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第三十七話 巣立ちの前


卒業の日取りが決まった。二年の学期末。通常の卒業より一年以上早い巣立ちだった。掲示が出た日教室がざわついた。飛び級卒業はこの学校でも数年に一度あるかどうかの話だという。それが二年前まで不適性と呼ばれていた生徒に下りた。


誰も僕におめでとうとは言わなかった。言えなかったのだと思う。二年間いないものとして扱ってきた相手にかける言葉をみんな持っていなかった。それでいいと僕は思った。僕も彼らにかける言葉を持っていない。


手続きが進むほど実感が湧いてきた。僕はこの学校を出る。あの上履きを隠され裸足で歩いた廊下を。あの、いてもいなくても同じものとして扱われた教室を。あの、屋上の隅で一人握り飯を食べた場所を。全部、置いて出ていく。二つ買う日は月に何度もなかった。購買のいちばん安い握り飯を一つ。それを風の当たる屋上の隅で食べた。誰も来ない場所だった。誰も来ないからいないものとして扱われる惨めさを少しだけ忘れられる場所でもあった。風は冷たかった。でもその冷たさが僕にはちょうどよかった。教室のあの生ぬるい無視より。屋上のはっきりとした冷たさのほうが息ができた。握り飯一つの昼を僕はもう送らなくていい。好きなだけ買える。でもあの風の冷たい屋上の隅を。僕はたぶんこれから先も時々思い出すのだろう。




不思議と感慨は薄かった。普通なら二年通った学校を去るのだ。少しは寂しさがあってもいい。でも僕の胸にはその寂しさがほとんど湧かなかった。この学校は僕にとって家ではなかった。通り道だった。冷たい通り道。その通り道を抜けるのに感慨を覚える理由はなかった。思い出そうとしても浮かぶのは上履きを隠された下駄箱と肩をぶつけられた廊下と一人で握り飯を食べた屋上の隅ばかりだ。温かい記憶は数えるほどしかない。桐山先生の困った顔。それくらいだ。だから僕は振り返らずに出ていく。振り返るほどのものがこの場所にはない。でもとふと思う。この振り返るもののなさこそが。いちばんこの学校の僕への冷たさを物語っているのかもしれなかった。この学校は僕にとって隠れ蓑であり通過点だった。愛着を持つにはこの場所は僕に冷たすぎた。上履きを隠された。肩をぶつけられた。いないものとして扱われた。その二年間の冷たさを。僕は忘れることはできない。でも恨むほどの熱ももうなかった。この学校は僕を育てなかった。ただ僕が勝手に育つのを見ていただけだ。冷たい水の中で一人深く潜る術を身につける僕を。


それでも、と思う。この冷たさがなければ。僕はこんなにも必死に隠すことを覚えなかった。こんなにも静かに深くを目指さなかった。冷たさは僕を鍛えた。優しさが鍛えられなかったものを。だから僕はこの学校に感謝も恨みもしない。ただ通り過ぎる。始まりの場所として。愛着を持つにはここは僕に冷たすぎた。それでもこの学校で僕は変わった。入学したときの僕はただ燃費最悪の不適性で。届かない星を諦めきれずにいるだけの子供だった。この冷たい学校で。僕は収束の真形を掴み。複数の陣を覚え。そして、隠しながら上っていく術を学んだ。愛着はない。でもこの場所は確かに僕の始まりだった。掌の上の色のない揺らぎを誰にも見せられず。いつかあの底へと、胸の裏だけで灼けていた。


あの頃の僕が今の僕を見たら。たぶん信じないだろう。飛び級でこの学校を出ていく自分を。複数の陣を操る自分を。大人たちが奪い合うその中心にいる自分を。でもいちばん信じないのはたぶんそこじゃない。あの頃の僕がいちばん驚くのは。僕がまだあの底を諦めていないことだ。二年経っても。力を得ても。値が付いても。僕の見ている場所はあの海辺の夜と寸分も変わっていない。それだけはこの冷たい学校も奪えなかった。嫌な始まりだったが。始まりには違いなかった。




卒業の前、僕は久しぶりにあの裏手へ行った。訓練坑の裏蔦の陰。錆びた戸はまだそこにあった。蔦が以前より深く覆っている。あの崩落から二年近く。誰もこの戸のことを問題にしなかった。郷田も取り巻きも口を割らなかった。僕も言わなかった。だからあの夜のことは誰にも知られていない。崩れた坑道は今もあの奥で塞がったままだろう。書類の上では存在しない坑だ。存在しないものは点検もされない。だから崩落も発見されない。そういうことなのだと思う。僕は戸を開けなかった。開けても意味がない。あの奥にあったのは僕のいちばん惨めな時期と。いちばん大事な発見だ。どちらももう持って出た。ここに置いていくものは何もない。この戸の奥で僕はいちばん惨めな夜を過ごした。そしていちばん大事なものを掴んだ。枯渇死の淵で右手が勝手に真形を組んだあの夜。あの夜がなければ今の僕はいない。いまもいちばん下の査定表のいちばん端でうなだれていただろう。この書類の上に存在しない坑が。僕の本当の始まりだった。誰にも知られず記録もされず点検もされないこの暗がりが。だから少しだけ名残惜しかった。この戸だけは僕の秘密を二年間黙って抱えていてくれた。僕は錆びた戸にそっと手を触れた。ざらついた錆が指の腹に粉になって残る。その感触もこれで最後だ。さよならとは言わなかった。ただ蔦の揺れる音をしばらく聞いていた。しばらく蔦の揺れる音を聞いて。僕はその場を離れた。ただ一つだけ。置いていくには少しだけ惜しいものがあった。桐山先生のあの困った顔だ。あの人だけはまっとうに僕を案じてくれた。あの人にだけは一言言っておきたい気がした。




