↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/71

第三十四話 思考の壁


自分の力の限界を、僕が初めてはっきりと知ったのはある依頼ダイブの深めの層でのことだった。


これまででいちばん深く潜る依頼だった。中層の下のほう。あと少しで深層に手が届くあたり。偏差はこれまでとは比較にならないほど濃かった。立っているだけで魔力が洪水のように抜けていく。僕の燃費でも絶えず陣を組み続けなければ危うい。そしてその深さで強い魔物の群れに囲まれた。六体。いや暗がりの奥にまだいる。一体ずつならどうということはない相手だった。問題は数と位置だった。


前から二体。

左右からそれぞれ一体。

背後の暗がりに残り。


完全に囲まれている。どこかを塞げば別のどこかが空く。前から二体。左右から一体ずつ。背後の暗がりにまだいる。六体のその先にいくつの気配があるのか、探知の陣でも掴みきれなかった。偏差が濃すぎて探知そのものが鈍っていた。濃い澱みの中に魔物の気配が溶け込んで区別がつきにくい。この深さでは、僕の得意な、戦わずに迂回するという手が使えなかった。迂回する隙間がどこにもないのだ。退路も囲みの中に飲み込まれている。戦うしかない。それも一度に四方を相手に。僕の単層の戦い方が初めて真正面から否定される状況だった。


一つを塞げば一つが空くその逃げ場のなさ。二年前郷田が僕を立たせたあの崖の上に。今度は深層の入口が僕を立たせていた。依頼で組んでいた他の探索者たちはすでに後退していた。この深さでは彼らはまともに動けない。だから実質僕一人でこの状況を捌かなければならなかった。


僕は多重の陣を展開した。守りの陣。攻めの陣。拘束の陣。三枚を同時に連ねて回す。二枚まではもう身体に馴染んでいた。問題は三枚目からだった。三枚を同時に別々に操ろうとすると。脳が追いつかない。右手の意識で一枚。左手の意識で一枚。そして三枚目を——どの意識で動かせばいい。僕には意識の手が二本しかない。左右の手で別々の絵を同時に描く。それが二枚だ。難しいが繰り返せばできる。でも三枚目は。三本目の手が僕には生えていない。どこかから借りてくることもできない。


右の意識で守りを。左の意識で攻めを。そこまではいい。でも拘束をどの手で動かせばいい。右に任せれば守りが緩む。左に任せれば攻めが鈍る。三枚目はいつも他の二枚から意識を少しずつ盗んで成り立っていた。盗まれた二枚はそのぶん薄くなる。薄くなった隙間を魔物は見逃さない。それがこの深さでいちばん危ういところだった。三枚目を動かそうとすると他の二枚が疎かになる。糸が絡む。思考が飽和する。これが限界だった。


その瞬間、守りの陣が一瞬薄れた。薄れた隙間から魔物の一撃が通った。肩を掠めた。掠めただけで身体が大きく弾かれた。この深さの魔物の一撃は掠めるだけでそれだけの威力がある。僕は岩壁に叩きつけられた。息が詰まる。視界が白く飛んだ。岩壁に叩きつけられた瞬間。背中から息が全部抜けた。視界が真っ白になって音が遠のく。その一瞬の空白の中で。時間だけがやけにゆっくりと流れた。肩を掠めた一撃。掠めただけで、これだ。まともに受けていたら。考えるより先に身体が震えた。


この深さの魔物はこれまでのどの魔物とも格が違う。浅いところで無敵だった僕の戦い方が。ここでは通用しない。その事実を身体が痛みとして教えてくる。白く飛んだ視界の中で。僕ははっきりと自分の限界の輪郭を見た。二枚まで。どれだけあがいても同時に操れるのは二枚まで。その壁が白い視界の奥に静かに立っていた。その一瞬の空白の間に。僕ははっきりと理解した。二枚までなのだと。どれだけ細く撚っても。どれだけ束ねても。同時に別々に操れるのは二枚まで。三枚目からは、連続起動で時間差を作ってなんとか繋ぐしかない。


純粋な三枚の同時複合は。僕の思考の速度が追いつかない。これは魔力の問題ではなかった。脳の処理の限界だった。悔しさはなかった。むしろ納得があった。二枚までしか操れない。その限界に突き当たったとき。不思議と悔しさは湧かなかった。湧いたのは静かな納得だった。どんな力にも限界はある。限界がないほうがたぶんおかしいのだ。問題はその限界を嘆くことではない。その限界の際を正確に見極めて。際の内側で最善を組み直すこと。それを僕は二年間いちばん下の暮らしでずっとやってきた。量がないという限界を嘆く代わりに。量がなくてもできることのいちばん際を探ってきた。だから二枚という限界も同じだ。嘆かない。その内側でいちばん賢い戦い方を組む。それだけのことだった。どんな力にも限界はある。


僕は収束が量で焼く力だという世界の前提を覆した。だからどこかで思っていたのかもしれない。自分には限界がないのだと。工夫と効率でどんな壁も越えられるのだと。でもそうではなかった。脳が二本の手しか持っていない。それは工夫ではどうにもならない器の限界だった。魔力は細くすればいくらでも割れる。でもそれを操る意識のほうは二つに割るのが精一杯だ。その事実に僕は不思議と安堵した。限界のない力なんてたぶんこわい。限界があるからこそ僕はまだ僕でいられる。その限界の際を正確に見極めること。それが僕の生き延びる術だった。燃費にも。多重にも。問題は、その限界をどう越えるかだ。二枚までしか同時に操れないなら。三枚目からは連続起動で時間差を作って繋ぐ。それしかない。完全な同時ではなく、限りなく速い連続で。


