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第三十五話 盤上


僕を巡る綱引きは日ごとに露骨になっていった。宵星の橘さんは焦っていた。


「深澤くん、頼むよ。鉄環に先を越されたら僕の立場がない」


柔らかい搦め手はもう剥がれていた。


その日の橘さんは、これまで見たことのない顔をしていた。髭の剃り残しがあった。上着に皺が寄っていた。いつも隙のない身なりをしていた人が。


「正直に言うよ」


橘さんはそう切り出した。


「僕は、社内できみを担当することを、自分から買って出た。……面白い数字を見つけたこれは僕の手柄になると。上にそう言った」


だから、とその人は続けた。


「きみを取れなければ、僕は大口を叩いた無能だ。……取れれば次の役職が見える。それだけの話なんだ。恥ずかしいけどね」


その正直さに僕は少し驚いた。この人は、こういうことを言わない人だと思っていた。言わないでいられなくなるほど、追い詰められているのだ。いつも隙のなかった人の髭の剃り残し。皺の寄った上着。その細部の乱れがこの人の追い詰められ方を何よりも雄弁に語っていた。僕を掴めるかどうかに、この人の次の役職が懸かっている。僕というたった一人の学生の去就に。大の大人の人生の一部が揺れている。その事実が、僕にはどこか現実離れして感じられた。


僕はただ深いところへ行きたいだけなのだ。なのに、その渇きのいちばん外側の皮一枚が、こんなにも多くの人間の思惑を巻き込んでいる。僕の知らないところで僕の値打ちが独り歩きして人を振り回している。その制御できなさが僕を少しだけ疲れさせた。僕はこの人を嫌いにはなれなかった。この人は僕を商品として見ていた。でも商品として丁寧に扱ってくれた。鷲尾のように獲物として掴もうとはしなかった。値踏みの目は同じでも。その扱い方の丁寧さにこの人の人柄が滲んでいた。だから僕は少しだけ、申し訳なくも思った。この人の次の役職が僕に懸かっている。なのに、僕はこの人の期待に応えるつもりがない。僕は誰の駒にもならないと決めている。この人が上がろうが下がろうが僕は僕の底へ行く。その冷たさを。僕はこの人の剃り残した髭を見ながら、少しだけ後ろめたく感じた。


嫌いになれない相手を利用し失望させる。それも剥き出しの世界で生きていくということなのかもしれなかった。この人は僕を商品として見ていた。でも商品として丁寧に扱ってはくれた。


この人は僕を掴めば、上がれる。掴めなければ、下がる。僕はいつのまにか橘さんの社内での駒になっていた。



一方の鉄環は常磐縁の"後ろ"に一度退いたはずだった。でも諦めてはいなかった。鷲尾は縁の後ろにいる何かを探ろうと動いていた。その正体さえ掴めば遠慮なく腕ずくに出るつもりなのだ。盤上の駒が少しずつ動いていく。その盤の中央に僕がいた。置かれた駒として。


駒には意思がないことになっている。置かれ、動かされ、時に切り捨てられる。でも僕は駒ではなかった。僕には行きたい場所がある。駒は盤の上の升目を動く。升目から升目へ。どれだけ動いても盤の上から出ることはない。


でも僕が行きたいのは盤の外だった。この盤のどの升目にもない場所。誰も帰ってこないいちばん下の暗がり。彼らは僕を盤の上で奪い合っている。いい升目に置こうとしたり、相手の升目から取り上げようとしたり。その全部が僕にとってはどうでもよかった。どの升目に置かれようが、僕の目はいつも盤のその下を見ている。盤の板の木目のそのさらに向こう。地の底へ続く暗い一点を。駒のふりをしながら。僕は盤を抜け出す穴を静かに探していた。盤の外に。この盤のどの升目にもないずっと下に。だから僕は彼らの手の中で静かに機をうかがっていた。この綱引きから抜け出すその一手を。


綱引きは僕の周りにも影を落としはじめていた。学校の中でさえそうだった。教官の何人かが僕に妙に丁寧になった。クランとの繋がりを疑っているのだろう。同学年の何人かは逆に距離を取るようになった。面倒に巻き込まれたくないという顔で。教官の何人かが僕に妙に丁寧になった。二年間僕を査定表のいちばん端に置いてきた人たちが。今は僕の背後のクランとの繋がりを疑って言葉を選ぶ。その手のひらの返り方を僕は冷めた目で見ていた。彼らは僕を見ているのではない。僕の後ろにある大きな手の影を見ている。


いないものとして扱われるのと避けられるのとでは。どちらも僕を一人にすることに変わりはなかった。ただ理由が値のなさから値の大きさに変わっただけだ。僕はその正反対の理由による同じ孤独を静かに受け入れた。郷田は相変わらず目を合わせない。ただ一度だけ廊下の向こうからこちらを見ているのに気づいた。その目にはもう悪意はなかった。ただ遠いものを見る目だった。僕と彼のあいだにはいつのまにか水たまりとは違う別の距離ができていた。