週末、家に帰ると汐里が受験勉強をしていた。中学の最後の学年。机に参考書を広げて。


「お兄ちゃん聞いて」


汐里は顔を上げて言った。


「私やっぱりダイバーの科、受けるよ。決めた」


その目に迷いはなかった。母の恐れも僕の背負っているものも何も知らないまっすぐな目だった。


「学費、高いんでしょ。……でもお兄ちゃんがなんとかしてくれるって言ったから。だから私、精一杯勉強する」


僕はうなずいた。


「ああ。……任せろ」


その言葉に嘘はなかった。僕はもう稼げる。この子の学費くらいいくらでも出せる。ダイバー科の学費は普通科の何倍もする。二年前なら、この子のこの一言は母を青ざめさせただろう。うちには無理だと。でも今は違う。僕が出せる。その事実がこの子のまっすぐな決意を支えている。嬉しいはずだった。妹の夢を叶えてやれる。なのに、胸の奥で冷たい声がする。この子が探索者<ダイバー>になるということは。踏み入れた一歩で覚醒し、あの狂った世界をくぐるということだ。母がいちばん恐れた道を。僕が金で開いてやる。そのねじれ。僕はこの子の夢を応援しながら。同時に母の恐れの扉を押し開けている。任せろと言ったその言葉の裏に。小さな後ろめたさが貼りついていた。


「ねえお兄ちゃん」

汐里が参考書から顔を上げた。


「探索者<ダイバー>ってどんな感じなの」


どんなというのは難しい質問だった。僕は少し考えて答えた。


「暗いところを歩く仕事だよ」

「それだけ?」

「うん。……暗いところをなるべく無駄なく歩いて、必要なものを持って帰ってくる。それだけ」


汐里は少し笑った。


「地味だね」

「地味だよ」


本当にそうだった。派手なのはテレビに出るようなごく一部の特級だけだ。実際の探索は地味な計算と地味な判断の積み重ねでしかない。


「でも」と汐里は言った。


「お兄ちゃん、その話するとき、ちょっと楽しそうだよ」


その一言に僕は言葉を失った。楽しそう、だろうか。自分では分からない。でもこの子がそう見えたのなら。たぶんそうなのだろう。でもと心の隅で冷たい声がする。この子はいつか覚醒する。あの狂った世界をくぐる。そして母が恐れたように変わってしまうかもしれない。あるいはあの悪夢の深層を知ってしまうかもしれない。僕がこの子の道を開くことは。この子をあの世界へ引き入れることでもある。その責任を僕は負えるのだろうか。考えて僕はやめた。それはまだ先の話だ。


でもその"先の話"は。いつか必ず来る。


この子が覚醒し、あの狂った世界をくぐる日。そのとき僕はこの子の隣にいてやれるだろうか。僕はたぶんそのときもっと深いところにいる。誰も帰ってこないいちばん下の暗がりに。この子の初めての潜航を見守ってやることもできないかもしれない。道を開くこととその道を共に歩くことは違う。僕はこの子に扉を開けてやれる。学費を出してやれる。探索者<ダイバー>への道を拓いてやれる。でもその道を一緒には歩けない。僕がこの子の初めての潜航を隣で見守ってやることはたぶんできない。扉を開けた兄はその扉のずっと向こうへ先に行ってしまっている。その後ろめたさを。僕は汐里のまっすぐな目の前でいつも飲み込む。道を開くことしかできない。共に歩くことはできない。でもそれでも。この子があの世界で迷ったとき。兄も同じ暗がりのもっと下にいると。それだけはこの子の支えになるかもしれない。一緒には歩けなくても。同じ闇の中にいる。その事実だけは扉の向こうまで届くかもしれなかった。僕はこの子に扉を開けてやれる。でもその先を一緒には歩けない。それが少しだけ後ろめたかった。今はただこの子のまっすぐな目を曇らせたくなかった。僕は笑って汐里の頭を軽く小突いた。


「勉強、頑張れよ」

「うん!」


その無邪気な返事が。なぜか胸の奥のいちばん柔らかいところに触れた。僕があの底へ危うい道を進み続けるのは。半分は名前のないあの熱のためだ。でももう半分は。このまっすぐな目のためかもしれないと。僕は初めてそう思った。底は第一だ。それは変わらない。でもこの子の笑顔はその熱のすぐ隣に確かな重さで在った。



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