僕はその場で頭の中で組み立て直した。守りと攻めを二枚で同時に。拘束はその合間に連続起動で差し込む。完璧ではない。でもなんとか回る。完璧ではないけれど回る。そのぎりぎりの解を僕はいつも追い詰められた末に掴む。二枚を同時に。三枚目はその合間に連続で差し込む。完全な同時複合ではなく、限りなく速い時間差の連なりとして。それは妥協だった。


でも僕にとって妥協は敗北ではなかった。限界を正しく知り、その限界の内側で最善を組み直す。それは量を持たない者が二年間ずっとやってきたことだ。できないことを嘆くのではなく。できることのいちばん際を正確に見極める。三枚同時が無理なら連続起動で繋ぐ。そのけちな組み替えの積み重ねが。僕をこの深さまで生かしてきた。


それだけではなかった。その深さではもう一つ別の壁が待っていた。物理的な圧だ。狂った定数が深いほど濃く身体そのものを軋ませてくる。魔物の一撃も浅い層とは比べものにならないほど重い。これまで僕は魔力のほとんどを狂いの平衡——つまり生き延びることと陣に回していた。でもこの深さではそれだけでは足りなかった。濃い偏差の圧に身体が押し潰されそうになる。その圧に抗うために。魔力を平衡だけでなく身体そのものの強化にも回す必要が生まれた。


身体強化。

これまで僕には要らなかったものだ。


身体強化というのは本来基礎中の基礎の技術だ。迷宮<ダンジョン>に踏み込み、覚醒した者なら誰でもなんとなく使える。魔力を筋肉や骨に通して瞬間的に力を増す。学校でも一年の最初に習った。でも僕はそれをほとんど使ってこなかった。使う必要がなかったからだ。僕の戦い方は陣が全部を賄う。殴らないし、走って詰めることもしない。だから身体強化に魔力を割くのはただの無駄だった。その無駄だと切り捨てていたものが。この深さでは生存の条件になっている。


身体強化を僕はずっと馬鹿にしてきた。殴る者の技術だと。その見下していた基礎技術に。今、命を握られている。皮肉なものだった。いちばん軽んじていたものがいちばん深いところで僕の足りない一枚になる。二年間、磨いてこなかったツケがいまいちばん濃い偏差の底で利子をつけて返ってきた。僕は慌ててそれを組んだ。久しぶりに使う技術は驚くほど粗かった。効率が悪い。同じ効果を得るのに他の陣の何倍もの魔力を食う。磨いてこなかったツケがここで回ってきた。二年間僕は陣ばかりを磨いてきた。収束を細く。組成を速く。燃費を極限まで。その一点に全部を注いできた。身体強化のような基礎の基礎は要らないと切り捨てた。その切り捨てたものが。いまいちばん深いところで僕のいちばんの穴になっている。尖った刃物は鋭い。でも尖りすぎた刃物は脆い。僕は収束という一点を鋭く尖らせすぎて。他の全部を疎かにしてきた。そのいびつな尖り方が。浅いところでは無敵に見えた。でも深いところはいびつさを許さない。平衡も、身体強化も、陣も、全部をそこそこにこなせなければ生き残れない。


尖った一点だけでは越えられない壁が。この深さにはあった。僕は陣で戦い、燃費で生き延びてきた。肉体を強化する必要がなかった。でもここでは違う。平衡し陣を組みそのうえで身体を強化する。三つを同時に。魔力を三つに割かなければならない。三枚の陣が思考の限界なら。三つの魔力配分もその深さでは綱渡りだった。平衡し、陣を組み、そのうえで身体を強化する。三つの皿を同時に回す。その綱渡りの綱はこれまでとは比べものにならないほど細かった。一つに気を取られれば、他の二つが揺れる。揺れれば、皿が傾く。傾けば削られる。この深さでは少しの油断がそのまま死に直結した。僕はこの綱渡りを覚えなければならない。もっと上手に。もっと自然に。いつか、意識しなくても三つの皿が勝手に回り続けるように。でも今の僕にはまだそれは遠かった。三つを必死に意識で回している。その必死さがいつか身体に馴染む日まで。僕はこの細い綱の上を一歩ずつ渡っていくしかなかった。




僕はなんとかその群れを退けた。連続起動で時間差を作り、身体強化を切れ切れに挟みながら。命からがらだった。浅い層に退避して僕は荒い息をついた。初めてだった。学外に出てからこんなに追い詰められたのは。そして思った。身体強化を切れ切れに挟むのでは足りない。もっと常に。もっと効率よく。もっと根本から変えられないか。身体強化の陣をもっと細くもっと速く組めるようになれば。意識の手を一本丸ごとそこに取られずに済むかもしれない。攻めと守りのその隙間に。強化を薄く速く滑り込ませる。そういう細さと速さがあれば。そこまで考えて。でもと僕は思い直す。今の細さではまだまるで足りない。どれだけ細くどれだけ速くすればそこへ届くのか。その道の遠さだけがうっすらと見える。まだだ。まだそこには届かない。でも心の底で僕は知ってしまっていた。いつかあの底へ行くには。この細さと速さを今の何倍も研ぎ澄まさなければならない日が来ることを。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。