第三十二話 牽制
鉄環の影はその後も僕につきまとった。学外の坑へ行くたび、鷲尾かその配下がどこかにいた。露骨に監視している。急かすように。早く頷け、さもなくば、と。坑の入口で資源を換金する列で、電車のホームで。ふと視線を感じて振り返ると鷲尾の配下がこちらを見ている。目が合っても逸らさない。むしろ、見ているぞと告げるように見続ける。その隠さない監視がじわじわと神経を削った。常磐縁の値踏みの視線はまだ涼しかった。あれにはこちらを上に運ぼうとする意思があった。でも鷲尾の監視は違う。こちらを追い詰め、囲い込むための圧だ。同じ見られるでも。運ぼうとする目と、囲おうとする目とでは、肌に触れる温度がまるで違った。僕は坑に潜っている間だけその視線から解放された。だから僕は以前にも増して坑の底を恋しく思うようになっていた。
やり口はじわじわとしていた。直接手を出してはこない。国の管理下にある坑で登用者に暴力を振るえば、免許に傷がつく。鉄環ほどの大手がそんな真似はしない。代わりに彼らは僕の周りを少しずつ狭めてきた。僕が使っていた買取所が、ある日から僕の資源を買い叩くようになった。理由を聞いても職員は口を濁す。別の買取所へ行くと、そちらではまともな値がついた。
つまりそういうことだ。僕が予約していた坑の枠が直前で埋まっていたこともあった。誰かが先に押さえたのだという。その「誰か」が誰なのかは言わない。どれも証拠のない小さな嫌がらせだ。訴えることもできない。ただじわじわと僕の稼ぎと時間を削っていく。そしてそれが鉄環の意思であることだけははっきりと伝わってくる。
うちに来ればこんな面倒はなくなる。
そう言われているのと同じだった。脅しとしては単純だった。でも単純なぶん、効いた。僕は深いところへ潜っているとき以外、気を抜けなくなった。鉄環のやり方は真綿で首を絞めるようだった。一つ一つは証拠のない小さな不都合だ。買取所の値が少し下がる。坑の枠が直前で埋まる。顔なじみの職員がなぜかよそよそしくなる。どれも単独では偶然と区別がつかない。でもそれが毎日少しずつ積み重なる。積み重なれば偶然ではなくなる。誰かの意思になる。その意思の輪郭が鷲尾の顔でできていることだけははっきりしていた。
直接殴られるほうがまだましだった。殴られれば痛いが終わりがある。でもこのじわじわとした締めつけには終わりが見えない。頷くまで続く。頷けば、終わる。そのたった一つの出口へ僕は静かに追い込まれていた。皮肉な話だった。いちばん危険なはずの坑の底が。僕にとってはいちばん安全な場所になっている。あそこには、鷲尾も、橘さんも、来られない。偏差が濃すぎて彼らではまともに動けないからだ。深く潜れば潜るほど人の手は届かなくなる。その事実に僕は少しだけ救われていた。浅いところは人の世界だ。値踏みと囲い込みと監視の世界。でも深いところは違う。偏差が濃すぎて人の思惑が届かない。鷲尾の圧も、橘さんの搦め手も、あの濃い暗がりの中では意味を失う。深く潜るたびに僕は人の手から遠ざかる。遠ざかることがこんなにも安らぎになるとは思わなかった。いちばん危険な場所がいちばん安全で。いちばん孤独な場所がいちばん自由だ。そのあべこべの安らぎを抱えて。
僕は坑を出るたびにまた人の世界の息苦しさへ戻っていった。可笑しな話だった。世界でいちばん危険な場所が、僕にとってはいちばん安全な避難所になっている。鷲尾も、橘さんも、あの濃い偏差の中ではまともに立つことすらできない。人の手が届かない深さ。それが僕の逃げ場だった。でもと僕は思う。いつまでも逃げてはいられない。坑を出ればそこにはまた剥き出しの世界が待っている。深いところにいる間だけ、僕は自由だ。浅いところに戻るたびに僕はまた盤上の駒に戻る。そのあべこべを。僕は坑を出るたびに噛みしめた。
厄介なのは彼らが僕の価値を正しくは分かっていないことだった。彼らが知っているのは複数陣を操るという噂だけ。僕の本当の核——誰よりも深く長く在れること——は知らない。だから彼らは僕をただの「便利な戦力」として囲おうとする。便利な戦力なら代わりはいる。なのに、奪り合う。その噛み合わなさがこの政争を余計に不気味にしていた。
その均衡を崩したのは常磐縁だった。ある日、鷲尾がいつものように僕に絡んできたときのことだ。その脇に縁がすっと割って入った。一年生の小柄な女子が。大手クランの鷲尾の前に。その光景はどこか現実離れして見えた。鷲尾の巨体の前に縁の小柄な身体はあまりに頼りなく映る。肩の幅も腕の太さも比べるべくもない。力と力で測るなら勝負にならない。
なのに、縁は一歩も退かなかった。
背筋をまっすぐに伸ばして鷲尾を見上げている。その揺るがなさは腕の太さから来ているのではなかった。自分の後ろにあるものの大きさを知っている者の揺るがなさだった。役目を果たすことだけで自分を保ってきた子が。今その役目のために大手クランの前に立っている。この子にとって僕を守ることはたぶん値打ちの証明でもあった。その痛ましいような気負いを。僕は縁のまっすぐな背中に見た気がした。