馬鹿げていると僕は思った。彼らが奪い合っているのは僕の"戦力"だ。複数陣を操る便利な戦力。でもそれは僕のほんの一部にすぎない。僕の本当の価値——誰よりも深く潜れること——を彼らは知らない。知らないまま上っ面の噂だけでこれだけの綱引きをしている。もし彼らが本当のことを知ったら。この綱引きはどれほどの狂騒になるのだろう。複数陣を操る便利な戦力。その薄い皮一枚のために宵星と鉄環がこれだけ争っている。もしその皮の下の本体を彼らが知ったら。誰よりも深く長く在れること。武器が死ぬ深層でも丸腰で歩けること。


その本体の値打ちは複数陣の比ではない。


それを知ればこの綱引きはもっと大きな盤へと移る。宵星も鉄環もそのまた上の大きな手さえも。僕という一点を巡ってなりふり構わず動きだすだろう。僕はたぶんその盤のいちばん中央に釘で打ちつけられる。二度とあの底へは行けなくなる。考えて僕はぞっとした。核を隠し続けてきたことは正しかった。影をくれてやり。本体は暗がりに沈めておく。そのたった一つの方針だけが。僕を盤の外へ逃がし続けてくれる細い綱だった。考えて僕はぞっとした。核を隠し続けてきたのは正しかった。少しでも晒せば僕はもっと大きな盤のもっと激しい奪い合いの中心に据えられる。


その盤を一手で変えたのは。やはり常磐縁だった。ある日彼女は僕に一枚の書類を差し出した。


「飛び級卒業の推薦です」


平坦な声でそう言う。


「一定の登用実績と偏差級を満たせば、通常の卒業を待たず、正規の探索者資格を得られる。……あなたはもう条件を満たしています。あとは推薦が要るだけ。それを用意しました」


僕はその書類を見た。推薦人の欄に僕の知らない名があった。でもその名の持つ重みは書類の格式だけで伝わってきた。推薦人の欄の名を僕は知らなかった。でもその名がただそこに記されているだけで。書類そのものの格が変わっていた。紙の質。印字の精緻さ。判の重々しさ。その全部がこの名の持ち主がどういう世界の人間なのかを無言で告げていた。僕が握り飯一つで昼を済ませていた世界とは。まったく別の場所。名を書くだけで役所の壁が消える世界。その世界のいちばん端が今この書類を通して僕に触れている。この名のさらに後ろにあの遠い人がいる。名を明かさない人が。自分の名は伏せたまま別の名を推薦人に立てて僕の道を均していく。その幾重にも隠された手つきに。僕はあの人の底知れなさをまた一つ思い知った。その紙が今僕の手の中にある。少しだけ現実感がなかった。


「これがあれば、あなたは学生という曖昧な立場から抜けられます。剥き出しにはなる。でも宵星の駒でも、鉄環の獲物でもなくなる。……一人の正規の探索者になれる」


縁の目を僕は見た。


「なぜここまで」

「言ったでしょう」


縁は静かに答えた。


「あなたはもっと上に引き上げられるべき人だから。……宵星や鉄環の盤の上で擦り減らされるには惜しい」


その「上」がまた影を落とした。あの遠い人の。この推薦を用意させたのも。鉄環を名前だけで退かせたのも。同じ大きな手だ。その手は、僕を宵星と鉄環の綱引きからひょいとつまみ上げ。もっと上の盤へ載せようとしている。僕はその手のひらの上で静かに考えた。


飛び級卒業。

学校という隠れ蓑を脱ぐこと。


それは危うい。剥き出しになれば僕の核はいっそう晒されやすくなる。でもと僕は思う。その先にしか上の偏差級はない。深層もそのさらに奥のいちばん深いところも。そして——仕送りも。正規の探索者になれば、収入は桁が変わる。汐里の受験に母の暮らしにちゃんとした備えができる。底は第一だ。でも家族という第二がその決断を静かに後押ししていた。名前のない渇きが第一。それは変わらない。でもその渇きだけでは僕はたぶんここまで迷わずには来られなかった。剥き出しになるその危うさを。核が晒されるその怖さを。押しのけて一歩を踏み出させたのは。名前のある第二の望みだった。父の手の甲の傷。母のゆっくりした手つき。汐里のまっすぐな目。正規の探索者になればその全部をちゃんと支えられる。仕送りの額が桁を変える。


だから、僕は書類を受け取った。名前のない渇きと名前のある望みが。初めて同じ方向を向いた。その珍しい一致が。僕の背を静かに押していた。僕は書類を受け取った。盤の外へ出る。その最初の一歩を踏み出すために。飛び級卒業。それは宵星と鉄環の綱引きを丸ごと飛び越える一手だった。学生でなくなれば橘さんは僕を囲いにくくなる。剥き出しになれば鷲尾も簡単には手を出せない。二つの手のどちらにも属さない。その宙ぶらりんの自由へこの推薦は僕を押し出してくれる。


もっとも、その自由は危うい自由でもあった。守ってくれる隠れ蓑を脱ぐのだから。でも僕は迷わなかった。隠れ蓑の中で安全に擦り減らされるより。剥き出しの寒さの中でまっすぐ下を目指すほうが。僕にはずっと性に合っていた。この推薦を用意したあの遠い手の思惑が何であれ。今はこの抜け道を使わせてもらう。使えるものは使う。二年間のいちばん下の暮らしが僕に教えたことだった。



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