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第三十三話 連ねる


政争の綱引きとは別に、僕は自分の力を磨き続けていた。灰縄の救援で掴んだあの複数の陣を同時に組む技。それを少しずつ洗練させていく。訓練は地道だった。あの日、極限で掴んだものを平常時に再現する。それが思いのほか難しかった。


命が懸かっていないと糸がうまく割れないのだ。極限で掴んだものを平常で再現する。それがこんなにも難しいとは思わなかった。あの夜もそうだった。枯渇死の淵で右手が勝手に真形を掴んだ。でもそれを平常時に意識してなぞろうとすると指が思うように動かなかった。人の身体は追い詰められて初めて本当の力を出す。その追い詰めを平常時に自分で作り出さなければならない。誰にも教われない。誰にも見せられない。僕の訓練はいつもたった一人の暗がりの中だった。


仲間がいれば互いに打ち合って確かめられるのだろう。でも僕にはそれができない。できないから、僕は自分の身体だけを相手に、同じ動きを何百回も繰り返した。最初の何日かは二本目がまるで立たなかった。焦りかけて僕はやり方を変えた。力ずくで割ろうとするのをやめる。代わりに、まず一本を極限まで細くすることに集中した。細くすれば余りが出る。余った分をもう一本に回す。その順番でなら糸は素直に二本になった。力ずくで流れを二つに裂こうとすると糸はいつも途中で切れた。切れた瞬間両方の陣が崩れる。でもやり方を逆にした。まず一本をこれ以上ないほど細く絞る。絞りきると掌の上に使い切れない魔力がふっと余る。その余った揺らぎを掬い上げてもう一本の線に撚っていく。裂くのではなく余らせて拾う。その順番を身体が覚えたとき。二本目の色のない輪郭が初めて掌の左に素直に立った。最初は二枚を同時に保つだけで精一杯だった。今は違う。複合させる。守りの陣の内側に攻めの陣を編み込む。平らに並べるのではなく立体に重ねる。


球状に組んだ守りの、その表面から攻めの棘を生やすように。


平面の陣は掌の上に一枚の淡い輪郭として浮く。でも立体は違った。色のない揺らぎが僕の身体を薄い殻のように球で包む。その殻の内側から。攻めの線が棘のように外へ伸びる。守りと攻めが別々の場所にあるのではない。一つの球の内と外になっている。だから隙間がない。組み上げた瞬間、無音の圧が身体をぐるりと一周した。自分が色のない繭の中にいるようだった。


この立体化に辿り着くまでにも時間がかかった。最初は二枚を平面に並べていた。右に守り左に攻め。それでも単層よりはずっといい。でも無駄があった。守りと攻めが別々の場所にあるからその間に隙間ができる。隙間は狙われる。なら重ねればいい。そう思いついたのはある依頼で複数方向から囲まれたときだった。平面に二枚を並べていては背後が空く。その空いた背後から一撃をもらいかけた。肩を掠められて僕は思った。平面では囲まれた状況に対応できない。


守りを面ではなく、球にできないか。

自分を色のない殻で丸ごと包んでしまえば。

背後も頭上も足元も隙がなくなる。


その発想はあの追い詰められた一瞬に閃いた。いつもそうだ。安全な訓練場では決して降りてこないものが。命の際でふいに姿を現す。僕の力はいつも崖の上でしか次の一歩を見せてくれない。安全な場所でじっくり磨くのではなく。危ういところで必要に迫られて掴み取る。それが僕の上り方だった。平面に並べていては背後が空く。だったら自分を球で包んでその球から攻めを出せばいい。やってみると思ったより難しかった。平面の陣をそのまま曲げてもうまく機能しない。陣は形が意味を持つ。曲げれば形が変わる。変われば効果も変わる。だから曲げた状態で正しく機能する形を一から組み直す必要があった。それを実戦の合間に少しずつ試していった。さらに、連ねる。一枚目を起動して、消える前に二枚目を。二枚目が消える前に三枚目を。途切れなく連続で起動していく。単発ではなく流れとして。その流れが途切れないかぎり僕は休みなく陣を繰り出せた。



