えた僕の変えようのない生き方だった。その優しさに僕はいつも報いられずにいる。それから先生の顔から笑みが消えた。


「……深澤。一つだけ言っておく。俺の最後の授業だと思って聞け」


先生の目が鋭くなった。現役の頃深いところで死にかけた人の目だ。


「お前はこれからもっと深いところへ行くんだろう。その目を見りゃ分かる。お前はいつも俺の知らないずっと下を見ている」


図星だった。


「深いところはな。……想像を絶する。魔力が切れる恐怖なんてまだ序の口だ。もっと下には——俺の口じゃうまく言えん悪夢みたいなものがある。行った奴がみんな地獄だと言うあれだ」


悪夢。

地獄。

またその言葉だった。


「俺はそこまでは行けなかった。手前で引き返した。……だからその先のことは俺にも分からん。ただ」


先生はそこで言葉を切った。そして僕の目をまっすぐ見て言った。


「頑張れ。……そして、死ぬな」


短い言葉だった。でもその一言にはこの人の探索者としての全部が込められていた。諦めろと言った人が。最後に頑張れと言った。そして何より死ぬなと。入学して間もない頃。この人は僕に普通科に移れと言った。あのときの僕はその言葉を突き放しだと感じた。でも今なら分かる。あれはいちばん誠実な案じだったのだ。勝てない戦いに送り出さないための。この人は経験から僕の負けを読んだ。その読みは教科書の上では正しかった。ただ僕の権能<スキル>が教科書に載っていなかった。それだけのことだ。その人が今頭を下げてすまなかったと言う。自分の読みが外れたことを恥じるのではなく。僕の値打ちを見誤ったことを悔いている。そのまっすぐさに。僕はこの人にだけは嘘をつき通すことが少しだけつらかった。


その順番が大事なのだと思った。頑張れだけなら無責任な励ましだ。死ぬなだけならただの心配だ。でもこの人は両方をこの順番で言った。行け。でも帰ってこい。頑張れ。そして死ぬな。その二つは本当は矛盾している。頑張れば、深くへ行く。深くへ行けば、死に近づく。死なないためには頑張らないほうがいい。でもこの人はその矛盾を承知の上で両方を口にした。行かせなければその人の渇きを殺すことになる。行かせればその人の命を危うくする。どちらも選べない。その選べない場所にこの人はずっと立ってきたのだろう。教官として。生徒を坑へ送り出す者として。半分の耳を失ったその代償を知る者として。だからこそこの人の死ぬなには重みがあった。軽々しい心配ではない。深いところのあの淵を覗いた者だけが言える死ぬなだった。


僕はその言葉を胸のいちばん深いところにしまった。いつかあの底でそれを思い出すために。その二つを同時に願うことがどれだけ難しいか。この人はたぶん知っている。行かせれば死ぬかもしれない。止めればその人の人生を奪うかもしれない。そのどちらも選べない場所で。この人は両方を口にした。


「……はい」


僕は頭を下げた。深く。この人にだけは本当のことを言えなかった。母にも言えなかった。汐里にも言えなかった。でもこの人に言えないことは少し種類が違った。母に言えないのは母をこわがらせたくないからだ。この人に言えないのはこの人を困らせたくないからだった。教官であるこの人が僕の秘密を知れば。立場上見過ごせなくなる。崩落も忍び込みも隠してきた核も。全部明るみに出して正しく処理しなければならなくなる。この人のまっすぐさがそうさせる。だから僕はこの人のまっすぐさを守るために嘘をつき続ける。いちばん誠実な人にいちばん不誠実でいること。そのねじれた優しさを。僕はこの日深く頭を下げることでしか償えなかった。誰よりも深く潜れることも。いちばん深いところを目指していることも。それでもこの人のまっすぐな案じは確かに僕の胸に届いていた。届いているのに届いていない。でも今日だけは。その距離の半分くらいは越えられた気がした。


教官室を出た。廊下の向こうから郷田が歩いてきた。久しぶりに見る顔だった。彼は僕に気づいて一瞬足を止めた。何か言いたげに。でも結局何も言わなかった。僕も言わなかった。僕らはただすれ違った。かつて僕を崖の上に立たせた男と。もう同じ盤にはいない。彼は水たまりの中に。僕はそのずっと下へ。二年前この男は僕を崖の上に立たせ続けた。黙ればいないものにされ。言い返せば火を見せられた。その逃げ場のない場所で僕は二年を過ごした。今その男が僕の前で目を伏せる。勝ったとは思わなかった。仕返しをしたいとも思わなかった。ただ僕らはもう同じ盤にはいないのだと静かに思った。彼は彼の水たまりでこれからもいちばんを競っていくのだろう。僕はその水たまりを出て下へ行く。二度と交わらない別々の方向へ。だから恨みももう湧かなかった。水たまりの中の勝ち負けは。下を目指す僕にはもう遠い他人事だった。すれ違いざま郷田がほんの少しだけ目を伏せたのが分かった。


それだけだった。それで十分だった。言葉はなかった。謝罪も和解もなかった。ただ目を伏せた。二年間僕を崖の上に立たせ続けた男が。最後にほんの一瞬目を伏せた。それは負けを認める仕草だったのかもしれない。あるいはただ気まずさだったのかもしれない。どちらでもよかった。僕はこの男に勝ちたかったわけではない。ただこの男の作った崖から抜け出したかっただけだ。そして僕は抜け出した。この男の立つ水たまりのずっと下へ。伏せられた目はその僕らのあいだの埋めようのない深さを。言葉よりも静かに告げていた。もう交わらない。その事実だけを確かめて。僕らはすれ違い別々の方向へ歩いていった。



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