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第三十六話 遠い意向


飛び級卒業の手続きは驚くほど円滑に進んだ。本来なら、いくつもの審査と面談と時間が要るはずだった。でもあの推薦があるだけで。道がするすると拓けていった。まるで見えない手が先回りして障害をどけているようだった。


役所の手続きというのは本来壁の連続だ。書類が足りない。判が違う。担当が不在。そういう小さな壁を、一つずつ越えていくのが当たり前だった。二年間、学費の通知や実習の申請で僕はその壁を嫌というほど味わってきた。なのに、今回は壁がない。行く先々で道があらかじめ均されている。そのなめらかさがかえってこわかった。


壁があるのは当たり前だ。当たり前の壁が消えているということは。誰かがその壁を先回りしてどけているということだ。その手の大きさ。役所の手続きすら静かに捻じ曲げてしまう手が。僕のすぐ後ろにある。触れてはこない。ただ道だけを均していく。その触れなさがいちばん底知れなかった。


窓口に行けば書類はすでに揃っている。面談の日程はこちらが希望を言う前に押さえられている。審査の担当者は僕の顔を見ると、ああと頷いてそれ以上何も聞かなかった。一度職員の一人がこう漏らした。


「……上から話が来てましてね」


上というのがどこの上なのか。その職員もたぶん知らない。上から話が。職員はそう言ってそれ以上は何も説明しなかった。説明できないのだ。その職員自身上がどこの上なのかを知らないのだから。命令は階段を降りてくる。いちばん上の段からいちばん下の段へ。降りてくる途中でその命令の出所は少しずつぼやけていく。いちばん下の段にいるこの職員に届く頃には。出所はただの上という顔のない言葉になっている。


僕はその顔のない言葉のいちばん上の段にあの静かな目の人がいることを知っていた。でもそれを言っても始まらない。この職員も知らないふりをしているのではなく本当に知らないのだ。顔のない命令に、顔のないまま従う。それがあの大きな手の動き方だった。誰の記憶にも顔を残さない。だからいつか僕があの人と向き合うときも。証人はたぶん一人もいないのだろう。知らないまま指示に従っている。その顔の見えなさがいちばん不気味だった。誰かが指示を出している。その指示に窓口の職員が従っている。でもその職員も指示の出所を知らない。上からとだけ聞いている。その上がどこの上なのかは誰も知らない。命令だけが顔のないまま上から下へ流れてくる。その流れのいちばん上にあの静かな目の人がいる。でもその人の名をこの流れの誰一人口にできない。名前のない命令が名前のない職員を動かして僕の道を均していく。そののっぺりとした無名性が。鉄環の剥き出しの圧よりもずっとこわかった。


鷲尾の脅しには顔があった。顔があるものはまだ対処できる。でもこの顔のない手には対処のしようがなかった。ただその手のひらの上を歩かされるしかなかった。僕はその円滑さにかえって落ち着かなかった。努力して勝ち取った道なら胸を張れる。でもこれは違った。僕が何もしないうちに道が勝手に均されていく。その与えられ方が。僕を落ち着かなくさせた。二年間僕は何一つ与えられずに生きてきた。全部自分の手で暗がりの中から掴み取ってきた。なのに、今見えない手が僕の前の壁を次々とどけていく。ありがたいとは思わなかった。むしろこわかった。これだけのことができる手が。いつか僕を掴もうとしたとき。僕は抗えるのだろうか。


道を均す手は道を塞ぐこともできる。その両方が同じ手の表と裏だった。これがあの「大きな手」の力なのだ。鉄環を名前だけで退かせ。宵星の綱引きを飛び越えさせ。卒業の道を均していく。その手は僕に直接は触れてこない。ただ遠くから静かに盤を整えている。


その手の主を僕は一度だけまた遠くから見た。上の偏差級の坑の受付。あの区切られた奥の一角にあの人はまたいた。若く見えるのに、古い空気を纏った静かな目の人。


今度は目は合わなかった。あの人はこちらを見なかった。見る必要がなかったのだろう。もう確認は済んでいる。僕がどういう人間でどこまで行けるのか。あの人の中ではたぶん結論が出ている。その見られなくなったことが。かえって僕を落ち着かなくさせた。二年間僕は見られないことに慣れていた。いてもいなくても同じものとして。だから見られないことは僕にとって痛みではなかった。でもあの人の見なくなり方は違った。あれは無視ではない。


見る必要がなくなったという見なくなり方だ。値踏みが済んだ。結論が出た。だからもう確かめない。その済んでしまった感じが。僕を落ち着かなくさせた。測られているうちはまだこちらにも余地がある。測り方によっては結論が変わるかもしれない。でも測るのをやめられたら。もう何も変えられない。あの人の中で僕はもうある一つの役割に割り振られてしまった。その役割が何なのかは分からない。分からないまま、僕はその手のひらの上を歩かされている。見られているうちはまだ測られている。測られなくなったということは。次の段階に入ったということだ。何の次の段階なのかは分からない。でも確実に何かが動きはじめている。測るのをやめられた。それは僕があの人の中である一つの結論に収まったということだった。その結論が何なのか。便利な戦力ではない。あの人の目にその種の欲はなかった。