もっとも単層が劣るわけではない。むしろ逆だ。一枚を極限まで速く効率よく組む技は多重を覚えたあとも、僕のいちばんの武器だった。多くの場面では一枚で事足りる。速さと燃費で圧倒できる。多重は単層で足りないときの切り札。その使い分けができるようになって、僕の戦い方は幅を増した。多重を覚えても僕の芯は変わらなかった。一枚を極限まで細く極限まで速く極限まで効率よく組む。その単層の技こそがいまも僕のいちばんの武器だった。


多くの場面では一枚で事足りる。速さと燃費で圧倒できる。多重は派手だ。噂になったのも多重のほうだ。でも僕の本当の凄みはそこじゃない。誰にも見えない単層のその異常な燃費のほうにある。派手な多重を影として世間に見せておいて。地味な単層の本当の凄みは暗がりの中に隠しておく。その使い分けは戦い方の幅であると同時に。核を隠し続けるためのいちばんの方便でもあった。見せるべきものと隠すべきもの。その線引きが僕は少しずつうまくなっていた。


その力を僕はいくつかの依頼のダイブで示した。宵星の紹介で、断れない依頼が回ってくるようになっていた。橘さんの囲い込みの一環だ。


依頼というのはクランが受けた仕事を下請けに回す形のものだ。特定の資源を指定量期日までに。あるいは新しく開いた坑の初期調査。報酬は悪くない。でも条件が厳しいこともある。


僕に回ってくるのはたいてい他の探索者が嫌がる類のものだった。深すぎるか割に合わないかそのどちらか。それでも僕は断らなかった。断れば、宵星との関係が切れる。切れれば、上の偏差級への推薦が止まる。止まれば、深いところへ行けなくなる。だから、受ける。受けて、こなす。こなすたびに僕の評判は上がっていく。上がるほど囲い込みの手は強くなる。


橘さんもそれを分かっていた。分かっていて、僕のいちばんの望みを人質に取っている。推薦という餌をちらつかせながら。僕を少しずつ宵星の色に染めていく。それは鉄環の露骨な圧とは違う静かな締めつけだった。でも都合もよかった。依頼で潜れば金になる。仕送りができる。汐里の受験が近い。だから僕は締めつけられていることを承知の上で、その依頼をこなし続けた。利用されながら利用し返す。その危うい均衡の上で、僕は稼ぎ、そして深くへ潜っていった。でもそれは都合もよかった。僕は依頼をこなしながら着実に稼いだ。


その依頼のいくつかで、僕は他の探索者たちの戦い方を間近に見た。多くの者が武器を使っていた。槍。斧。魔物の牙で打った刀のようなもの。属性のない者や魔力の乏しい者にとって武器は命綱だった。


彼らの戦い方は僕とはまるで違った。まず間合いがある。武器の長さの分だけ相手との距離を正確に測る。その距離を保ちながら機をうかがう。僕にはその感覚がない。陣はどこにでも組めるから間合いという概念が薄い。次に体力が要る。重い武器を振り回すには身体そのものの力が要る。だから彼らは鍛えている。腕も脚も背中も。僕の身体はひょろりとしたままだ。魔力を通す効率さえよければ、筋肉は要らない。そして道具の手入れ。彼らは潜行のあと必ず武器の状態を確かめる。罅が入っていないか。刃こぼれはしていないか。その作業に彼らは驚くほど時間をかける。僕には手入れするものが何もない。その差を僕はぼんやりと眺めていた。彼らは潜行のあと必ず武器を手入れする。柄の罅を確かめ刃こぼれを砥ぐ。その作業に驚くほど時間をかける。武器は彼らの命綱だからだ。命綱の状態を確かめることは明日の命を確かめることでもある。僕には手入れするものが何もない。攻めも守りもその場で組んで、その場で消える色のない陣だ。手入れも予備も要らない。身軽だと以前は思っていた。