「鉄環の方が学生の登用者に何の御用ですか」
縁の声はいつもの平坦なものだった。でもその平坦さに鷲尾は一瞬たじろいだ。
「……なんだ、お前は」
「私が誰かではなく」
縁は鷲尾をまっすぐ見上げた。
「私の後ろが誰か。それを確かめてからこの子に手を出すか決めたほうがいいと思います。……鉄環の看板が通じない相手もいますので」
その一言で鷲尾の顔色が変わった。
変わり方が奇妙だった。怒りではない。むしろ青ざめている。この男は心当たりがあるのだ。鉄環の看板が通じない相手。この業界にそういうものが存在することを知っている。知っていて、それが誰なのかはたぶん知らない。知らないから確かめようがない。確かめようがないから退くしかない。その見えない大きさがいちばんこわいのだ。鷲尾ほどの男が名前を確かめようともせず退いた。その事実が僕に水面の下の深さを教えた。僕がこれまで見下してきた綱引き。宵星と鉄環の水たまりの中の小競り合い。そのまた、下に。
底の見えない暗い水が湛えられている。名を持つ者たちを名前だけで退かせる大きな手。その手が常磐縁という細い糸を通して。静かに僕のほうへ伸びてきている。僕はその手の大きさに初めて寒気を覚えた。見下していたはずの世界の思いのほかの奥行き。水たまりだと思っていたものの底が実はどこまでも深かった。その事実は僕をこわがらせると同時に。少しだけ奮い立たせもした。浅いと思っていた世界にさえこれだけの深さがあるなら。僕が目指す本当の底はいったいどれほど深いのだろう。名前のある脅威はまだ対処のしようがある。鉄環と分かっていれば鉄環の格を測れる。でも縁が匂わせた"後ろ"は名前がなかった。名前がないものの大きさは測れない。測れないからどこまでが安全でどこからが危険なのか分からない。鷲尾ほどの男がその測れなさの前で青ざめて退いた。腕ずくの男を腕ずくの通じない何かが名前だけで退かせた。
鉄環という名前はこの業界でそれなりの重みを持っている。武力で名を上げた大手だ。その看板の前ではたいていの探索者が道を譲る。その鷲尾が。一年生の女子の後ろにいる名も知れない者の前で青ざめて退いた。名前のある脅威はまだ対処のしようがある。鉄環と分かっていれば鉄環の格を測れる。測れれば身構え方も決められる。でも縁が匂わせた後ろは名前がなかった。名前のないものの大きさは測れない。測れないからどこまでが安全でどこからが危険か分からない。その測れなさが鷲尾を退かせた。名を持つ者が名を持たない者に屈する。その光景を僕は初めて目の当たりにした。名を明かさずに済むほど大きな手がこの世界にはあるのだ。
僕はその光景を呆然と見ていた。
「常磐さん」
僕は聞いた。
「今の、あなたの後ろって……」
「言えません」
縁は即座に遮った。それから少しだけ声を和らげた。
「でも一つだけ。私があなたを守ったのは親切じゃありません」
縁はそうはっきりと言った。親切ではない。あなたを鉄環なんかに掠われたくないだけ。その身も蓋もない正直さがかえって信じられた。もし縁が親切のふりをしていたら。僕はその裏を疑っただろう。でもこの子は自分の動機を隠さない。
役目のため。値打ちの証明のため。あなたを上に運ぶため。その打算を正直に差し出す。だから僕はこの子の言葉だけは額面どおりに受け取れた。嘘のない打算は下手な親切よりずっと信頼できる。二年間値のなさの中でいろんな人の裏を見てきた僕には。この子の裏のない打算が奇妙に心地よかった。絡め手を使う子がこと自分の動機については驚くほど正直だった。そのちぐはぐさが常磐縁という子のいちばん掴みどころのないところだった。
「……あなたを鉄環なんかに掠われたくないだけです。あなたはもっと上に引き上げられるべき人だから」
上に引き上げる。その言葉に僕は宵星の橘さんの顔を思い浮かべた。でも違うとすぐに思い直した。縁は宵星とは繋がっているが宵星の人ではないと言っていた。この子が言う「上」は橘さんのさらに向こうだ。あの受付の奥にいた遠い人の。老いないと噂されるあの静かな目の人の。その"上"が常磐縁を通して静かに僕に手を伸ばしはじめている。鉄環を名前だけで退かせるほどの手が。僕はその手の大きさに初めて少しだけ寒気を覚えた。水たまりだと思っていた綱引きのその水面の下に。もっと大きなものが沈んでいる。その輪郭が少しずつ見えはじめていた。これまで僕はこの綱引きをどこか他人事のように見ていた。水たまりの中の大人たちの小競り合い。自分はそのずっと下を見ているのだと。でも常磐縁の後ろにいる"何か"は違った。それは水たまりの大人たちを上から退かせる手だ。僕が見下していた綱引きのそのまた上に。もっと静かでもっと大きな手がある。その手が今僕に伸びている。見下していたはずの世界の思いのほかの奥行きに。僕は初めて足元を掬われるような気がした。