もっと別の何か。あの人がずっと届きたくて届けなかった場所へ。僕を送り込むための何か。その考えに辿り着くたびに、僕はそれを打ち消した。考えすぎだと。まだあの人のことは何も分からないと。でも打ち消しても、打ち消しても。層を一つ深く攻略するたびにその考えはまた頭をもたげた。まるで僕が深く潜ることそのものがあの人の意図を証明していくように。僕はその見えない意図の手のひらの上で。自分の渇きのままに深くへ潜っていく。利用されているのか送り出されているのか。その区別さえまだつかないまま。あの人と僕の卒業とが繋がっている。


それはもう確信に近かった。


あの人が常磐縁を通して僕を引き上げようとしている。なぜ。便利な戦力が欲しいだけなら宵星や鉄環と変わらない。でもあの人の目はそういう欲ではなかった。あの渇いた目。何かをずっと欲していて手に入らない者の渇き。あの人は僕の中に何を見たのだろう。僕が深く潜れることを。いやあの人はたぶんそれ以上のものを見ている。僕がいちばん深いところへ行こうとしていること。その渇きの行き先を。あの人自身がずっと届きたくて届けなかった場所を。僕が目指していることを。だからあの人は僕を引き上げる。自分の代わりにそこへ行ける者として。


——ばかなと僕はその考えを打ち消した。


考えすぎだ。まだあの人のことは何も分からない。でも層を一つ深く攻略するたびに。あの人の輪郭がほんの少しずつ像を結んでいく気がした。深く潜るほどあの人が見えてくる。まるであの人と同じ深さに近づいていくように。最初あの人はただの静かな目の人だった。次に老いないという噂が加わった。そして今その手が鉄環を退かせ卒業の道を均すほど大きいことが分かった。層を一つ攻略するたびに。あの人の輪郭がほんの少しずつ濃くなっていく。それは奇妙な感覚だった。僕が深く潜れば潜るほど。あの人の渇きの意味が分かってくる。まるであの人がかつて立っていた深さに僕が少しずつ追いついていくように。あの人もこの道を通ったのだ。この境目を見つめたのだ。そしてどこかで引き返した。その引き返した地点がどこなのかを。僕は自分がその深さに辿り着いたときに初めて知るのだろう。あの人の渇きは、あの人が届かなかった場所の深さそのものだった。


その週末僕は家に帰った。飛び級卒業のことを家族に話すためだった。


どう切り出すか電車の中でずっと考えていた。喜ばせる話ではない。母にとってはいちばん恐れていた道を息子が正式に進むという報告だ。でも隠しておくこともできない。いずれ書類が家に届く。だから僕の口から言うしかなかった。夕食のあと片付けが終わって。汐里が自分の部屋へ行ったあと。僕は切り出した。


「学校を早く出ることになった」


僕がそう言うと母は手を止めた。


「……卒業?まだ、二年でしょう」


「特別な制度で。成績が認められて。……正規の探索者<ダイバー>になる」


母の顔にいろいろな感情がよぎった。安堵と不安と。探索者になるというのは母にとっていちばん恐れていた道だ。でも僕は続けた。


「これでちゃんと稼げる。今までよりずっと。……毎月、まとまった額を家に入れられる。汐里の受験にも、その先にも困らないように」


仕送り。その現実的な言葉が。母の恐れと天秤にかかった。母はしばらく黙っていた。それから小さく言った。


「……あなたが決めたなら」


その声には諦めと、それからほんの少しの頼るような響きがあった。母が僕を止めなくなったのは。僕を信じたからではたぶんない。僕に頼らざるを得なくなったからだ。この家の暮らしが僕の稼ぎで回りはじめている。僕を止めることはその暮らしを手放すことでもある。母は恐れと暮らしとを天秤にかけて。暮らしのほうを選ばざるを得なかった。それは母を責める話ではない。


むしろ僕が母をそういう天秤の前に立たせてしまった。支えることで縛っている。その優しい共犯のような関係を僕は静かに噛みしめた。僕が家族を支える。支えられた家族はその暮らしを手放せなくなる。手放せないから、僕を止められなくなる。止められないから、僕はいちばん危うい道を進み続けられる。その環になった仕組みを僕が自分の手で作った。母を責める話ではない。母は恐れと暮らしとを天秤にかけて暮らしを選んだだけだ。その天秤の前に母を立たせたのは僕だ。届いているのに届いていない。金は届く。でもその金が母の口を塞いでいる。言葉で埋められない距離を金で迂回して埋める。埋めたつもりで距離だけが静かに広がっていく。その優しい共犯を。僕はこれからも続けていくのだろう。底へ行き着くその日まで。父の夜勤は僕の仕送りでもうほとんどなくなっていた。この家を僕が支えている。その事実が母に僕を止めさせなかった。僕は少しだけ胸が痛んだ。僕がこの道を選び続けられるのは。僕が家族を支えているからだ。そして家族を支えるために僕はいちばん家族が恐れる道を進んでいく。そのねじれを。僕は味噌汁と一緒に静かに飲み下した。



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