でも彼らの丁寧な手入れを見ていると。その身軽さは確かめるべき命綱をそもそも持たないという別の危うさのようにも思えてきた。鵜飼の言葉がまた蘇る。


一人ってのは強いようで脆い。


同じ坑に潜り同じ資源を採っているのに。僕と彼らはまるで違う仕事をしているようだった。


でも彼らは口を揃えて言った。


「中層より下には鋼の武器は持っていけねえ」


鋼——地球の金属で打った武器は中層を越えるあたりで狂った定数に耐えきれず脆く崩れはじめるのだという。


「ダンジョン産の素材で打ったやつでも、せいぜいもう一層半下までだ。それより深けりゃ武器のほうが先に死ぬ」


それを聞いて僕は他の探索者たちを改めて見回した。槍を担ぐ者。斧を提げる者。防具を幾重にもまとった者。彼らの強さはその武器と防具に支えられていた。でもその支えは深いところでは崩れる。鋼は中層で。ダンジョン産の武器でもその一層半ほど下で。深層では彼らは丸腰になる。往きは武器で押し通せても。帰りは何で戦うのか。武器の寿命まで旅程に組み込まなければならない。予備を担ぐその重さも。崩れるその頃合いも。深層の旅はそこまで剃刀の上の計算になるのだという。武器が死ぬ。深いところでは頼みの武器が砕けていく。だから深層からは攻略の質そのものが変わるのだと。僕はそれを聞いて静かに思った。


——僕には関係のない話だ。


僕は武器を使わない。攻めも守りも収束で組む陣だ。陣は魔力さえ保てば崩れない。他の全員が深層で武器を失うその壁を。僕だけは最初から持っていない。武器を持つ者は深層で丸腰になる。鋼は中層で。ダンジョン産の武器でもその一層半ほど下で。頼みの得物が狂った定数に耐えきれず砕ける。だから彼らの深層攻略は武器の寿命との剃刀の上の計算になる。でも僕は違う。攻めも守りも収束で組む陣だ。陣は魔力さえ保てば崩れない。武器が死ぬという壁を僕は最初から持っていない。それは大きな強みだった。でも鵜飼の言葉がまた頭をよぎる。一人ってのは強いようで脆い。武器を持たない身軽さは。裏を返せば確かめるべき命綱も頼るべき仲間も持たないということだ。武器も仲間も持たずにたった一つ自分の陣だけを頼りにいちばん深いところへ行く。その身軽さは強さであると同時に。たった一点が崩れれば何も残らないという剥き出しの危うさでもあった。




依頼の帰り、古参の探索者の一人が酒の席でぽつりと言った。


「……深層な。あれは悪夢だ」


その男の目は遠くを見ていた。


「行った奴はみんなそう言う。地獄だってな。……何が、どう、地獄なのかは生きて帰った奴でもうまく語れねえ。ただ、悪夢だったと。それだけだ」


悪夢。地獄。そのたった二つの言葉だけが。僕の知らない深層という場所の底知れなさを静かに告げていた。何がどう悪夢なのか。生きて帰った者でさえ語れない。語れないほどの何か。それはたぶん魔物の強さでも偏差の濃さでもないのだろう。そういうものなら言葉にできる。言葉にできないというのは。人の理解の枠の外にあるということだ。狂った定数のいちばん濃いところ。そこではたぶん当たり前が当たり前でなくなる。僕はその光景を想像しようとして。できなかった。そしてそのさらに奥に。誰も帰ってこないいちばん深いところがある。僕が行きたい場所が。背筋を冷たいものが伝った。それは恐れだったのか。それとも期待だったのか。自分でも分からなかった。



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